第47話 ナッサウ伯マウリッツ

 16から17世紀、宗教戦争期のヨーロッパは強盗と強姦と殺人という、恐怖の連鎖に襲われた。しかしこの次代が多くの技術革新をもたらし、最終的には近代的軍隊の創設につながることになる。その最も重要な立役者がマウリッツ、オラニエ公にしてナッサウ伯である。


 マウリッツは沈黙公ウィレムの息子である。ウィレムは本国ではウィレム・デァ・シュルーとして知られ、英国流にはウィリアム・ザ・ブンデンシャル=慎重なるウィリアム(どういうわけかイギリスの作家は沈黙と慎重さを混同したがった)。実際ウィレムは現代のオランダ・ベルギー・ルクセンブルクを含む、スペイン領ネーデルラントにおける叛乱を組織して慎重かつ深刻な話し合いを持った。叛乱はオランダを永久的にカトリック国にするため、神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)のチャールズ5世の発案と努力で立ち上げられ、チャールズ5世の親友であったウィレムはその縁で叛乱の指導者となり、短期間でオランダの過半を征服するに至った。スペイン王フィリップ2世(チャールズ5世の息子)はスペインを代表する戦士、アルバ公をオランダに派遣、アルバはウィレムを幾たびも打ち破ったが、彼は残忍であったため反乱軍の闘志とかれらの支援者をたやすことができなかった。戦争の中で、多くの攻囲戦と数少ない会戦があった。オランダの都市はすべて精巧な水の防壁を持っており、いざとなれば堰を切って町を水浸しにし、国を守った。


 アルバがオランダでの攻囲中、スペインが金を使い果たし、給与未払いに付き兵士たちがアントワープで荒れ狂い、人々を虐殺した。フィリップはアルバ公の不名誉を思って彼をオーストリアの異母兄・ドン・ジョアン・アウストリアに換えた。ドン・ジョアンは幾たびかの戦場を転戦したが、39才の若さで死んだ。彼の後任がスペインの当代最高の名将、パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼである。パルマは、フィリップが彼の作戦行動を中断させてイギリス、ついでフランスに当てさせるまで、スペインにおいては連戦連勝を誇った。1584、ウィレムは暗殺され、戦争は再び再燃したが、それはオランダの反乱軍にとっては幸せな休息時間であった。オラニエ公の位はナッサウ伯マウリッツに受け継がれた。マウリッツが父の衣鉢を継いだのは17歳の時で、しかもそれ以前は軍人でもなく学生であったが、マウリッツはしかし1590から1594までの4年間、スペイン軍に攻撃を仕掛け、多くの都市を奪還した。さらに重要なことは軍隊の再編と改革である。当時すべてのヨーロッパ軍隊は長柄のスイス・パイク歩兵とクロスボウ兵、そしてアルケブス(銃兵)そして攻囲のための何門かの大砲によって成ったが、若いマウリッツは学生時代に飽きるほどローマの軍事作戦についてその説話を見聞し、軍隊を550人の大隊(ローマのコホートに相当)、と中隊(ローマのマニプルに相当)、そして小隊に細分化した。新規にキャプテン(大尉)を創設し、最もプライベートな部分まで精密に指揮系統を確立した。

これらの革新は彼の軍隊の機動力と指揮系統のふたつをより強靱かつ鋭敏にした。


 ローマ人同様、マウリッツは軍隊の停止地点に居住キャンプを張った。すべての兵士が武器とおなじだけ、ピックとシャベルに通暁することになった。他の軍隊は塹壕掘りのために民間の工夫を雇ったが、マウリッツの軍隊は独自に掘削を行った。マウリッツはまた、オランダの銃製造業者と提携して軽砲を手に入れ、パイク歩兵に対するアルブケスの割合を大きく増した。他の軍隊ではアルブケスは密集陣形の中で戦ったが、マウリッツの部隊では一般的に5段並びの深い列の後ろから狙撃したので、いつでも他の軍隊より迅速なリロードができた。彼らはまた、より早い射撃のために装填、発射、リロード、この2番目の「発射」に関して42種のアクションに習熟することを要求された。これらの動きが完璧にできるようになるまで、マウリッツは部下を数字で呼び訓練した。彼の部下で発砲されていない銃を間違ってリロードした(南北戦争でよくあったこと)をした兵士の記録は一人としてない。


 マウリッツは部下に塹壕を掘らせ、攻撃をやり過ごしてしかるのち反撃した。前衛は射撃を済ませると、リロードするため後衛に下がった。その後ろの部隊がまた発砲し、後ろに下がり、リロードを済ませた最初の兵が前衛に出る。このようにして、彼の軍隊は敵にほぼ間断のない連続的な射撃を加えることができた。マウリッツはパイク兵も厳しく教練した。騎兵隊のチャージ(騎兵突撃)に直面したとき、彼らは最後の一斉掃射の後アルブケスがパイク兵の後ろに避難でききるよう、翼を開かせる訓練を積ませた。軍学者であるマウリッツはヨーロッパ最初の軍学校の創設者でもあり、多くの留学生を受け入れて彼の改革をヨーロッパ中に広めた。マウリッツの改革のうち、その栄光の多くはのちのスウェーデン王グスタフ・アドルフに与えられている。グスタフに寄ればアルブケスに最初に剣を与えて自衛できるようにしたのは自分であるということになるが、マウリッツの騎士ジェイコブ・コブ・デ・ギンの絵を見ればすでにこの当時マウリッツの麾下が銃と剣を帯びていたことは一目瞭然である。グスタフの創始したとされる多くの改革は、実際にはしかしマウリッツの改革の焼き直しか、ちょっとした修正でしかない。


パルマ公は1591にオランダに戻り、マウリッツの攻撃を止めた。しかしフィリップはそこでパルマ公を再度フランスに送る。パルマ公はフランスの地で負傷して1592年、死亡。80年戦争はついにオランダの勝利と独立で終わった。独立したオランダは小国ながら、世界情勢の中で大きな役割を担うことになる。この独立にかかった労力の多くはオラニエ公マウリッツに帰属する。すべての近代的軍隊組織は、彼の軍事改革に端を発すると言って過言ではない。

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