第39話 シャカ・ズールー(1787-1828)

 ズールー族の王、シャカ・センザンガコナはおそらく史上最も優れたアフリカ黒人部族の族長であり、軍事指導者であった。彼はの軍事的・政治的天才はわずか十年にしてサハラ南部のアフリカ諸部族の中における彼自身の小さな部族を「最も洗練され管理された、軍事的にパワフルな」ものへと改革させた。彼は戦術と武器の改革によりこれを達成し、敵を完敗させ、そしてその都度自軍に編入、吸収合併するシステムを作り上げ、自らの部族を巨大化させていった。彼はすべての偉大なる軍事指導者、すなわちアレクサンダー大王、ユリウス・カエサルやナポレオンと同様に、常に全局面を見渡して的確な指示を下す練達の指揮官であり、戦術、戦略のみでなく外交の技量にも優れていた。


 シャカの属するズールー族は総勢一五〇〇人に満たず、一六世紀から一七世紀にかけて南東アフリカ中に広がった数百の部族のなかでも、下から数えた方が早い弱小部族であった。彼は一応族長センザンガコナの長子として産まれたが、実際には父の血を継いでいない、母ナンディーの私生児であったから一族の後継者・相続人として認められていなかった。ためにズールー族の古老たちはシャカと母ナンディーに皮肉と当てこすりをもって接し、この誕生に関しての汚名から逃れるため、シャカは七歳の時母とともに母の部族、ィランゲニ(ズールー語で太陽の意)族へと移住した。


若かりし日の追放者

 しかしシャカはィランゲニにも長く滞在することがなかった。かれが十分成長すると彼と彼の母に対する迫害はより酷くなり、彼は族長の息子と対立、結果メッテタヴァの傍系の一氏族・・・ズールー族もィランゲニ族もその下に含まれる・・・に追放同然の形で送られた。

母ナンディーに対する世間の冷遇と彼自身への侮辱、そしてこたびの追放同然の処置という不名誉は、シャカの胸の中に深いいらだちと怒りの炎をともし、それは生涯消える事無く残った。彼はひたすらに戦士として指揮官としての自分を鍛錬した。たとえば投げ槍であれば三〇歩の距離でも草の葉に百発百中させることができるほどだったし、指揮官としての戦争の技能においても彼の指揮する軍団は部族内の模擬戦で敗北を知らなかった。


部族内革命

 シャカの戦争技術は彼をしてメッテタヴァの大酋長ヨブの注目するところとなり、一八〇七年のヨブの死後その後継者ディンギスワヨーに仕えて信任を受ける。ディンギスワヨー部の軍権を掌握したシャカは九年間かけて次々と周辺諸部族を服属させていき、そこには血も涙もなかった。その冷酷で凄惨な精神を作り上げたのは彼の父の非情であり、メッテタヴァでの冷遇であった。これがのちにズールー族の命運を大きく変えることになる。

 これ以前、部族間の戦争というものは遠距離からで投げ槍を投じあい、相手が「負けた」と言ったところで終了、後日また同じことを繰り返して期日になると両軍引き揚げる、というもので戦争と言うより力を誇示する儀式的な意義以上のものはほとんどなかった。シャカはそれを根本的に変更、イカルウァ~投擲槍でなく短兵武器としても使われるこの槍は、広く重い刃を備えており、肉から刃を引き抜いたときの音に因むその名称はそれまでの様相を一変させた。彼はまた牛皮の盾を鉄のそれに代え、攻撃のための武器として使う手段を彼の兵士たちに教え、突撃して盾の後ろから敵を貫かせ、ぐいとねじり込むや強烈な逆手のスウィープ(引き戻し)で敵の内蔵を抉らせた。さらにきわめて重要なことに、軍を三段に分かち、包囲戦術を実践した。敵に対して左右両翼からはさみ込み、圧迫された敵を中翼の吶喊が撃ち抜くのである。

 のちにズールーの国王としなった彼は、さらに古式包囲戦術を改革してイツィンポンド・ツェンコモ(バッファローの角)という陣形を創出した。まず「胸」部隊が接敵してヒット・アンド・アウェイを行い、ついで二本の「角」部隊が速やかに突撃する。そして「胸」部隊と「腰」部隊が翻ってまた突撃し、敵を崩す。これらの部隊は状況に応じて配され柔軟性を以て運用された。シャカが彼の兵士たちに与えた鉄の盾は四から六フィート、頭のてっぺんからつま先までを防護し、また彼は可動性を損ねるずさんなサンダルを廃するよう令した。

 歴史の不思議な偶然というか必然と言うべきか、シャカの戦術技法は古代ローマのレギオン戦術に非常に酷似していた。彼らは峻厳な訓練を受けて見事に編成され、彼らの盾は彼らの敵を打ち崩し、彼らの短剣はまたローマのグラディウスに似ており、殺戮に特化されていた。シャカは当然ながら古典や古代ローマの戦争や戦術知識を所有していたわけでなく、これは完全に彼が独創したものであった。彼は他にも様々な破壊のメソッドを彼の部族に伝授した。

彼の連隊型戦闘部隊と呼ぶべき新戦術は「ィシチュエ」と呼ばれる。時に彼の連隊はンドワンドゥエとの戦いにおいてこの部隊を率いて最も重要な、鍵となる働きを見せた。(ディンギスワヨーの)首脳の一人、メッテタヴァはシャカを主たるライバルと見てフォンゴロ・トゥゲラ地方に派遣して境界線を引くとともに、その機嫌を取るため一八一四年、最高司令官に任命しディンギスワヨーの評議会の一員に迎えた。


ズールー族の王

 二年後、彼の父センザンガコナが没すると、シャカはディンギスワヨーの支援を受けてズールーの族長となった。センザンガコナから指名されていた遺産相続人、彼の異母兄弟のひとりはひっそり殺され、その名も残っていない。かくてシャカは故郷に拠って自立した。彼の土地は四方一〇マイル、戦力は五〇〇人たらずの男子のみであったが、独立君主としての地歩を得た。

 シャカは自分と自分の一族が生き残るためには版図拡大する以外にないことを知っていた。そこで、彼は即位から一月以内に、武器を取れる全ての男子に連絡し、彼らを三連隊に分かち組織化した。三〇才から四〇才の男子、二五才から三〇才の男子、そして一八才から二五才の男子である。すべての連隊にはすでに彼がイシュチェで見せてその有効性を実証した交戦用戦術を叩き込まれ、またシャカは彼らの既存の槍を破棄、鍛冶屋に命じて高純度の鉄鉱石を使った新しいものを造らせた。この幅広で鋭利な槍が先述のイカルウァである。

 彼の母の郷里でありながら母子を冷遇したィエランゲニが最初に襲われ、隣接諸部族が次々とシャカの率いる殺戮マシンともいうべき連隊軍に打破されるか、あるいは投降した。過去に彼あるいは彼の母を苦しめたものはすべて囲いに追いやられ、追い立てられた牛に突き刺され殺された。これを知った力あるブレセチ族は断固反抗することに決めたが、これはシャカにイツィンポンド・ツェンコモの実力を改めて実証させる機会を与えた。それは筆舌に尽くしがたい一方的殺戮であり、たった一人のブセレチ兵すら残らなかった。彼らは敵の農地を焼きはらい、その女を攫い、子供と牧畜はズールーの中央に送られた。シャカは新しい総力戦の概念を持っており、この戦争は「インピ・エンボンヴゥ(血みどろの戦争の意)の最初のデモンストレーション、幕開けであった。

  

ンドワンドゥエ征服

 わずか一年の間にズールーの領土は当初の四倍になったが、シャカはまだ名目的にディンギスワヨーの一家臣であって、それゆえに慎重さが求められた。この憂いはディンギスワヨーがンドワンドゥエとの戦い前夜に捕えられて首斬られたことで解決し、シャカの前途が開けた。リーダーを失ったメッテタヴァ軍は四散し、シャカはンドワンドゥエとの対決の時が迫っているのを感じ取った。彼はイチシュエ連隊を含む全ての将兵を招集し、以前までメッテタヴァに仕えていた戦士の多くをヘッドハントして、さらに軍を強化すべく彼自身の首都クゥワブラワヨーへと戻った。

ンドワンドゥエが一八一八年初頭、ズールーの領土に侵攻してきたときまでに、シャカはできるだけの準備を全て整え、傲然と待ち構えていた。ウェリントンがやったように、しかし彼より三年早く、彼はそれをやった。慎重に、彼の軍が防衛的かつ決定的に敵を打ち破りうる場所を選び、クワッコキリ丘の緩やかな斜面を戦場に策定した。巧妙精緻な計画と優秀な戦術によって彼は数的優位なンドワンドゥエを撃破し、これを終息させた。

 シャカの勝利の多くはこの偉大な敵手ンドワンドウェに対してのものだが、この大功以前に良く彼の軍隊をフルに使って見せたことは知られる限りおそらくない。彼我の戦力差二対一あるいはそれ以上の敵に対して、シャカは彼の使いうる技術と詐術のすべてをここで使わなければならないことを知っており、故にそれ以前彼はその爪牙を隠していた。

 彼の計画は可能な限り長く持ちこたえることにあった。かつ彼はその戦士四〇〇〇にホワイト・モフォロジ川の増水した浅瀬を渡らせるという困難な任務を命じ、また彼らにクワッコキリ丘の後ろに上陸するよう命じ、川の南二マイルのところで彼らを待機させ、おのおのポジションに配備、これを丸状丘の蔭に低く隠れさせ、一〇〇ヤード先の田園からもほとんど発見できなかった。シャカにとって幸運なことに、クワッコキリに待ち構える危険な罠に気づけるほど優秀な指揮官はおらず、そしてシャカ自身はこの土地がどれほど重要であるかを熟知しており、かつペテン、詐術の練達であった。彼は丘の周囲に部下の一隊を派遣し、丘の南頂上に潜んませてひっそりと待ち構えた。さらに予備兵を残して後方に隠し、長期の包囲戦に備え牛を大量に殺し、水と食糧と薪を確保する。その上で敵の体力を奪うため、糧道を塞ぎ兵站所を潰しておいた。

  彼の手腕は見事であったが、しかしながらクワッコキリ丘からほど近い平野に盤踞するンワンドゥエ軍指揮官ノモハランジャナが動かなかったため、エントンヤネニ高地の牛飼いたちを囮に使いノモハランジャナを誘い出そうとした。果たして彼の軍の一部はこれを追い立て、牛飼いたちはシャカの命令通り狼煙を上げて敵勢力の分断に成功せりと報せた。

 かくして戦闘はシャカの計画の通りに進んだ。川に潜む四〇〇〇の伏兵は退こうとする敵に激しい追撃を与え、初日はきわめて多くのンドワンドゥエ軍卒を殺した。二日目、ノモハランジャナはズールーの牛飼いに兵を割いてしまった後で自分がシャカの策にはまったことを思い知った。彼の兵士およそ七〇〇〇は半円状にクワッコキリ丘の前線基地を囲み、これを開くべく前進して最前線防御兵一五〇〇に攻撃を加えようとしたが、そこにシャカの号令一下、ズールー族が先制攻撃を仕掛け、そして彼らは徹底的に仕込まれたイカルウァによる超近接戦闘で、見事大差をつけてンドワンドゥエの将兵を撃破した。

 ンドワンドゥエが退くと、シャカは麾下の士卒たちを予備兵と入れ替えた。それが夕闇を利用して行われたので、彼の敵は自らの敵手が一体どれだけの兵を擁しているのか、正確なところを知らなかったという。ンドワンドゥエは今回の戦で丘の前哨基地周辺全体を攻撃した結果ズールー族一人に対しンドワンドゥエの兵一人が死ぬという大敗を喫したことで非常に不愉快になった。ノモハランジャナは兵たちに疲労して養生しているよう装わせ、そして自らの企みを試みた。しかし用意周到なズールー族の備蓄はンドワンドゥエ軍のそれを大きくしのいでおり、彼らにとって堅守して出ず罠を避けることは困難でなかった。

 傲慢なズールー人はいずれ自壊すると見て、ノモハランジャナは幅二〇〇ヤードにわたる巨大な縦隊を組織、これを丘上に向けた。これに対しシャカは彼お得意の「バッファローの角」陣形を取るべく、まず「胸」部隊でンドワンドゥエの縦隊を受け止め、左右の「角」隊で敵の側翼を穿った。ノモハランジャナと彼の四人の兄弟たちは虐殺の巷に斃れ、ンドワンドゥエ軍は四〇〇〇~五〇〇〇の死者を出した。これはまるでカンナエにおけるハンニバルのように見事な包囲殲滅戦であり、敵にとっては深刻な大惨事であってンドワンドゥエを追って鏖殺するチャンスであったけれども、シャカが追撃を行わなかったのは彼の軍民に補給を行うための時間がきわめて重要であり、そのため海岸ほど近くまで移動する必要があったからであった。農業収穫と兵の補填のためシャカは撤兵して忙しく動き回り、この戦いの勝利はまだ進行中の一作戦の第一回戦にすぎないと知っていたけれども、駆け出しのズールーという国家の自立自尊のためにきわめて重要な意義を持っていた。

 シャカは彼の軍隊を一九一八年までにほぼ完成させた。そのために非情で冷酷な外交、残忍な征服を織り交ぜて彼は彼の国家を大きくすべく腐心した。彼はもはやその制御下にホワイト・モフォロジとトゥゲラの両川の間の全ての氏族を置いた。この勢力の伸張は彼をしてフォノゴロの北に種族の精力基板を移す野心を固めさせた。ちなみにフォノゴロの北とは現在の南スワジランドである。一八一九年、シャカは再びンドワンドゥエを撃破した。


シャカの軍事システム

 シャカの権威が増すに連れて軍隊の規模も大きくなり、全ての成人男子に徴兵義務が課された。三才から一四才までの少年たちはアマカンダ(軍事訓練所)に入れられ、そこで牛を飼い作物を育て、そして軍事訓練を受けた。その後彼らはアマブートゥ、別称を年齢別軍隊に編入され、さらに八ヶ月の共同生活を経た後ようやく家に帰ることを許された。その後年の四分の一の間彼らはアマカンダの指導員として働き、国を挙げての祭りがあるとき以外は半武装状態を強いられたし、戦時には連隊の一員として一人前の働きを要求された。シャカは結婚願望の強い兵士たちを愚かと思いつつ、彼ら集団の結束を強め結果として国家を強くするために女性を軍隊の特権システムに組み入れたが、彼らはまずシャカによって認められねばならず、アイシココという賞を獲得している必要があり、そして三五才前の兵士にはまずめったに認められることがなかった。アイシココは成人したと認められ、村落のコミュニティに完全に認められたものにのみ与えられる賞で、これなしで結婚も帰宅も許されなかった。比較的遅い時期までこれを与えることを控えることで、シャカは彼らを部族の長老の支配下に置き、長老たちを統制下に置くことで若いズールーの兵士たちを頑強に保つよう仕向けた。

 わずか数年にしてシャカの軍隊は五〇〇人から二〇〇〇〇人にまで跳ねあがった。版図に至っては一〇マイルが一一五〇〇平方マイルである。彼が征服した部族の多くはツルスという言語を使い、その言語による統一の拡がりにより人口はまもなく二五〇〇〇〇人という膨大な膨れあがり方を見せる。シャカの闘争はもはや生存戦争ではなく、征服戦争であった。牛の所有数によって格が決まるズールー族は、犠牲者から奪い取った多数の牛によってまた富んだ。一八二四年までに、ズールー族は現代のナタール地方を完璧に制圧し、その過程でイングランドのケープ・コロニー境界線の駐留英軍を踏みにじり圧倒した。この蹂躙は「圧倒」という意味のムフェカンと称される。(ただし、広義の意味でこの言葉は北方のライバル、新興のトゥゲラ族の民族移動に対する緊急戦争を含むズール族の全ての戦争を意味する)

  

最後の決戦

 敵はまだその息の根を止めてはいなかった。ポンゴロの北を越えて後退してから後、ンドワンドゥエは数年がかりで力を蓄え、あらたな軍隊を創建していた。一八二六年秋、彼らの若き族長・シフンヤナはポンゴロからズールーの領土を侵した。これについてヘンリー・フィンというイギリスの初期入植者は「巨大な宮殿にその全軍二万を呼び寄せるや北進し、人馬は巨大な塵を瞬かせた」という。フィンはシャカの英雄的活躍を賞賛し、彼が各連隊をどう扱いどう指揮するかを監察した。戦士たちはおのおの武器を持って盾を背に負い、穀物はトウモロコシ、鉄分は牛の肝で補給した。若年の兵士は絨毯を運び、大量の糧を積んだ牛たちを牽引した。

 ズールー族は一〇日間の行軍ののち、カンブラの戦場にほど近い左岸の尾根に登った。五三年後、ここでズール人は小銃と大砲によって武装したイギリス軍に撃退されるが、一八一九年シャカが指揮した場合は違った。シャカは間諜を放って情報を収集し、敵を誘引するべく少数の先遣隊と守備兵を出した。これら間諜はシクナニャといい、クワッコキリの丘の戦いの半ばでイジンドロウェネの丘にある岩石の頂上から眼下を俯瞰してシャカに報告、彼をしてすぐさま戦士たちを集中させることを可能としたなど活躍している。彼らは丘に登り、家畜をその上に、さらにその上に妻子を置いた。戦場の範囲を考えればシャカは自分の思い通りの戦術で戦うことができなかったが、ただ唯一の救いとして、全て上手く行けばンドワンドゥエの勢力にとどめを刺し、その残党をズールーが潰滅させることが可能であるから、シャカは二正面作戦を避けンドワンドゥエ勢力に正面攻撃を仕掛けることとした。フィンおよび彼と同じくシャカに力を貸すことを諒諾したわずかながら火器を持ったイギリス軍入植者たちである。

 しばしの間ンドワンドゥエはシャカの国土を蹂躙したが、やがて小道を通ってシャカとその軍団が引き返してくると、前後から挟撃されたンドワンドゥエは算を乱して逃げ惑った。それはまさに女子供のような惨めさで、ほぼ全ての兵士が機敏な裸足の追跡者たちによってほとんど殺し尽くされた。少数の生き残りの中に物陰に隠れて生き延びたのちの族長・シフシャナがいた。

 この勝利により、シャカはようやく最後まで頑強に抵抗した、彼の治世にとって最も危険で永続的に彼を悩ましかねなかった脅威を取り除いた。わずか一〇年の間に、彼の比類なき天才は北はデラゴア山から南はムタンヴゥナ川、インド洋からドラッケンスベルグ山脈までにわたる広大な版図を実現した。しかし彼の支配が長く続くことは不幸にしてなかったが。

  

暴君、死す

 ズールーの民は絶え間ない戦争に倦み疲れた。しかも、彼らの支配者は酷刑を濫用する傾向があり、食事中に誰かがくしゃみをしたというだけでその頭を断ち割った。極めつけは一八二七年、母ナンディーの死に際してのヒステリックでドラスティックな反応であり、数千人が哀悼のために生け贄とされ殺された。シャカは向こう一年の間女性たちは農耕も乳搾りも妊娠することも許さないと布告した。三ヶ月後、シャカは自ら反省して布告を取り下げたが、彼の名声八は地に堕ちてもとにもどることがなかった。

 彼の異母兄弟、ディンガネとマハランガナがシャカの暗殺を企て、一八二九年九月二四日、軍事作戦中のシャカが無防備になっている所を彼らは襲撃した。シャカは彼らに刺されながら「これはどういうことだ、同じ父の子でありながら私を殺そうというのか!?」と叫びまた命乞いしたが、ディンガネらはシャカの絶叫に近い言葉を無視してイカルウァを深く突き刺し、シャカの命を奪った。享年四一才の若さであった。

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