第40話 前漢・韓信(?-前196)

略歴

 韓信は西漢初期における大将であり、淮陰の人である。陳勝呉広の起義ののち、まず項梁、項羽についたが重用されず、のち劉邦に付き従い、丞相・蕭何の力強い推挙により大将を拝すに至った。劉邦を助け「三秦を定めもって天下を奪う」の方略を制定、楚漢戦争の間韓信は兵数万を率いて北方の戦場を開闢、魏、趙、斉を相次いで破り、ついには斉王に封ぜられる。のち垓下の決戦に参加して指揮を任され、楚軍を撃滅した。

 劉邦は韓信を重く用いたがその心には猜疑心を抱え、ゆえに項羽敗亡ののち、馬上より韓信の兵権を剥奪、楚王に落としたのちついで淮陰侯に貶めた。のち呂后と蕭何の計略により漢の高祖十一年(前196)正月、誘い騙されて長楽宮に詣でたところ、謀反の罪を着せられ殺された。彼には<韓信兵法>という三篇の著作があったとされるが、失伝している。


本伝

 韓信は秦末淮陰の人である。幼くして父母双方を亡くし、貧困であった。韓信の腹中にはあふれんばかりの?略が詰まっていたが、当時それは無用の武であってその才能を誰に知られることもなかった。彼は商売を営むでもなく布衣のままに日を過ごし、終日剣をひっさげては閑に遊び、人に頼って食をねだり、人々から厭われ嫌われた。


 中国古代には大物は食客を養うという風潮があって、韓信は流浪人の当時とある亭長の食客となったことがある。亭長は彼の若年ながら鋭気風発にして力壮なのを見て感心したが、韓信があまりにも言うとおりに働かないので次第に反感を募らせるに至った。韓信は当時の食客の慣習に倣って毎日定時に食餐に赴いたが、亭長の妻は韓信に対する嫌悪の意思表示としてある日、故意に定時前に皆に食事を振る舞い、韓信の食事を残さなかった。韓信はこの仕打ちを恨み、憤然として亭長の家を去り、また人に飯をねだって過ごす乞食生活に戻った。


 乞食中のあるとき、韓信は洗濯女の婆さんに出会う。婆さんは韓信の形貌が憔悴していて餓えに苦しんでいるのを可憫に思い、しばらくの間自らの飯と宿とを提供してやった。韓信はこのことに大変感動し、「ばあさん、もし俺が将来偉くなったら、必ずあんたの恩に重く報いるよ」と言ったが、ばあさんはむしろ怒って「あんたが図体の立派な大の男のくせに自分で飯も食えないから、かわいそうだと思って施してやったんだ。報いるだって? そんなことを言うのはまず自分で飯が食える身分になってからお言い。いつまでも洗濯女に施しを受けて生活してるような男がたいそうなことを言えたものかね」婆さんの言葉は深々と関心の心に突き刺さった。彼は功名を立てるため、決心して町を出た。


 ちなみにこんな逸話もある。韓信が郷里で遊玩していたころ、無頼の若者と悶着を起こした。ある日韓信がいつものようにぶらぶらと町を歩いていると、若者は彼の前に立ちふさがって故意に侮辱の言葉を吐いた。囲うように見ていた人々もそれを見て大笑いした。韓信は相手にせず、無視して前に進んだが、無頼の若者は得意になり、さらに傘にかかって衆前で韓信を引き留め、「お前が本当の漢で死を恐れないというならその立派な剣で俺を刺してみろ、死ぬのが怖い臆病者は俺の股をくぐれ」といって両足を開いて見せた。韓信は黙々と、一座が彼を注視する中、屈辱を堪えて身を伏せ、匍匐して若者の股をくぐった。場の人々は彼をあざけり大笑し、若者は韓信を屈服させたことに十分満足した。韓信はなにごともなかったかのように身を起こすとその場を去った。この一件は当時の淮陰で一時笑い話としてもてはやされたが、その実、股くぐりの屈辱という経歴は韓信の大智と自若、そして非凡な器量を恰好に表している。若かりし時のこの一種特殊な経歴は韓信の百折不撓にして虚懐若谷なる性格を鍛錬する試金石となり、この人格形成こそがのちの傑出した将領・韓信を生む潜在条件となった。


 前209秦二世の元年、その暴政に対して陳勝呉広の乱が発生した。呉県の項梁とその甥・項羽は会稽郡の郡長を殺し、反秦の軍を起こした。韓信は剣をひっさげて項氏の営中に投じ、項梁死後項羽に仕えてしばしば献策したが容れられることなく、項羽が咸陽より彭城に帰って都を建てるに至ると、項羽のもとを去り劉邦に投じた。


 韓信と蕭何はことあるごとに国家の大系を長談し、蕭何は感心の卓越した将才を認識して劉邦に推薦したが、宗法はこの言を容れなかった。韓信は劉邦のもとでも重用されないことに失望を覚え、ある月の星が稀なほどに明るい夜、漢の幕営から立ち去った。蕭何は韓信脱走を知ると冷や汗をかいて急ぎ身一つでこれを追いかけ、慌てて馬を飛ばし、連夜百里を飛ばしてついに韓信に追いついた。二日の後、蕭何はついに韓信を説き伏せて連れ帰り、再度漢王に向けて推挙を行った。彼は劉邦に説いて曰く「諸将のごときを得ることは簡単ですが、韓信ばかりはそうはいきません。彼の将才は国士無双、大王が漢中の王でご満足というのであれば韓信は無用かもしれませんが、もし大王が天下奪取を夢見ておいでであるのでしたら、それを可能にするのは唯一韓信のみです。大王よ、能くお考えください」。これによって、劉邦はようやく蕭何の言を容れた。人に命じて高台に儀式場を築かせ、吉日良晨を選んで、そこで韓信のために盛大な授印の儀を執り行った。


 韓信を大将軍を拝命したのち、劉邦の韓信に対する冷遇は一気に厚くなった。あるとき劉邦は請うて韓信を帳の中に招き、親切に韓信の手を取って「丞相が力を極めて推挙した将軍、天下に並ぶものなき将軍よ、我が願いは中原統一と天下の平定、将軍にはなんぞ我を助ける妙計ありや?」これに対して韓信は直接には答えず、劉邦に反問して「大王の要は東征であられるはず、天下奪取などと言うのは、項王に対する不義不正にあたるのでは?」これに対し、劉邦は重ね重ねにうなずいた。そこで韓信は「では問いますが、勇敢仁において、大王と項王を比べた場合どちらが上手ですかな?」劉邦はしばし黙ったが、「我は項羽に遠く及ばぬ」と。韓信は改めて劉邦にあなたには自らを知る智恵が明るく、対するに項羽は欠点が多いと言うことを深く矢が突き刺さるように分析して見せた。彼の見るところ項羽は勇敢仁強とはいってもその実名声のみが先行していると言い、証拠として第一に項羽は人を用いるのが下手であり、善き行いを選択する判断力が無い、すなわち匹夫の勇である。第二に項羽は部下が病気にかかると手ずから看病してやるが、部下が戦場で手柄を立てても褒賞を与え領地を与えることをしない、すなわち婦人の仁である。第三に項羽は関中に都を建てず、東の彭城に帰って都を建てた。これ自ら地の利を捨てたのである。その四に楚王は封地割譲の約をしばしば反故にしており、諸侯は怒っておりいずれ誰かが蜂起するであろう。第五に項羽は起平以来大量殺戮を繰り返しており、民衆は怒り狂うも敢言できず、已に民心は失われている。以上の点を列挙して、項羽強しといえどもこれを弱に易えることはそう難しくはない。果たして劉邦はその逆を行き、天下の謀臣勇将を任用している、これで敵を崩せないことがあろうか? どこで勝てないことがあろうか? 韓信は劉邦に向かって自らの看たところを表明し、関東の士兵の強度を思う心を利用して彼らに親切を施し、東に出て漢中に向かい中原に勢力を伸ばし、実力を拡充させて項羽と天下を争うべしと結論した。このとき劉邦はついに韓信の才能を本当の意味で信じた。


 前206漢の高祖元年、関東地区格路の諸侯が奮起して反乱を起こし、自立して王を称した。項羽は四万の兵を率いてこれを鎮圧。ここに劉邦は決意して軍を師い東進、張良は明らかに桟道を修築し、ひそかに陳倉を渡りたまえ、と策を献策した。漢王はまた韓信にはかり、韓信と張良の策がほぼ符合していることに感心して「まこと英雄はおなじ見識を持つものであるな!」と感嘆し喜びを露わにした。


 漢軍は悄悄と静かに南鄭を離れ、まず漢中を獲る準備にとりかかった。東進して大門を打ち開き、楚の根拠地を打ち壊し漢を興す。このとき項羽はまさに東方の戦乱を権勢に出払っていて、西を顧みる余裕がなかったのが漢軍に幸いした。漢中は雍王章邯、?王菫翳、塞王司馬欣らが分守していたが、韓信は樊会、周勃、夏侯嬰らの将軍に命じ少数の人馬を率いて、先だって修築した桟道を通り、桟道から姿を偽装して欲しいまま敵を翻弄し、これによって楚軍の機構を麻痺させた。


 雍王章邯はこの当時韓信が桟道の修築を監督していたことを聞くと、大いに笑って「なにを思って出兵してきたか知らんが、また桟道を焼く気か?(以前に劉邦は漢王に封ぜられて漢中を去るとき、項羽の追撃を振り切るため桟道を焼いたことがあった)。今になってまた修築するにして、断崖に囲まれた三百里の桟道をかけ直すのにいったいどれだけの時間をかける気やら。まったく賊の考えはわからんわい」といってまた左右の者に関心の人物を問うた。左右が韓信の略歴をざっと説明するとまた大いに笑って、「股くぐりの凡夫、何の将才があろうか」といって安心しきり、警戒を全くしなかった。


 ある日、ある陳倉の敗兵が逃がれて廃邱に至り、報告を受けた章邯はそこではじめて陳倉が漢軍の手に落ち、今已に兵が城下に迫っていることを知らされた。章邯は「明らかに桟道を修めて暗に陳倉を渡る」の計にまんまとかかったのであり、慌てて兵をそろえ迎撃戦に出たが、同日の晩、最後には絶望して抜剣し自刎して果てた。?王菫翳、塞王司馬欣は章邯自殺の報を聞き、前後して漢軍に投降した。このようにして、三秦の関中地区は一ヶ月とせずにことごとく漢王のものとなった。


 韓信は兵を率いて三秦の掃討戦に向かい、関東に向かい一直線に打撃を加え、項羽不在の隙に乗じて項羽の古巣・彭城を占領した。このとき、しばしの勝利に酔った劉邦は頭脳を昏迷させ、いささか大志を忘れてぼけた状態にあったようで、項羽の救援軍に一撃されて落花流水、おちぶれはててただ数十人の騎兵に守られ?陽に逃げおおせた。この緊急事態に遭って関頭の韓信は将兵を収集し、劉邦と?陽にあって会合、兵を合してしばしば項羽の軍を破り、楚軍は西に進むことあたわず。これで楚・漢両軍は成皋にあって対峙し、?陽一帯は力が支配する状態を呈した。


 劉邦は甲冑を捨てて?陽まで敗走したとはいえど、韓信・張良の献策による前述の計略は成功している。よって漢軍は東進して大門を打ち開くべく、中原平定の作戦を開始した。すなわち楚軍との天下争覇の戦争の始まりである。


 項羽が劉邦をたたきのめしたため、たまたま劉邦についていた魏王は劉邦に背反して項羽に就いた。劉邦は韓信を左丞相に任じ、兵を率いて魏を討たせた。


 前205高祖二年、韓信は兵を率いて黄河西岸まで至り、魏王の軍は黄河東岸の険要地に布陣した。守るに安く責めるに難く、はたして強攻しても必定、大損害は免れない。そこで声東撃西の戦術をとって、魏軍の守る対岸に向けて黄河を渡河する準備をして見せ、ひそかに主力を以て北の韓城に調略を仕掛けた。相手がこれに気づいて対応に追われる間に、韓信は大規模に木瓦を作り渡河のための道具を準備し、悠々と渡河に成功した。魏軍は兵力を集中して漢軍を防ごうとしたが間に合わず已に韓信は渡河を追えた後。魏王は変を聞き大いに慌て、自ら軍を率いて韓信を攻撃したが、結果逆に敗れて俘虜となった。韓信は魏を平定したのち、漢王の地盤拡大のため河東郡を設立し、山西中部には東南郡を作った。韓信はこの戦いの中で、黄河の天険に阻まれたにもかかわらず、よく巧みに奇兵を出して敵軍の後方に出、軽く松の枝を折るように敵を破り、魏国を滅ぼした。この安邑の戦いは韓信がその軍事的才能を天下に顕した第一歩であった。


 魏を滅ぼしてのち、黄河以北にはなお代、趙、燕および山東の田斉という四大勢力が割拠しており、彼らは皆項羽について劉邦に敵対していた。韓信はこの種の状況をつぶさに分析して劉邦に提出し「北に燕、趙を挙げ、東に斉を撃って、南に楚への糧道を断ち、西の大王と?陽にて会すべし」という計略謀計を言上した。劉邦は深く感得して然りといい、韓信のために三万の兵を増員し、張耳を派遣して韓信を助け北面の戦場を開闢すべし、と命じた。


 韓信は軍を率いて北進し、まず代国を撃ち、ついで趙国を撃った。趙の代王陳余は二十万の大軍を動員して井?に韓信を迎撃した。韓信の率いるところの兵は数万であり、兵士たちは疲労しており、その実力は遠く趙軍に及ばなかった。趙の謀臣・李左車が三万の兵で払暁、韓信の後衛部隊を襲撃したことで趙軍は漢軍に対して挟撃の体勢を整えたことに成り、さしもの韓信も絶体絶命だったが、ただ陳余という男は阿呆の腐れ書生であり、李左車の建言を聞かず正面から韓信と戦う、と言い出した。


 韓信は間者の報告から陳余と李左車の間隙を見て取って心中大いに喜び安堵し、放胆に敵地向かって兵を深入りさせ、井?の西三十余里のところに軍を駐屯させた。時夜半に至って韓信は用兵を開始し、まず軽装騎兵二千人を派遣、彼らにそれぞれ漢軍の旗を持たせ、小径から進発させて趙軍の営壘近くに潜伏させてから、彼らの旗を趙軍のそれと取り換えさせる。しかるのち副将に命令を下し将兵に大いにメシを喰わせて腹一杯にさせてから、自ら軍中に宣言して「趙軍を大いに破ってから、またたらふく飯を食おうではないか」と。諸将はこれを聞いてもまだ自軍の勝利を疑い信ずることができなかった。韓信は再び一隊の精兵をなして先鋒とし、井?口に出す。背後には満々の水、正面は趙軍の陣地、陣勢には圧倒的開きあり。陳余は漢軍が水を瀬にして陣を並べているのを看て、あざけり笑った。「背水の陣とは愚かの極み、ただ進むべくして退くこと敵わず。これは兵家のもっとも忌むところである。漢軍を破り韓信を斬るは、まさに今日この日なり!」といって三軍に攻撃準備をの令を達した。


 天からもやが退いて明るくなると、韓信は自ら人馬を率いて井?口から突撃、敵を殺した。陳余は大きく営門を開き、兵を指揮して戦う。両軍矛を交え、趙軍は衆の多勢によって一気呵成とばかり攻め立て、韓信を囲む。韓信はこの場は偽装退却してみせた。陳余はその計略を知るよしもなく、兵を指揮してさらに追い立て、大営の趙軍も偉功を求め勢いに乗じてこれに続く。ついに趙王歇も参戦した。ひのとき、漢軍は後退しようとして水に阻まれ、再び井?口から逃れようとしたが、韓信は大音声に呼ばわって「生死はこの一戦、退く者は斬る!」と叫んだので、兵士たちは死中に活を求めて戦うしかなく、奮戦苦戦。早晨から中午まで戦って勝負なく互角。陳余の部卒は飢餓を恐れて再戦あたわず、いったん営に戻ろうとしたところで営中の旗がすべて漢軍のものに取り替えられているのを見て愕然とする。「すわ、漢軍已に営を取りたるか!」この言葉は瞬く間に趙軍全体に響き渡り、意気阻喪、戦意頓挫して相争って逃げる者が続出した。陳余は逃げる兵士を捕まえ叩き切って後退を阻止しようとするが到底勢いを止めること能わず。漢軍はこの機に乗じ、内外呼応して挟撃し、陳余を殺し歇を捕らえた。


 井?の戦いは奇を出して勝ちを制した戦争であり、趙軍二十万の大軍は韓信率いるわずか数万の前に消失した。この戦いにおいて韓信は‘兵家の忌’であるところの背水の陣を敢えて使ったが、これは自分の軍隊を「死地に置いて後生かしめる」意図があったのであり、敵に対して常に効果を持つわけではないが今回のように兵勢優利の敵を驕らせ誘って滅ぼすのにこの戦術を用いたのは、韓信の非凡な才能である。


 井?の戦後、漢軍は趙の謀臣・李左車を生け捕った。韓信は自ら李左車を解放し、彼を厚くもてなして「師」と仰いだ。李左車のほうも感動し、また韓信の実力を認めざるを得ないところでもあったので、応じて軍師となった。さらに韓信は燕国撃破に乗り出さねばならない。李左車の建議で燕国辺境に軍隊を並べ、人を使わして燕王を説得と言うより屈服させようとする。一日にして趙国二十万の軍を撃滅した威光を利用したのであり、使いに迫られた燕国は帰降にかたむいた。韓信は李左車の建議を喜び書一封を納め、また使者を派遣して燕王を説き、結果、一人の兵も失うことなく燕の地を平定したのである。


 趙、燕を平定したのち、韓信の軍隊にはことを起こして以来の迅速な結果を得、得た成果による気勢盛んで強大な軍隊を手に入れた。このとき、劉邦は項羽と交戦中であり、まず?陽で負け、そしてふたたび成皋で負けた、楚軍の軍団に包囲された。劉邦は返送して包囲を抜け出し、韓信の大営にやってくると、漢王の権力を持って韓信の主力を剥奪、彼にはわずかの兵を残して引き続き斉を攻略せよと命令を下した。韓信は命令に服し、東征を継続。一戦にして斉軍を破り、斉の都臨?を攻め下した。斉王は項羽に救援を求め、項羽は二十万の大軍を以て韓信を攻撃、打ち破り、劉邦への囲みを解いて斉国の急を救った。


 楚の将領・竜且というのは誇大妄想狂で夜郎自大なところがあり、韓信のことを眼中に入れなかった。彼らは?河一帯で韓信と決戦して、韓信を滅ぼしてやろうと準備していた。両軍は河を間に-河西が韓信、河東が竜且-隔てて対峙した。韓信は人を派遣して粛々と土嚢を?河に運ばせ、?河下流の浅瀬から土嚢を踏み越えて渡河し、竜且を襲った。竜且は大努したが韓信も迎撃し、韓信率いる軍は敗退して河を渡る。竜且指揮下の大軍はこれを追撃したが、そこでは漢軍が整然と待っており、土嚢の堰を切って大水を呼び込み、渡河途中にあった楚軍二十万は大水に流されて消滅、難を逃れたわずかの諸将も韓信の前に滅ぼされた。竜且もまた漢軍に殺されるところとなり、韓信は大いに全勝を獲て斉国七十余の城池を悉く占領した。


 韓信が斉を平定したことで、楚漢の間の勢力はほぼ均しいものになった。誰が勝ち誰が負けるのかは、韓信の一挙手一投足にかかっているといって過言でないぐらいに、彼の重みは増していた。劉邦は韓信が攻め取った斉を、張良、陳平の建議を容れて韓王信を斉王に据えた。これに前後して武渉、カイ通ら遊説の士が韓信に対して、今こそ劉邦に背反して自立し王となるべしと説いたけれども、韓信は野心あれども劉邦から受けた信任と厚遇と友愛を忘れられなかった。ゆえに彼は終始劉邦に、機会がいくらでもあったにもかかわらず、背くことに肯んずることが出来なかったのである。


 前202高祖五年、劉邦は項羽との戦争に転機を迎えた。これまで敗北し逃げてばかりであった劉邦が今度は打って出る番となり、形勢は項羽との決戦場対に移った。同年十月、劉邦は夏邑に項羽を追撃し、項羽と決死の一戦を準備した。が、劉邦の将領たちは項羽に及ばず、撃退される。劉邦は封地などを餌にして諸将の奮起を促し、韓信、彭越らを招集して大軍を以て再度夏邑で楚軍と決戦に及んだ。韓信は総大将・大将軍として全軍の指揮を任せられた。


 韓信は命を受けてのち、大軍を率いて垓下に至り、劉邦の将領たちを配し合して対項羽包囲網を完成させた。楚漢の相争う決定的戦役が開始された。彼は十面埋伏の陣を配して、劉邦には請うて大営の守りを委ね、彼自らは三万人を率いて馬上前に進んで戦いを挑んだ。士卒は韓信の命令暗号に対し、楚の営に向かって「人は皆楚に背を向け、天下は已に劉のもの。韓信垓下に屯すれば、要は覇王の頭斬るべし!」と。項羽はこれを聞き、激しい気性を爆発させて衆を率い殺戮に出た。両軍相接し、交戦すること幾合回。韓信は且つ戦い且つ逃げ、項羽を引きずり回して包囲と埋伏の陣中に誘い込む。楚将・虞子期は埋伏を前にして懼れ、項羽に兵を退くことを勧めたが、時に項羽は怒り心頭に達しており、いさめが耳に入る状態になく、ただまっすぐに馬を走らせ、漢軍の十面埋伏陣にみずから突っ込んだ。楚軍の死傷者無数、項羽はただ奮戦して一条の血路を切り開き、残存の部隊をまとめて垓下の大営に帰った。


 楚軍なお十万あり、韓信の三万では不足。そこで韓信は心を攻める戦いを思い立ち、漢軍に楚の童謡を教えて高らかに歌わせ、楚軍の軍心を乱した。ついに項羽は兵敗れ、垓下の包囲を突破して逃亡するも、ついには烏江のほとりで自殺した。楚国滅亡し、漢王朝の支配が確立した。


 この戦役中、韓信はまず歌謡を以て項羽を激怒させ、十面埋伏の陣に誤入させ、のち‘四面楚歌’の法で項羽に八千の子弟と離別した断腸を思い起こさせてその戦闘力をそぎ落とした。これこそまさに韓信の心理戦術の成功例であり、ここでもまた彼は卓越した軍事的才能を発揮して見せたと言うことになる。


 劉邦は項羽滅亡後の高祖五年二月、正式に登位して史書に高祖と呼ばれる存在になる。劉邦は楚漢戦争中に項羽の勢力を瓦解させるに功のあった韓信、黥布、彭越ら八人には異姓ながら王となることを、やむをえず認めざるをえなかった。しかし天下今や定まるにして、劉邦は腹中の患を切除することに乗り出す。その最終目標となるのは当然、蓋世の大功を建て、知勇を兼備した大将・韓信その人であった。


 その実、韓信は大将軍となった後、早くから劉邦の自分に対する猜疑には気づいていた。彼は一方、韓信を巧妙に利用して攻城略地に用い、漢王朝の創立に赫赫たる戦功を立てさせながら、一方、自己の羽翼が豊満と成り実力に余裕が出来ると、あっさりと韓信ら功臣を排除するのにためらいがなかった。楚漢戦争中、韓信は北に魏を破り趙を平らげ、燕を収めて斉を伐ったのち、劉邦は韓信を慰撫して用いるため斉王に封じたが、漢軍が楚軍を垓下に破り、項羽が滅亡すると、劉邦はすぐさま斉王の位を剥奪して楚王に改易し、趙王から離れている上実り多く、実力者を放置しておくには危険すぎる斉の地から遠ざけた。漢王朝が確立すると劉邦は危険になり得る人物を謀反を企んだという言いがかりをつけて次々殺すなり貶めるなりしているが、韓信もまた兵権を剥奪されたうえ淮陰侯に格下げされ、京城に控えることを余儀なくされた。その実、韓信に対する劉邦の言いがかりは己の畏れに起因し、自分が恥知らずな行為をしているとは早々に気づきながらも、彼自身の命を計算しているうちにつれ漢室を揺るがしかねない韓信を放置は出来なかったのだった。韓信は漢帝の猜疑を避けるべく地方への転任を願い出たが許されず、まっすぐ自分の赤心を宣誓することも許されず、やむなくただ病と称して邸宅にこもった。


 前197高祖十年、陽夏侯・陳キが造反し、自立して王を称す。劉邦は自ら大軍を率いて征討、当時の韓信を推説するになお病を称していたらしく、この征討戦には参加していない。誰か韓信の部下の人物が上書して告発し、それによれば陳キの造反は韓信の主導であり、韓信は京城にあって内応の準備を進めていると。呂后と蕭何は秘密裏に策謀を巡らし、蕭何が出面せよといった。韓信が断れず騙されて参内すると、呂后派の人々によって取り押さえられ、長楽宮の鐘室で斬首された。一大の将才は封建制体制維持を名目とした内部抗争のうちに死を迎えたことになる。韓信はまさに死の間際、恨みを込めて「あのときカイ通の言葉に耳を傾けなかったのが悔やまれる、最後は婦人の謀にかかって死ぬことになろうとは!」と、叫んだと言われる。

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