第54話 初代ワラキア公バサラプ

ワラキア公バサラプ

 13世紀、ハンガリー王位に就いたロベルト・カーロイは国内の反発勢力を抑制するために努力を重ねたが、これはワラキア領内の地方貴族(ボイエール)たちをかえって勇気づける結果となった。彼らは東方正教徒であったから、カトリックであるハンガリーへの反抗と独立の闘争はそのまま、彼らの宗教的信条をまもりぬくことにつながった。


 バサラブはこうした背景の中で台頭した。彼は元々南カルパチア地方アルジェシュの豪族で、タタールとの戦いで頭角を現しワラキアの主導権を握る。のち領主たちの推戴を受けて大公となり、13世紀末にワラキア公国を創建した。


 ワラキア公となるやブルガリア皇帝の要請を受けてビザンチン帝国との戦いに参加し、勢力を拡大、東方キリア地方からドナウ川河口北部地方までをその版図に組み込み、いっぽうでハンガリー領のセヴェリンをも占領した。


 ロベルト・カーロイはバサラプとの武力衝突を避け、交渉により活路を見いだす。両者の間には和平が成立し、ハンガリー側がバサラブのセヴェリン占領を黙認、その代償としてワラキアに対するハンガリーの宗主権が認められた。が、ハンガリーは1320年頃、セヴェリン地方奪還を企てて出兵しため、両者の間には戦争状態が再燃した。


 バサラブはワラキアにとって情勢不利と判断、使節を派遣して7千マルクの賠償金と息子の一人を人質として差し出すことを条件に和を求めたが、ロベルト・カーロイはこれを一蹴。要請を拒否した上使節に侮辱を与え、その年の秋にはセヴェリンに攻め入ってこれを奪還する。


さらにロベルト・カーロイがワラキア公国の中心部であるクルテア・デ・アルジェシュに進攻するに至って、パサラプは徹底抗戦の意志を固める。周辺村落をことごとく焼いて敵が補給を現地調達できないようにすると、ゲリラ戦法による反撃を加え、飢えと疲労に悩むハンガリー軍をロヴィシュテヤ地方の渓谷におびきよせた。10月9日から12日の戦闘でバサラブはハンガリー軍を徹底的に打ち破り、殲滅的な被害を与えた。ロベルト・カーロイは国王の印璽を紛失して、一兵卒に身をやつしほうほうのていで戦場から脱したという。


この戦いに勝利したことで、ワラキア公国の存在と君主バサラブの存在が周辺諸国にも認知されることになる。彼は1352年に没するが、それまでにワラキアの版図は南カルパチア山脈とドナウ川の間のすべての土地を含むまでになり、さらには下流の北部デルタ地帯に生息するタタールの統治領域にまで及ぶに至った。

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