第41話 三国・呉の陸遜(りく・そん。183-245)

 陸遜、字は伯言。はもとの名を議といい、のち遜と改めた。呉郡呉県の人。その出身は江東でも有名な土地の豪族であり、祖父・陸紆は東漢の末期に城門校尉に任ぜられ、父・陸駿は九江都尉にまで上った。陸遜は10才で父と死別し、母親とともに従祖父の陸康のもとで育てられた。当時陸康は廬江太守を任されており、陸遜は彼のためによく官府へ使いした。陸遜は幼少期から耳目が抜群に優れた秀才で、従祖父の元で覚えた組織の管理能力がすこぶる秀逸だった。成年すると江東の名士の一人に数えられる。


 陸遜は21才で孫権の引き立てを受け幕僚と成り、孫権のもとで東西の曹令史、のち出て海昌屯田都尉兼海昌県令。海昌の海内は毎年疫害に襲われたが、陸遜は官戸を開いて民を賑恤し、また農桑業を勧め、大家族でも飢饉を乗り越えられるように導いた。当時呉郡、会稽、旦陽一帯からは脱走者が相次いだが、陸遜は戸籍の整頓方法を改め、その中から壮強なものを自分の部隊に招き入れ、その他の者は屯田に従事させた。当時会稽には“山賊”の大師・潘臨が根を張って連年造反を繰り返し、官府すらも無法地帯と化していたが、陸遜は兵をもってこれを討ち、ついにこれを克服してのけた。これは鄱陽の“賊師”尤突の反乱にも甚大な影響を落とし、陸遜は軍将を率いてこれを討ち平らげ、功によって定威将軍。その後もしばしば反乱の鎮定に携わり、陸遜は終始一貫して優れた軍事的才能を示し、孫権から非常に厚い信頼を受けた。孫権が兄・孫策の娘を彼の嫁にやったという一事をもってしてもその寵愛がわかる。以降陸遜は常に経国の大策に携わり、また将としても調到の帷下で右部督に任ぜられ、しばしば勲功を顕した。


 まもなく、丹陽の“賊師”費桟が曹魏の使嗾を受け、山越を扇動して造反し曹魏の軍に合流した。孫権は直ちに陸遜を派遣、軍を率いた陸遜は先頭を切って征伐に乗り出した。費桟の軍が多大なのに対し陸遜に与えられた兵は過少だったが、旗指物を多く連ね、夜、人を山谷に紛らせて鼓を盛大に慣らし、数をごまかすごまかすいわゆる擬兵の計で敵を欺き、速やかに賊徒を掃討した。陸遜はまた帰順した山越族の中から、精強な者数万を選抜して自軍に編入し、軍に入らなかった者は呉の民として戸籍に組み入れた。会稽太守・淳于式がこのときの陸遜の処置を“枉げて人民を取るは愁撫の所あり”とあげつらい、帰還してそのことを知った陸遜は淳于式にこれは民にも国にもよいことなのですと反論した。孫権にも些か解せぬところがあったので、陸遜は淳于式に民への関心について説き、孫権もその気風と民の模範足る姿勢にはなはだ佩服した。


 建安24年(219)秋、病の呂蒙が建業に還った。陸遜は前に呂蒙と拝謁した際、いままだ若く名を知られていない人間を荊州の任につけ、その不意に出て一戦して関羽を禽える策を献じてこれを遂行、荊州全体を修復した。呂蒙は関羽にほとほと迷惑をかけられていたから、孫権にこの策を建議すると陸遜を陸口に鎮座させた。孫権が陸遜を偏将軍右部督に任じたとき、陸遜は36才。陸遜は陸口に赴任するなり書信を出して関羽にへりくだり、また自分が若輩で関羽を頼みにしており、折々に触れてご指導ご鞭撻いただきたいと持ち上げて、関羽に曹魏の兵が益すことは要注意ですとあおり立てた。関羽はこの書信をすっかり信じ、陸遜を完全に舐めきって後方を留守にし東呉の軍が通る堤防を通って前線に出た。陸遜は時を置かずこのことを孫権に注進、孫権は呂蒙と陸遜に命じて同時に別行動で荊州を攻め取らせた。11月、陸遜の軍は直ちに荊州の公安、南郡を取り、陸遜は孫権から宜都太守、撫辺将軍に任ぜられ、華亭侯に封ぜられた。つづけて陸遜はまた軍を派遣し房陵、南郷を攻め、斬獲および帰順者数万人を得る。孫権は即時陸遜を右護軍、鎮西将軍とし、爵を進めて楼侯とし荊州に鎮護させた。


 章武元年すなわち221年7月、劉備が自ら4万の兵を率い東呉に攻め寄せた。孫権は38才の陸遜を大都督とし仮節を授け、守然、潘章、宋謙、韓当、徐盛ら5万人で迎撃させる。蜀軍来寇は威勢はなはだ激しく、第一戦で東呉は巫山、秭帰を放棄させられる。ついで蜀軍はまた“五渓蛮”に出戦を請うて戦力を増大した。陸遜はひたすら戦っては退き退いては戦いを繰り返し、すぐに退却すること数百里に及び、蜀軍は大片山まで突っ込んできた。黄武元年=222年2月、蜀軍はとうとう夷陵に攻め込む。陸遜は部隊にこれ以上は撤退しないが反撃もせず、堅守して戦わずを厳命。当時の諸将らは大概が孫策の時代からの宿老たちであったので、陸遜が自らを皇室の貴戚であることを恃みに無茶な命令を出していると思い込み、陸遜の厳命に反抗し迎撃を請うた。陸遜はこれに答えて曰く「劉備という男が百戦錬磨であることは天下に自明、曹操でさえ彼を恐れた。彼が我らの強敵であることは疑いなし。ただ我は一書生といえどもいったん主上の命を受けた以上、国家にさえ屈さぬ。いわんや諸君らが我が命に従わぬとは言語道断、今我は忍辱自重して劉備のおごりを誘うところ! 各位我が命に服従必須、違反すべからず!」といったのでようやく将軍たちの不満は解消された。呉軍はながらく出て戦わず、蜀軍は建平から猇亭のラインに駐屯、江の南岸沿い山に依って駐し、屯衛10カ所。これは後世“樹柵連営七百里”の史跡として残る。ともかくもそれを見て陸遜は孫権に上奏文を送り、曰く「わたくしが任務を拝命してから今に到るまで、蜀軍は水陸領軍ともに進み、我が軍を威嚇することはなはだ強でありました。しかし今蜀軍は船岸に寄り、まばらに営を結んで上流にある優位を自ら放棄しました。願わくは枕を高くし憂いをなくしたまえ、懸念不要なり。」陸遜はひきつづき軍内の将士の情緒不安を押さえつつ、山の険を利し専守防衛に徹し、静かに状況の変化を見続けて蜀軍に疲れが出るタイミングを見計らった。この年5、6月、双方高所に陣取り大川に依り、対峙すること4ヶ月有余、蜀軍は出征から11ヶ月を経てその闘志がついに廃れ始めた。このとき、山間には樹木が満々に繁り、盛夏の天候でひからびる。これに宜しく火をつければ、夏期の東風が灌峡を吹き渡り、火は連営を伝って快速猛進、東から西への逆襲を容易なものとする。夏に入ってから、蜀軍はまだその恐怖に気づかず山林を離れることなくして、呉軍は着々と火攻めの準備を完了させる。6月、陸遜は反撃の第一波を試み、全軍の将士5万に命じて全軍突撃を令す。蜀軍の40余営ことごとく火にまかれ、大将・張南、馮刁および五渓蛮の頭目・沙摩柯らことごとく斬首、おなじく大将の杜路、劉寧ら迫られて投降。劉備は馬鞍山に逃げ上り、陸遜は山を囲んで軍を集わす。劉備は夜陰に乗じて囲みをついて逃げ、魚腹に入る。蜀の水軍軍器、水路軍資はこのときことごとく東呉のものとなった。戦後河には死骸が漂流し、長江をふさぐほどだったという。損失の多大なること、失敗の無残なることにおいて、この夷陵の戦いは中国軍事史上まれに見る大惨敗のケースだったと言える。はたして赤壁に始まる魏、呉、蜀の三国鼎立はその条件として諸葛亮が論じた荊州を軍事基地として蜀軍が北は宛、洛をにらむという戦略構想が、蜀と呉の決裂によりここに破綻した。劉備をして呉、魏を滅ぼせしめるという諸葛亮の夢想は潰えたのである。


 大戦終息後、孫権は陸遜を武昌に召して口述させ、呉対蜀の策を研究させた。孫権は当初大将たちが不満を慣らし言うことを聞かなかったことについて特に問いかけ、「君は当初の将卒らの不満について我に呈言しなかったな?」というと、陸遜は「大臣らはみなこの国棟梁、わたくしはただ陛下のお引き立てで大都督に抜擢された書生に過ぎず、蘭相如、寇恂に倣ってただ口を閉ざし国事を済ませるのみであります。」と言ったので孫権ははなはだ感得し、陸遜の胸襟度量の大であることについて口を極めて褒めそやした。この功により輔国将軍兼荊州牧、また封爵を改められ江陵侯。


 まもなく、劉備が病死、劉禅が後を継ぎ諸葛亮が執政となるやすぐに東呉と蜀漢の同盟関係修復に乗り出した。呉と蜀の関係について孫権はすべからくまず陸遜の意見を聞き、蜀に対して発給する文書もすべてまず陸遜が目を通し、意見のあるなしにかかわらず陸遜の名で最発出された。やがて孫権は専用の官印を刻して陸遜に発給し、呉、蜀間の問題すべての事務処理を陸遜に任せるようになる。君臣の間の信頼がそれほど強かったということであり、中国の歴史上一時期とはいえこれほど関係の上手くいった主従も珍しい。


 黄武7年(228)、孫権は曹魏への対策を転換、これに反抗するため鄱陽太守・周魴を魏の大司馬曹休に擬降させた。曹休は十万の大軍を率いて睆に入り、周魴との応接を請うと、孫権は荊州の陸遜に今回の調略を明かして大都督に任じ、仮節鉞を授け、全指揮権をゆだねて曹休殲滅を命じた。陸遜は呉軍を率いて大いに魏軍を破り、斬獲万余、家畜数万、車両万余、軍器無算を獲た。曹休はわずかな人を領して馬で逃げたが、まもなく病死した。憤死であったと伝わる。陸遜は軍を還すとまた荊州に鎮護した。


 黄竜元年(229)、孫権は陸遜に大将軍、右都護を授ける。明くる年孫権は東の建業に遷都し、陸遜を武昌に遷して太子の補佐につけ、同時に荊州および豫章三郡の事務を任せた。


 陸遜は前線にありながら中華全土のことに関心を配らねばならぬ立場と成り、常に建業の孫権に上訴して自分の見立てを申し立てた。彼はたまたま法律の厳酷であることに気づき、法制を寛くあられませと建議した。孫権は彼の一大事的事情によりこれを棄却、軍隊を派遣して夷州(台湾)と朱崖(海南島)を取り、この征伐について陸遜の意見を求めた。陸遜はすべて不必要と断したが、以後も孫権は自分の妄執にとりつかれたように出兵行動を繰り返した。公孫淵が孫権に叛いた後も、孫権は自ら親征してこれを討つと言いはばからなかった。陸遜が上奏文によって力諫したことでようやくこれを入れたほどであり、若い頃に比べて孫権は明らかに自制を欠いた。


 赤烏7年(244)、前の丞相・顧雍が逝去すると、陸遜が丞相に任ぜられたが、まもなく孫権の二人の息子、太子孫和と魯王孫覇の権力闘争に巻き込まれた。陸遜は一貫して太子を支持したが、魯王を愛する孫権は中使を遣わして陸遜を問責、この両皇子の抗争に巻き込まれ死罪を賜った大臣ははなはだ多くに上った。陸遜は憂憤のうちに赤烏8(245)年2月、逝去。享年63才であった。陸遜の死後、家には余財といえるものは全く残っていなかったという。 

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