第45話 チンギス・ハーン

 チンギス・ハーン、その軍歴は過去のアレクサンダー大王、のちのティムールとともに、世界征服王の最高位の位階に置かれるが、しかしその賞賛さえも彼を正当に評価するには足りない。チンギスはおそらく過去に存在した支配者の中で最も成功した帝国の構築者であり、最も優れた野戦司令官であったこと疑いがない。彼が歿した一二二七年時点、彼がまだ何者でも無かった頃から始まったモンゴル帝国は太平洋からカスピ海まで版図を広げた。それは実にアレクサンダーの帝国の4倍に達するサイズであり、さらにティムール帝国より遙かに強固で堅牢であった。さらに彼の子孫の代で帝国は2倍に膨張し、圧倒的に拡大を続けた。


 軍事家として、また政治家としてチンギスは傑出していたが残忍な性格をもその才能に内包し、アジア中に恐怖の種を蒔いた。彼に反攻せずに降伏した人々は彼とモンゴルのトレードマークである'屠城'を免れることが出来て、まあ例外はあったけれども彼は投降者に対しては慈悲深かった。しかし一旦抵抗する者には完全な破壊と殺戮を与え、屠城して一切の生存権を奪った。彼らは大虐殺の被害者となる前に、ひどい拷問を受けさせられたという。疲れ知らずの旅行者、モロッコのイブン・バットゥータが一三三〇年頃中央アジアを横断旅行したとき、チンギスの破壊から一世紀以上が経過したにもかかわらず、マーヴやバルクのような古代の有名な都市がまだ荒廃したまま残っているのを見たという。イスラム教の年代記編者のためにチンギスは不吉で忌まわしい人として悪評を博したが、それはあながち的外れではなかった。


第一章・天命  

 チンギスの人生、特に彼の若年期に関しては、かなり不明な点が多い。しかしそれは一二世紀の不安定な文盲の遊牧騎馬民族を調べるに当たって特段意外なことではない。とりあえず彼の誕生の年は一一五五年から一一六七年までの誤差があり、現在も論争の的になっている。この画期的・革新的なモンゴル人の研究における困難に対し、一九世紀の歴史家ヘンリー・ハワーズは「モンゴルについて調査するとき、我々には今や砂のように崩壊したもののように思われるが、これがどんなにか落ち着いて合理的であった事を考えるに、その完全性において我々はほとんどこのアジアの遊牧民の歴史に勝るものを知らない。」と書いている。

 チンギスの征服、その経歴について理解しようと努めるために、歴史家が必ず突き当たるのは一二二八年に編纂された「元朝秘史」への依存である。これはほとんど信頼性が疑わしく、またシャーマニックな内容を含む。その冒頭文において「チンギスは天神ハジル・チンギス・テングリによって地上での仕事を与え得られ、世界の王となるべくして生まれた」と述べられている。他のどのような解釈もチンギスと彼の仲間たちの並外れた支配力を説明することが出来なかったのであろう、しかし彼の徴罰、および復讐心からの激怒は、ほとんど神のように見えた男の破壊者としての側面を正当化することは出来なかったが。

 チンギスは彼の力の絶頂において、ほとんど天国の代行権能者ともいうべき著述家とその著述を制止しなかった。彼の最新な伝記作家の一人、ジョン・マンの著作「天命を達するために団結して全ての手段を行使することが正当化され、指導者、そして征服者として選ばれた一人の男の横柄と彼の目的について説明が付かない性質、それに対して畏敬の念に打たれる普通の男の謙虚」によれば、こうあった。それは「破壊性と創造力の、無慈悲と寛容の逆説的旋風の間に横たわるものが、チンギスの性格を構成した」と。

 

第二章・不吉な始まり

 もし天が彼に特別な印をつけていたとしたなら、それは彼の最も初期の年にさかのぼる。彼はマイナーな氏族の長である彼の父イェスゲイが現在のモンゴルの首都ウランバートル付近でタタールのテムジン・ウゲを殺したときに生まれ、ゆえに戦勝の記念としてテムジンと名付けられた。歴史上必ず描かれることとして彼が右手に血の塊を持って生まれてきたという事実は、モンゴルの伝統に従ってのちの偉大な英雄の前触れとして期待された。 高尚な血統を持って生まれたことは彼にかなりの利を授けたが、しかし彼は私生児であると分かった。テムジンが九歳の時、イェスゲイは彼の息子と相続人に結婚相手となるべき適切な娘を見つけるために出発し、この企てに成功した。娘の名はボルテ。しかしイェスゲイは帰宅途上、彼の妻と六人の幼い子供たちを残してタタールに毒殺される。これによってテムジンはそれまでの擁護者を失い、親類縁者にも見捨てられ、家族は果物と木の根を食し、釣りと猟りをして生活することを余儀なくされた。

 極端な不運は、しかし彼に利益をももたらした。テムジンが技能を身につけ、未来のにおいて不可欠な支配体制の政治力と世界征服のための軍事力、その基盤を研ぎ澄ましたのは間違いなくこの時期である。わびしい世界で生き残ることそれ自体-主に猟りが-戦場に必要とされる技能の習得せしめた。馬術においてモンゴル人は生まれたときから馬上にあるような民族だが、テムジンは遊牧の民ではなく兵士としての馬術を着実に学び、また猟りの中から弓術を学んだ。彼は彼と敵との距離を見はるかし、正確に致命的に射つことを学んだ。また木と皮の複合弓を作った。これらすべてがチンギスの軍隊のための完璧なトレーニングとなった。一八世紀の歴史家エドワード・ギボンは「狩猟という娯楽が帝国の征服の前兆を為した」と述べている。

 

 秘史によればテムジンは十三歳という年齢で最初の殺人を経験している。彼の冷酷に倒されたのは彼自身の異母弟の一人であり、その取り巻きであった。これは来たるべきのちの彼の無慈悲な性格を暗示する最初の事件であった。勇敢と大胆が彼の青年期の間に着実に蓄積される。彼の一家は襲撃され誘拐されたがテムジンはそれから脱し生き残って、奪われた家族と資産を取り戻すために大胆な救助活動を開始した。

 いったん結婚したことで、彼は単なる優れた軍人よりもなおいっそう有力を高められることを明示した。すぐに同盟者ジャムカとと保護者トオリル・ハンを得たのは巨大な政治的人物としての証拠であろう。ジャムカは互いの血を啜り合った義兄弟であり、トオリル・ハンは父イェスゲイの義兄弟であった。両者はナイマン族によって誘拐されたテムジンの妻、ボルテを取り戻すため、テムジンが一万二千人の鍛えられた軍を戦場に送るのを助けた。これを成功させたことによりやがてテムジンの勢力は広まり、まもなく彼の勢力は二人の同盟者を凌ぐようになる。いずれジャムカ、トオリル・ハンの両名が彼の野心の祭壇に捧げられるのは時間の問題と言えた。


モンゴルの統一

凡そ一二〇〇年までに、テムジンは伝統的な長い抗争を続けてきたモンゴル高原のほほ半分を統一することに成功した。統一を阻む者はジャムカとトオリル・ハンのみであり、はじめテムジンはジャムカに幾度かの敗北を喫したがやがてジャムカの部下がテムジン陣営に流れ、勢力逆転してついにテムジンはジャムカを打倒した。テムジンは義兄弟と認め合ったジャムカに対して寛大を示し高尚に死刑執行して勝ったことになっているが、実際には手足を切断しむごたらしい死を与えたらしい。


 一二〇六年、クリルタイ(大民族会議)がオノン川上流にて開催され、テムジンは‘遊牧の民の統一者’、チンギス・ハーンすなわち志を達する王、あるいは世界の支配者、の称号で呼ばれるようになる。モンゴル高原には多種雑多な氏族が存在した(テムジン自身ボルジギット氏族の出である)が、今後彼らはみな‘モンゴル人’とだけ呼ばれるようになる。ここからモンゴルの破壊と征服、アジアの恐怖が始まることとなるのだった。


 チンギスはまず部族の忠誠を取り付けることから始め、彼の軍令を下から支えるためのシステムを作り上げた。彼の軍は大草原の狩猟者たちの伝統的十進法に従い組織され、十人で小隊、百人で中隊、千人で大旅団となり一万人で師団を形成した。これはチンギスから400年ほど後の中華の征服王朝、アクダが作ったシステムに似ている。違うのはチンギスが全く入り交じった種族と人種からこれらのユニットを形成したことで、その点まったく新しく革新的で創造的な軍事システム構築であった。帝国の哨戒には一万人のエリートが置かれ、そこには有能な指揮官の子息たちが配された。一般的に十五歳から七十歳までの男性は全て兵士となる。


 一旦形成された以上、おそらくこの段階で十万に達したであろうと言われる巨大な戦闘部隊は戦場に専念させられるようにしておく必要があった。兵士は俸給の未払いに対しては倒した敵から掠奪と暴行によってしてそれを補填し、そして城を屠った。もしもこの軍が作戦活動で忙しくしておられなかったなら、支配者の権威の土台を破壊して、長らく争ってきた部族の派閥抗争を再燃させ、過去の遊牧民のパターンに早々に埋没し崩壊したであろう可能性も否定は出来ない。


 チンギスはまず境界の向こう側、南を見て、そこを攻撃することに決した。ゴビ砂漠の向こう、ツングースの西夏は彼のもっとも弱く小さな隣人であり、チンギスの獰猛な軍隊によって大量虐殺を受けたが、それでも西夏は滅びることなく耐え抜いた。モンゴル人にとって他国からの掠奪は美味であり、彼らはついでツングースよりもっと財産を持ち、しかしよりいっそう強力で強大な敵である北中国の金王朝に狙いを定めた。


 その脅威的な馬術と弓術とで並ぶもののない彼の軍隊は、それにであってしまった全ての敵を粉砕して、津波のように海嘯のようにアジアを荒らし回った。一二〇九年、今日新疆ウイグル自治区となっているテュルク語属のウイグル族は服従を申し出た。二年後には約二十万に達する。金は和平を模索したがモンゴルは思いとどまらず、北中国金王朝への侵略を開始した。


 北京(当時は汴京)、その城塞は世界中で最も堅牢に守られた城市の一つであった。焼夷弾投擲用のカタパルトを具えた十マイルに及ぶ壁、九百もの警備塔と重兵器の林立する武器庫。これを攻略するのはチンギスの最大の挑戦であった。彼は敵を飢え殺しにすることで一二一五年、北京を崩壊させた。


 これは文明的な都市が初めてモンゴルの猛威に触れ恐怖に戦いた例になった。数分とたたず、宮殿や公共建築は戦塵の中で蛮族の言葉にあふれかえり、そして、大虐殺が横行した。北中国に対する作戦アプローチは以後二〇年にわたって続き、それまで攻城戦を苦手とした(ために西夏を落とせなかった)モンゴル軍は攻城戦のための武器と機械とテクニック、そのノウハウを手に入れ、いったんそれに習熟すると彼らはその上にさらなる技巧を加え、世界というカンバスを赤く血に染めるべく勇躍した。


西方遠征

 北中国アルタイ山脈の大草原麓に住まうカラ・キタイの支配者クチュルクが、チンギス西方への最初の敵となった。クチュルクはイスラム教徒の進攻を弾圧していたナイマン族たちの王であった。チンギスの将軍ジェベは一二一八年、二万人の兵を率いてカシュガルに乗り込む。そこで彼は弾圧されたイスラム教徒にチンギスの宗教的寛容と自由を思い起こさせ、叛乱を先導した。ジェベの思惑の通りにカラ・キタイは反抗し、クチュルクは叛乱の前に殺された。ここからモンゴル帝国は急速に、剣を持って西へと伸張してゆく。


  チンギスの帝国の最初期、の業績は悪辣で閉鎖的なスルタン、ムハンマドとの国境紛争に勝利したことだった。ホラズムの支配者、ムハンマドはペルシアからマウラナハールに到る広大な版図を所有し、サマルカンドに主都を置いていた。チンギスが当初からこの手強いアジアの支配者と事を構えるつもりであったかどうかは不明であるが、しかし彼の支配領域からホラズムに向かった四〇〇のキャラバンと十五人のムスリム商人がオトラル市の境界を越えてスパイ行為を行った、として冷血残忍なムハンマドにより虐殺され、さらにこの事件について賠償を拒むと、チンギスの取るべき道は一つに絞られた。モンゴルの使者を殺し、二人の副使の髭をそり落とすという許されない愚行が、さらにチンギスの血の高ぶりを上昇させた。


 彼は戦争と流血を大いに愉しんだ男であり、彼の将官は誰もが彼の言葉を信じた。即ち「男の最大の幸運というのは、敵を追いかけ打ち破り、その全ての所有物を奪い取り、泣き叫ぶ彼らの妻をものにすることだ。彼の者であった女にまたがり、女たちの身体を夜着として使い、そして胸や唇を見つめてキスし貪ることだ。」と。  


 続く三年間の作戦活動は史上最も血塗られた歴史の一つであった。古代におけるアッシリア、近代のナチスによって犯された暴挙に比肩し、なぞらえられる。モンゴルの暴威は一二一九年に西方を侵し、疾風怒濤の勢いで次々と都市を屠っていった。地域中に兵を小部隊に分けて配置していたスルタン・ムハンマドは、彼よりもむしろ好戦的な息子、ジャラール・アッディーンの半ば傀儡として戦ったが、結局なすすべなく敗北し、不名誉なことに逃亡した。彼の逃亡後、勝利したモンゴルは猛烈にひどい破壊と殺戮をホラズムにもたらし、この日を記念日とした。チンギスの帝国はついにヨーロッパ辺縁にいたって侵略の準備を整えた。


 この作戦の直後、一二二一年中東で、アラブの歴史家イブン・アル・アッサーがその災難と衝撃について、新世紀の恐怖を被ったと書いている。それは次のようなことだった、と彼は記す。「このような壮絶な大惨事は決してこれ以前に起こることはなかったであろう、世界の始めから終わりまで、おそらくゴグマゴク(イギリスの上古の巨人というか魔神。敵対者。サタン)以来、世界が経験することはないであろうことが起きてしまった。」


死と帰郷

 モンゴルの征服によるスルタン・ムハンマドの悲劇は全く終わってはいなかった。彼らの血と宝物への欲望は全く満たされていなかったからである。


 チンギスが小休止している間、彼の麾下の将官・ジェベとスブタイは彼らに敵対する全ての敵を打ち倒し、カスピ海周辺に北進した。捕虜は殺されるか、軍を保全して完全な戦闘編成で更新するためにその軍の最前衛に押し立てられた。ジェベとスブタイは先々で都市を破壊し、人口を激減させて回った。アゼルバイジャンに攻め上った侵略者は一二二一年、ティフリス(トビリシ)の首都を破壊し、グルジアのキリスト教国を侵略して掠奪した。ボルガ川沿岸を通ってコーカサスとクリミアを通過し、さらに前進してブルガリア、トルコ、そしてロシアの君主をそれぞれ北に抱き込んで藩屏とした。驚くべき事に、カスピ海辺縁の、誇大ではなく二〇もの国がジェベとスブタイの前に敗れ去った。


 一二二五年、トルキスタンの草原で狩猟し、そののち二年間道教の賢者(長春真人)と語らってその哲学に学んで彼から逃避的な不滅の霊薬を探すべきことを教わったが、ブクハラのイスラム教司祭と宗教を論じてそんなものはないと悟ったチンギスは末期を期して郷里へ向かった。これまで戦争の王としてチンギスの欲望は色あせることがなかった。一二二六年の終わりまでに彼は寧夏回教自治区の反抗的なタングートを行為し、その首都を支配下に置いた。市は土塊、人は肉塊となってチンギスと対面し、中国の史書には高く同国人の遺骨が積み上げられたことに対する嘆きが記されている。


 彼は彼にとって厄介な相続人、私生児の長子ジュチが自分より先に死ぬのを見届けて、オゴタイに相続させてから一二二七年の晩冬、チンギス・カーン、あるいは世界の帝王は歿した。中国からヨーロッパの間口まで、ほぼ大陸全体に及ぶ大帝国の支配者。彼の剣と王笏はそれほどに、めったにないほど素晴らしく、そして残酷であって、そのスケールは一人の男の手には余るものであったから、彼の死後帝国は息子たちに分割支配されることになった。 


コラム・ホラズム討伐

 一二一九年、二〇万のモンゴル兵が中央アジアに殺到した。オトラルは現在のカザフスタンにある一都市で、チンギスの息子オゴタイとチャガタイはここを包囲攻撃してその知事を擒え、彼の目と耳の穴に溶けた金を流し込むという拷問を実行した。これが来たるべき恐ろしい作戦の最初のサインであった。残忍だが弱々しいムハンマドは 恐怖に逃れたカスピ海上に追求され、不可解な状況で死んだ。しかし彼の王国の命運は、よりいっそうに不幸であった。

伝説的なバクハラ、「イスラムのドーム」と呼ばれる、王国で最も金持ちな市に到着しすると、チンギスはカロンにモスクの説教壇をとりつけ、神が送り下した彼を畏れる住民に、彼ら自身の罪を罰するよう警告した。

 バクハラから、モンゴル軍は何千という捕虜を連れて機動し、戦えない軍の印象をつくりながら、その実十分な機動性を保持して南東の大草原の彼方、サマルカンドに乗り込んだ。都市の守備隊はすでに今までにオゴタイとチャガタイが終結させたモンゴル軍に対応出来ず、一二二〇年、サマルカンドは呆気なく降伏したが、屠城による流血の饗宴と掠奪は防ぎ獲なかった。ほとんどの市民は殺され、三万人の職人がモンゴルに追放され、本当に微々たる幸運として牧師だけが生き残った。

 オクサスの北、ティルミッツの古都の上にモンゴル軍は転じた。そこで伝説的な説話がある。大虐殺を免れたいと懇願した女性が真珠を呑み込んでいたと言って、彼女の腹を引き裂いて真珠を取り去った、と言う。チンギスはそれから彼の息子トゥルイが大虐殺をしたという都市マーヴのそばバルク~バクトリアン帝国の有名な古都~で,大量の市街からすべてのはらわたを取り去ることを命じた。囚われの住民は4日間かけてかり集められ、そして平野に連れて行かれるとそれぞれの軍人が三〇〇から四〇〇の囚人を殺し、そして殺したことの証明に耳を切断して彼らの指揮官に献じた。

 もう一つの攻囲戦がグルガニ、即ちイラン皇帝の故国に対して実行された。七ヶ月の攻囲戦のすえ、城は陥ち市は襲撃され、そしてモンゴル兵は揮発油を投げた。少数の職人とハーレムの女性のみが惜しまれて助かり、それ以外は殺された。五万人の兵士がそれぞれ二四人の囚人を殺すよう命ぜられたとというペルシアの歴史家・ユヴェイニの記録によれば、死者は一二〇万人にのぼる。年代記作家の悪名高い不確実さを考慮に入れなかったとしても、途方もなく巨大な虐殺であった。

 一二二一年、ニシャプールは敗れて殺戮の狂乱の中に落ちた。男性も女性も子供も、犬や猫さえ、道ばたでピラミッド状に積み上げられた。ヘラトとバミヤンがこの年の終わりまでに似たような恐怖の中で陥落した。それはムハンマドの息子ジャラール・アッディーンがインダスの戦いで負け、モンゴルの作戦が終了した数ヶ月後のことだった。

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