第46話 劉宋・柳元景(りゅう・げんけい)

柳元景(りゅう・げんけい。406-465)

 柳元景、字は孝仁。河東の解のひと。太祖は平陽太守を授かるも拝さず、曽祖父は汝南太守を拝命。祖父は西河太守を拝命し、父は馮翊太守であった。


 柳元景は少年の頃から弓馬に熟達し、しばしば父に従って蛮族を伐ちその勇気を称賛されていた。寡黙なれど度量あり、荊州刺史・謝晦はその勇名を聞いてこれを欲したが、これに応ずるより先に謝晦が失脚したので、柳元景は幸運にもそれに連座することはなかった。また、雍州刺史・劉道産は深く彼の才能を愛し、たまたま荊州刺史の江夏王・劉義恭がこれを召そうとすると道産は「長らく以来、江夏王はわれら雍州の任事を逼迫させてきた。今王の貴きを以って彼を召すあなたをみだりに止めることは難しく、離別の情は心理を見抜く智慧をも曇らすのだ。」と言って憤死、江夏王はその喪が明けると柳元景を荊州に退き抜いた。義恭のもとで累遷して司徒大尉城局参軍。文帝もまた彼を見て、非常にその才を称揚した。


 これより先、道産のもと雍州にあって恵政を広めていると、遠方の蛮族がこぞって帰順し、?水のほとりに村落を作って戸口は非常に繁盛したが、道産死後、蛮族は大挙暴動を起こす。劉駿(のちの孝武帝)は西のかた襄陽を守り、柳元景は義恭の推薦を受けて武威将軍、随郡太守とされる。着任後、柳元景は謀略をめぐらして蛮族数百を擒らえ、その功績で境内は粛然となった。


 随王・劉誕が襄陽に鎮守するようになると、柳元景は改めて後軍中兵参軍とされます。朝廷が大挙北伐に出ると諸鎮の各将が出陣、二十七年八月、劉誕は尹顕祖を派遣して貲谷から出兵させ、魯方平、薛安都、?法起は盧氏に進軍、田義仁は魯陽に出兵し、柳元景は建威将軍を授けられ総軍を統帥した。


 後軍外兵参軍・?季明は三秦の地の大族であり、長安に入れば関、陝の民草を安撫して貲谷から魯氏への侵入を速やかにしてのけると請願。そして廬氏の人・趙難はこれを受け入れた。柳元景は全軍を総督して継進、先鋒をもって深入りさせ、これに継ぐ軍を送らず。顕祖が盧氏まで進軍してくるとこれを諸軍の増援にあてた。柳元景は軍糧が不足し長く作戦活動することが困難であると見て、戦車隊をもって総軍を百丈崖に登攀させ、そこから駆け下りて温谷に出、盧氏に入る。鄧艾の蜀地入りにも匹敵する荒業であった。?法起ら各路諸軍は進軍して方伯堆に駐屯、弘農城から五里の距離に迫る。柳元景は軍を率いて熊耳山を通過し、薛安都を弘農に駐屯させ、法起を進ませて潼関を占拠させ、季明には方平の軍を率いさせ、趙難ら諸軍は陝西に向かって進軍させる。十一月、柳元景率いる本軍は弘農に到達して関方口に野営、ここにおいて柳元景は弘農太守とされた。


 はじめ、薛安都が弘農に駐留してその他の軍は陝西地方に進軍した。まもなく柳元景の本軍が到着し、柳元景は薛安都に「卿は坐して空城を守ることあたわず。今?公が孤軍深入りしているのだ、急ぎ応答し進軍せよ。」と命令した。各路の軍が陝を下したので、陣営を連ねて北魏に逼らせつつ、後方で大いに攻城兵器を造らせる。


 北魏の軍は黄河に臨んで堅固を為し、天険を恃んで守りに入る。?季明、薛安都、魯方平、尹顕祖、趙難らの諸軍はしきりに城を攻めるも抜くことあたわず、柳元景は薛安都、魯方平に命じて陣立てを揃えて城の東南で魏軍を待ちうけさせる。魏兵は大挙これに攻めかかり、軽騎をもって挑戦、ここで安都が大いに瞳怒らせ、矛を携え単騎敵中に踊りかかり、四方冲撃、敵を切り崩せば、ここにおいて諸軍一斉に鼓を鳴らして進軍。しかし魏軍はなお突撃騎兵をもって衆軍を梃子摺らせた。またも薛安都がぶちキレて、兜を脱いで鎧を解き、紅い衣一枚になって魏軍に突撃。猛氣咆勃として向かうところ敵なく、その鋭鋒の前に倒れざるものなし。この衝撃から覚めやらぬ間に追撃を加えれば、宋軍が突きかかるごと魏軍はなぎ倒されるように潰散した。


 魏軍の将が到来すると、方平は偵察の騎兵を派遣して柳元景のもとに報らす。当時各路の将は食糧尽き、各々あと数日分が残るのみ。柳元景はそこで租税の取立てを催し、驢馬を徴収し副将の柳元怙(兄の子らしいです)に騎兵二千を与えて陝・関地方に徴収に赴かせた。徴収部隊は昼夜兼行、一晩にして帰る。その翌日、魏軍はまたも城外に布陣、魯方平ら諸軍は馬歩の軍を並べ、薛安都は総軍騎兵、魯方平の軍はみな歩兵で、掎角の勢(三すくみの状態)をなす。余軍は城の西南に布陣。ここで魯方平が薛安都に向かって曰く「今強敵が前にあり、堅固な城を抜けずば今日が我らの命日となろう。卿がもし進まずば、吾が卿を斬る。吾がもし進まずば、卿が吾を斬れ」薛安都は答えて曰く「卿の言、是なり」ついに合戦となり、薛安都は我慢できない猛烈な憤りに駆られ、矛を取って突撃、北魏の軍に多大な流血を強いた。薛安都は肘から流血し、矛を折るも、これを換えるとなにごともなかったかのように再度突撃。軍副・譚金が数騎を従えてこのあとに続いた。朝から夕までの大会戦で北魏軍は大潰滅、宋軍は軍門に吊るした捕虜二千余人という戦果をあげる。諸将は尽ごとくこれを殺さんと欲したが、柳元景は不可である、として尽ごとく彼らを解放した。魏軍はみな万歳を叫びながら落ち延びた。


 北伐軍は全局面で捷ったわけではなく、王玄謨は敗北、魏軍が劉宋の版図まで深入りするという事態になった。文帝は柳元景に独り進むこと宜しからず(というかほとんど全軍はちゃんと進んでたわけですが、文帝ヘタレですから。檀道済殺すし)として撤兵を要請した。各路諸軍は湖関より白楊嶺を経て長洲に至り、後詰は薛安都、その補佐は宗越。法起は潼関から商城に向かい、柳元景の本軍と合流。季明も胡谷の南から帰って、戦功を立てないものはなかった。劉誕は城に登ってこれを望み、馬に乗って柳元景の凱旋を出迎える。


 時に魯爽が虎牢関に向かいながら撤兵、文帝は柳元景に薛安都らを与えて北に向かわせ、魯爽が失敗したそばから北伐して魏軍を蹴散らした柳元景の威名は、国内外に轟いた。


 劉駿が入京して劉劭を討伐すると、柳元景は諮議参軍、万人の先鋒とされ宗愨、薛安都ら十三の軍勢を隷属させる身となった。時に義軍が粗末な舟に乗って戦うことをも慮らない意気を示す。蕪湖に到って柳元景は大いに悦び、行軍を加速して新亭に至り、山に拠って塁柵を建て、東西に険要をなす。また軍中に令して曰く、「むやみに鼓を撃てば士気は容易に衰退する。喊声が多すぎれば軍力は瞬く間に尽きる。口中に枚を銜えて声なく疾戦し、唯一つわが営の鼓の音のみを聴け」柳元景は偵察に出て賊兵の士気の衰退を察すや、すみやかに命令を下して塁営を開き、鼓を鳴らして奔撃、賊衆を大いに潰走させる。劉劭はまたわずかな余党を率い、自ら塁に攻めかかるも大敗、ひとりほうほうの体で逃げ落ちた。劉駿は新亭で即位し、ここに孝武帝が誕生。柳元景は侍中、領左衛将軍とされ、まもなく寧蛮校尉、雍州刺史、雍州・梁州・南北秦州の四州および竟陵・随の二郡監察諸軍事とされる。はじめ孝武帝は巴口にあり、柳元景に劉劭平定以後の希望を問うた。これに答えて曰く「願うは郷に還るのみ。」これを留まらせるため、再び雍州刺史に叙任。


 はじめ、臧質は造反を思い立つと南?王・劉義宣の愚昧軟弱につけこんでこれを推戴、ひそかに報告を受けた柳元景は軍を領して西に還り、臧質を拿捕する許可をもらうべく証拠の書信を孝武帝(当時は皇太子だった……んでしょうか。とにかくすぐには対処してないです)に呈上し、あわせて「臧冠軍はいまだ殿下が義挙のことを知らぬと思い、逆賊を伐たんと見せかけております。西に還るは容れるべからず。」臧質はこれを知って、柳元景を深く憎むようになった。柳元景が雍州刺史となると、臧質は荊州、江陵の後患を慮り、打開策として国家の爪牙が遠出するのはよろしくありません、と称して柳元景の動きを封じようとする。皇上はその言から違う意を汲み取り、柳元景をさらに領軍将軍に昇進させ、散騎常侍を加え曲江県公に封じてその権力を強めた。


 孝建元年(454)、魯爽が謀叛、朝廷は左衛将軍・王玄謨らを討伐に差し向けた。柳元景は撫軍将軍を加えられ、假節佐官として王玄謨に隷属し、魯爽を討つ(柳元景列伝には書いてないですが、ここで薛安都の大活躍シーンがあります、魯爽の陣に単騎突っ込んでいって、首取って帰って来るという。「関羽の顔良斬り以上の壮挙だ!」とかいわれたそうです)。叛乱討伐後、柳元景は南蛮校尉、雍州刺史、都督とされた。雍州刺史は旧来どおりだが、都督とされたのは大きい。督戦権を主張できるので。


 臧質、義宣がついに叛く。王玄謨は梁山に、垣護之、安都は長江を越えて歴陽に、柳元景は采石をそれぞれ占拠。王玄謨がもっと兵隊寄越せとごねるので、孝武帝は柳元景に命じて進軍させ、姑孰に駐屯させた。柳元景は精兵すべてを王玄謨の凡才のために派遣し、自らは残った弱兵のみで采石を守る。出張った将兵の数は多く旗幟は多く、梁山より望めば数万人、みな言うに京都の軍隊総員がことごとくここに集うと。勝利後、柳元景と沈慶之(柳元景に負けず劣らずの名将)はともに開府儀同三司とされ、柳元景は晋安郡公とされたが、開府儀同三司の開府はどうしてもと固辞した。ゆえに儀同三司、領軍、大使詹事、侍中となる。


 大明三年(459)、尚書令に昇進、大使詹事、侍中、中正は旧来のとおり。嶺南に移封され、巴東郡公と改封された。また左光禄大夫、開府儀同三司とされ、侍中、令、中正は旧来どおり。また開府を固辞して儀同三司のまま。沈慶之とともに晋の密陵候・鄭袤が司空に叙任されながら受けなかった故事を調べる。


 六年(462)、ついに司空に進む。侍中、令、中正は旧来どおり。しかしまたもやこの男が司空を固辞したのでかわりに侍中、驃騎大将軍、南?州刺史とされた。ついでに京師の護衛役も押し付けられる。


 孝武帝、崩御。柳元景は太宰・江夏王の劉義恭、尚書僕射・顔師伯とともに幼主の輔弼を託された。尚書令、領丹陽尹とされ、侍中、驃騎大将軍は旧来どおり。さらに開府儀同三司を加えられ、儀仗兵二十人を賜与されるがそれはまた固辞。とりあえずようやくで開府儀同三司。陳の蕭摩訶なんぞは隋に負けて速攻で開府儀同三司に収まったと言うのに。


 柳元景は幼い頃は赤貧で、かつて京師に剛雷が落ちると日暮れてなお寒く、お客さんのある他所の郷をしきりに羨ましがって慨嘆したものだった。しかし岸辺に独りの老人あり、自ら人相見と言うこの老人は柳元景を見て「君は必ずや富貴を得て、位は三公にのぼるだろう!」といったが、柳元景はこれを戯れとして信じず、「人生は飢餓を免れれば幸甚、なんぞ富貴を望みましょう」老人はなお言って、「ゆめゆめ忘れることなかれ」と言った。富貴を得た後、恩返しをしようとこの老人を捜したものの、ついにその居所を見つけることは出来なかった。


 柳元景は長ずるに及んで一家の長となり、朝廷に入朝するに当たって理事政務を任されても家庭の運用を応用して過失なく、しかも度量大にして美。時に在朝する顕官が財産運営を専らにする中で、柳元景だけが経営理念とは無縁であった。しかるに南岸に数十畝の菜園があり、守園の人が野菜(あるいは果物)を売って銭三万を得、アガリを柳元景の邸宅に送り届けるや柳元景は烈火のごとく怒り、「ワシがここに菜園を立てて種を植えたのは、家中で喰らうためのみ。もしまたこれを売って利ザヤを得ようなどと考えたならば、貴様の百姓としての利益を一切奪ってやるからな!」と、清廉潔白を旨とする柳元景としては許せない行為だったようである。利ザヤになった銭は棄てず、守園の人に全て与えたという。


 孝武帝は厳酷にして暴虐、柳元景に寵愛を与えて優待するとはいえ、常々から災禍がわが身に降りかからないよう、細心の注意を要した。このへん北の孝武帝とは全然違う。向こうは寛大だし、出来る男であったのだが。太宰・江夏王の劉義恭およびもろもろの大臣は足が地に着いた心地がせず、未だかつて互いに往来することすら出来ないと言う始末。さておき、孝武帝が崩じて劉義恭も柳元景も安堵して曰く、「今日初めて横死を免れた」と。劉義恭と義陽ほか諸王、そして柳元景と顔師伯は、これまで常々互いの腹を探り合ってきたことを放り出し、みな痛飲して夜を明かしたという。しかし、前廃帝は幼年ながら残虐無道、心中には王侯への猜疑と恐怖が渦巻き、戴法興を殺したのち、その凶悪な本性を発露させていく。劉義恭や柳元景は憂い且つ懼れ、顔師伯とともに共謀して帝を廃し義恭を皇帝に立てようと考えるが、決起する前に発覚。前廃帝は宿衛の兵を動かして自らこれを伐たんとし、詔と称して柳元景を召す。もちろん罠である。柳元景は身辺の人間尽く逃げ去り、宮中の衛兵も尋常とは違うことを察知。ついに大禍が訪れたかと知るや朝服をまとい車に乗って、召喚に応じて門を出た。途上弟の車騎司馬・柳叔仁に逢うが彼は戎服で左右に壮士数十人を連れ、命を安らがれよと。しかし柳元景は彼らを制して官軍居並ぶ巷に乗りつけ、兵士達は一斉に群がってこの驃騎大将軍を惨殺する。突如の難にもかかわらず、死せる柳元景の顔色は恬淡として生きているが如しだったとのこと。


 長男の柳慶宗は才幹あれど性自堕落で倫理観なく、孝武帝は柳元景に命じて彼を襄陽まで送らせたが、その途中いろいろあったらしく自殺した。ついで嗣宗、紹宗、茂宗、文宗、仲宗、成宗、秀宗と続くが柳元景誅殺に連座してみな害された。柳元景にはさらに六人の弟があり、僧景、僧珍、叔宗、叔政、叔珍、叔仁という。叔仁とその息子数十人は襄陽と京師にあってみな害されたが、柳元景の幼子、承宗、嗣宗とその子柳暮らはみな難を逃れて生を全うした。前廃帝死後、明帝が即位すると、柳元景に大尉を追贈、儀仗兵三十人と鼓笛隊一部を贈り、忠烈公と謚した。

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