第37話 ナポレオン・ボナパルト

ナポレオン・ボナパルト(一七六九-一八二一)

ナポレオンは空前絶後の成功者の一人として歴史に名を残す。その評価は実力相応のものと言って良いであろう。二十年余の間フランスの革命軍を指揮した彼は一個人としての名で十一の作戦と六十以上の戦闘を行い、彼の帝国のいわゆる大陸軍は、イギリス以外、全てのヨーロッパの大国を破った。彼の威勢の絶頂は一八〇七年、三十八歳の時で、彼はカール大帝のそれに匹敵する領土を統治するに到った。それはほぼ西ヨーロッパの全てに及んだ。ナポレオンはほぼどんな将軍より以上の才能を持っており、また最も成功した政治家の一人でもあった。彼は改革と宣伝を巧みに結合させる技能を駆使し、今日に到るまで続く遺産を創り上げた。


一章、戦歴の始まり

一七六九年八月十五日、コルシカ島のフランスによる占領から一年後に生まれた。ナポレオーネ・ディ・ブォナパルテは地元の名士家族カルロ・ブォナパルトとその妻レティツィアの、生きている内では二番目の子供であった。


ナポレオン最初のポジションは、ヴァレンスのラ・フェレ連隊であった。彼は最善を考え、最良ではないにしろ当時のフランスにおいて最大の威力を誇る砲兵科に合格し、砲兵士官となっていた。ナポレオンは続く数年間、コルシカとフランスの間を行き来し、コルシカに戻った。彼のフランス陸軍におけるキャリアは島への忠誠・郷土愛によって引き裂かれた。


そして一七八九年フランス革命到来。その当時ナポレオンはコルシカ政府に深く関わっていて、彼と彼の兄弟は当時の主導的政治家でありナポレオンの幼少時代の英雄、パスクオーレ・パオリに取り入ることを試みたが、ボナパルト家の人々は結果的にフランスで急進的なジャコバイトと連携し、彼の一族は島のパオリストたちと争った。これはコルシカ島の氏族政治の基幹部分をなす問題であるが、ために彼の家族は1793年の間コルシカから亡命しなければならないほどに状況を悪化させた。


ボナパルト一家は一七九三年六月、政治亡命者として南フランスに上陸。ナポレオンの運命は今こそフランスと革命とに結びつけられた。


彼の最初の成功は数ヶ月後、彼がイギリス人によって占領された港町、トゥーロンの包囲戦に参加したときにはじまる。ナポレオンはオーギュスタン・ロベスピエール、マクシミリアン・ロベスピエールという公共安全事業部の兄弟を含め、些かの力がある男達に接触しており、続いてポール・バラスのもと独裁政府で主導的役割を担うようになる。トゥーロンにおける彼のパフォーマンスの対価として、ナポレオンは一躍准将に昇進せられた。にもかかわらずフランス革命政府の性格は移り気であり、能力の無い政治指導者および将官が目に余った。彼らが籠の中に刃を落とすまでの間、ナポレオンは待ち続けた。一七九四年七月、ロベスピエールが逮捕されて処刑を求められ、彼の創設したジャコバン政治連盟のためにナポレオンも暫時投獄された。彼は釈放されたが砲兵隊から「追放」処分を受け、そこで叛乱鎮圧に参加するため西フランスに行くよう命ぜられたが、よりよい何かを期待してパリに滞在したナポレオンは、そこで驚愕する事になる。それはパリの王党派議員による蜂起という形を取った。その革命が行われた月(一九七五年一〇月五日)のために、ヴァンデミールのクーデターとして知られる。バラスはトゥーロンの時からナポレオンを覚えていて彼を議会の警護と砲兵隊整備のために再起用し、ナポレオンに当地の大衆を砲撃するよう命じた。ナポレオンはこのとき有名な「つんとくる臭いのブドウ弾」を用意したと物語にいわれているが、しかし彼が砲撃命令を下した、あるいはその場に出席していたという証拠はない。ただし、もし本当に事件が全く起こらなかったなら砲撃はなかった、であって、現実にこの臭気弾は使用されたのだが。


二章、力の流れに乗る

にもかかわらず、クーデター鎮圧における役割の報酬として、ナポレオンは国内においておそらく最も影響力を持った軍の一方面軍総司令官に抜擢された。ナポレオンが史上ジョセフィーヌとして知られるローズ・ドゥ・ボーアロネ夫人に出会い、彼女のご機嫌をうかがい始めたのは一七九五年一〇月のこの頃からである。彼らは一七九六年三月九日に結婚、ナポレオン二十七才、ジョセフィーヌは三十三才であった。婚儀から二日後、ナポレオンは方面軍の指揮を執るためイタリアにおもむく。彼はしばらくの間彼の政治的指導者達にひどく悩まされていたが、やがて彼らはナポレオンに対する態度を軟化させ、同情的になった。


この時期までのナポレオンの軍事経験は限定されていた。彼の戦歴は少数の暴動鎮圧、サルディニアを取るための過酷な遠征、トゥーロン包囲戦と、そして一九七四年の北イタリアで革命政府の防衛隊員として随行していたが、しかしまだその程度でしかなかった。彼の軍事への考え方は実際の戦場経験ではなく、書物からのものだった。そして、よい戦略思想家が、必ずしも良い将官になるとは限らない。ナポレオンの場合、イタリアでそれまで疑いもしなかった何かを発見することになり、それが彼を才知に長けた比類無き戦略家たらしめることになる。一七九六年から一七九七年を通じての一連の会戦-モンテノット、ミッレージモ、モンドヴィ、ケラスコ、ロディ、カスティグリオン、アルコーレおよびリボリ-ナポレオンは最初ピエモンテ、そして次いで多数のオーストリア軍を破った。ナポレオンは、彼が主としてすでに書物や歴史から継承していた戦術テクニックと戦略的思考を完璧にして、その考えを実行に移した。彼が、フランスに従属させられた属国・・・名目上は姉妹共和国を作り、被征服者をどのように管理していくかを学んだのもこの時期であった。結果として彼は自らの利点をメディアに流し世論を操作する方法を身につけた。軍事行動および政治活動は一七九七年一〇月、カンポ・フォルミオ条約によりひとまず終結した。今なおフランス革命軍に対して戦争を行っているのは唯一英国のみであった。


一七九七年一二月、ナポレオンはイタリアからフランスへ戻った。彼は手短かくイギリス侵食の可能性を計ったがそれを放棄し、代わりに外交問題を有利にするためエジプト遠征を立案、大臣チャールズ・モーリス・ドゥ・タレーランとともにフランス革命政府総裁府を説得した。それは実態に「活動を文明化する事」という体裁を貼り付け、研究遠征の形で(うまくすればインドをも介して)英国を間接的に攻撃する手段として受理された。一七九八年七月、ナポレオンはネルソンのイギリス艦隊から逃れつつ、成功裏にエジプトに上陸した。苦痛を伴う進軍の後に砂漠を越え、フランス軍はピラミッドの戦いでマムルーク軍に対して懺悔すべき無慈悲な態度であたり、カイロに入った。八月二日、ナイルの戦いでネルソンはフランス艦隊の上に勝利を飾り、ナポレオンの部下の、限られた一部ではあるがを撃破した。ナポレオンは事のついでに、一七九九年のはじめにシリアへ行軍する事によってエジプトにおけるトルコの逆襲の機先を制しようとした。この作戦この段階におけるもっとも顕著なエピソードはヤッファの大虐殺で、町民だけでなく何千の囚人までもがフランス軍の犠牲になった。フランス軍の前進に対してアッカのSt.ジーンは防衛を長引かせたが、攻城砲の欠如とペストの流行が攻城側を悩まし、シドニー・スミス卿の組織だった管理による助けの前に防衛側を利すこともなかった。しかし大局はナポレオンにとって大いに不利となったといえた。疫病と困窮と現地人の怨嗟に苛まれ、これはのち十二年後、彼がモスクワから長い行進をして撤退したロシア遠征の失敗に似ていた。ナポレオンは彼がカイロに入ってからほぼ一年になる一七九九年七月二五日、アブクール湾に上陸したトルコ軍をちょうど打ち破った。その後まもなく、ナポレオンはエジプトで軍の一隊を捨ててフランスへ帰るという結策を取った。


彼がフランスの南岸に上陸したとき、それはアブクールの勝利のニュースをもって報じられ、誰もがエジプトでの苦難と現実には思いを致さなかった。彼はまもなく多くの陰謀家を除き、腐敗した政府を打ち倒した。そして新しい憲法の想起を望む、現状不満派の政治家の接近を受けた。彼らは彼ら自身が実行するつもりであったクーデターに軍のサポートという「剣」を必要としてナポレオンに接近したが、ナポレオンは逆にその計画事態を乗っ取って自らがクーデターの首魁となった。一七九九年十一月九日、ブリュメールのクーデターは、それが知られるようになったとき、名目上ナポレオンは他の二人の執政とともに力を与えられたが、実際にはたった一人の第一執政、ナポレオンが最高権力者となった事は誰の目にも明白であった。


三章、ヨーロッパ征服戦

ナポレオンは速やかに彼自身の地位を確立するため、協定で頂点に達した革命意識を発揚し、まず一連の改革の第一としてカトリック教会と国内の法典(一般にナポレオン法典として知られる)を整備した。ついで速やかに第二連合戦争を終結させる。次いでイタリアの軍事作戦を想起し、一八〇〇年六月十四日、イタリアから退くオーストリア軍を見てとり、マレンゴの戦いで接戦した。


一八〇一年オーストリアとルーネヴィル条約を結び、英国とのアミアンの平和を締結したナポレオンの評判はうなぎのぼりとなった。一七九二年戦争発生以来、フランスが久しく体験する平和だったのだからそれも無理からぬ事。ナポレオンは一八〇二年、国民投票により終生第一執政となり、新しい王朝と帝国の基盤作りに向け新たなステップをのぼった。一八〇四年五月、正式にナポレオン一世即位。一二月、ナポレオンは彼自身の責任においてパリス婦人(麗しのパリ)で戴冠式を執り行った。


アミアンの平和は、しかしながら長くは続かなかった。十八ヶ月の内に英国、ロシア両国はフランスの派遣に我慢ならなくなり、一部ナポレオンの領土拡張政策に対する反感によってフランスに対する連合を結んだ。一八〇三年新たな戦争が宣告され、一八〇五年実際の領土作戦がはじまって、その当時ナポレオンと帝国軍のほとんどはイギリス侵略の用意を調えフランスの海岸上、ブローニュ近郊で野営していたロシアのアレクサンデル一世とオーストリアのフランシス一世が彼に対して同盟を結んだのは教訓を学んでのちの事であったが、ともあれ英国と共同してナポレオンに対する事に決めた。ナポレオンは東方からの攻撃を待つより、むしろフランス海岸から東に行軍し南ドイツに向かう事によってこれらを先手必勝で奪い取った。一八〇五年ウルム、そして十二月二日アウステルリッツでオーストリア-ロシア同盟軍を大いに破って勝利に導き、プレスベルグ条約をオーストリアに押しつける。他方ロシアは損失に気を害し、国境線後方に退いた。ナポレオンは神聖ローマ帝国に代わって中央ヨーロッパの支配者たらん事を望み、またライン同盟を作って大いに諸州を変容させようと考えた。


プロシアは一九七五年から中立であった。一八〇五年に到っても田フランス連盟に加入する事をためらったが、ようやく瀬戸際になって事を起こした。同盟国の敗北によって同じく屈辱的講和を結ばされ、ハノーヴァー(運悪く、当時の選帝侯は英国のジョージであった)を占拠され英国の出荷封鎖を認めざるを得なかった。しかしながら翌年、ハノーヴァーに対するフランスとイギリスの噂が流れる中、プロシアはフランスをラインの後方に退かせるため、最後通牒を突きつけた。


ロシアの援軍を待つより、むしろプロシアは能動的に行動した。イエナの急勾配にフランス軍を誘い込み、そしてアウエルシュタッドで決戦(一八〇六年十月十四日)したが、プロイセンの軍隊は昔日のフレデリック大王の下での精強に及ぶべくもなく、鎧袖一触されて崩壊した。わずか数週間でフランス軍はプロシアのほぼ大部分を占領してしまった。ナポレオンはプロイセンの首府に入り、そこから英国と大陸の間の全ての貿易を禁止する勅令を下し、十一月二十一日ベルリン判決を公表した。


プロシア国王フレデリック・ウィリアム三世は覇気を失ったが、完全に駄目になったわけではなかった。彼の「友人」、同盟国ロシアのアレクサンデル一世が彼をサポートし、プロシア人を援助した。しかし、ロシア主導でのアイラウ(一八〇七年七から八日)とフリードラント(六月十四日)の二戦に連敗すると、敗戦後ロシアは講和を求めての訴訟を起こし、一八〇七年七月七日ティルジットの結果の条約はニーメン川において、(痛ましい運命を待つフレデリック・ウィリアムとともに)筏の上で皇帝アレクサンデルとナポレオンが調印し、ヨーロッパ版図の再構築を行った。プロシアはその領土を往年の半分にまで減らされ、その一部はナポレオンの兄弟ジェロームによって支配される新しいウエストファリア王国に取り込まれた。残りの版図はワルシャワ公爵領となった。さらに、ロシアはフランスの英国への戦争を支援し、ヨーロッパ大陸から商品を封鎖する(大陸封鎖令)のにも同意した。


四章、敗北と没落

ティルジットはナポレオンの力が頂点に達した瞬間だといえる。彼は東のオーデル河から西は太平洋まで、北はバルト海、南はシシリーにまで拡がる大版図を獲得した。大陸的機構の開始以来彼は伝統を主導し、イベリア半島介入の一八〇七年、教皇領侵入の1808年、そしてロシア遠征を決行した一八一二年と記念のナポレオン金貨を鋳造した。究極的にロシア遠征こそが彼を失脚に導いたのであるが。スペインにおいてナポレオンはバーボン下院の連中を掃討して自らの兄無能なジョセフを玉座に据えたが、まもなく空前のスケールの大反乱に悩まされる。ゲリラ闘士とスペイン正規兵のコンビネーションに手を貸すため、英軍は年に二十から四十万の兵員を動員して、百万人いるとすればほぼその四分の一に達する死傷者コストを支払った。ナポレオンは個人的理由からスペインには長期滞在しなかったが、しかし一八〇九年の動乱には困惑し手に負えないものを感じた。オーストリアが英国の資金援助で復活し再びフランスとの戦いに踏み切ったとき、ナポレオンは注意散漫になっていたようである。続く作戦のアスペルン-エスリングの戦い(一八〇九年五月)でカール大公の前に、ナポレオンは本当の意味で初の敗北を喫した。しかしながらカール大公は利を活かしての速やかな追撃を行わないという失策を犯し、翌年彼はワグラムで不利となるや早々に単独講和したのでナポレオンはこの難敵にこれ以上振り回されずに済んだ。一八一〇年、ナポレオンはジョセフィーヌと離婚し、十六才のハプスブルグの王女、マリー・ルイーズと結婚する事によってオーストリアの敵対心を封殺した。もしそのままフランスとオーストリアが関係良好となったならロシアとの関係もティルジットの後にあそこまで悪化しなかったかもしれないが、悪い事に2人の皇帝が一八〇八年にエアフルトで会合したときから関係は非常に悪かった。その多くはナポレオンの人格的欠陥による。一八一〇年までに両国は戦争へと向かっていった。ナポレオンはオーデル川を渡るのに先駆ける事二年前の、一八一二年六月の時点でヨーロッパ最大最強の大陸軍を編成していた。それに続く作戦は始まりから終わりまで惨憺たるものであった。世評に反し、大陸軍がモスクワに着くよりずっと前から、ナポレオンは脱走、病気、戦闘(スモレンスクにボロデャノ)とそしてなによりロシアの寒冷のため、兵士達の大大半を失う事となった。ロシア軍は慎重にナポレオンからより深い焦慮を引き出した。兵站を断たれるに至ってナポレオンはついにモスクワから撤退する勇気と賢明さを発揮し、ここに命がけの撤退行がはじまった。彼らが元来たルートは危険であり、ナポレオンは軍を諸路に分かった。それでもフランスに帰還したとき、ナポレオンは四十万の兵士を失いまた全軍の四分の一が戦没しており、無事帰還できたのはわずかに二万人の兵士でしかなかった。


敗北はナポレオンの帝国支配がその実すかに不安定なものであるかを如実に示した。彼は今や中央ヨーロッパ、ロシアの大失敗を経て兵力窮乏し、これまでに打ち立てた偉業を放棄せずにいるためには一八一三年を通じての最終的抵抗線を切り抜ける事を強いられた。ナポレオンはロシア-プロシア連合軍を回避する事も出来たが、彼は勝利という実績を持って失墜した権威を取り戻す必要があった。六月前のリュッツェン(一八一三年五月二日)、そしてバウツェン(同月二十-二十一日)は確かに大勝利ではあったが、しかしフランス側の損害は敵に二倍するという、ハイコストな戦いであった。一八一三年七月、オーストリアがこの戦争に参戦、同盟国は強化され、彼我の戦力バランスが書き変えられた。そこで、歴史家ピーター・パレットに史書の改ざんを頼んでいる中、ナポレオンは不意にもう一人の自分、有能な将帥に変身した。決定的な(時として諸国民の戦争として知られる)戦闘ライプツィヒは、十七万七千から十九万五千といわれるフランス軍に対して同盟軍三十二万とも三十六万五千ともいわれる史上最大の陸戦となった。四日間の戦闘でナポレオンは十六日突撃を加えたが阻まれ、十七日休戦を申し入れて拒まれ、十八日麾下のザクセン軍が敵に寝返り、十九日ナポレオンは万策尽きて逃げ延びた。ブレンハイムがルイ十四世の分水嶺であったように、ライプツィヒはナポレオンにとってのそれであった。あるいはスターリングラードがヒトラーのための舞台だったのと同じように。


一八一四年最初の数ヶ月、ナポレオンはナポレオンは絶望的に崩壊していく彼の帝国でそのもてる力の全てを駆使して連合軍を食い止めようとしたが、若干の天才的ひらめきの発露はあったものの趨勢を変える事は敵わず、ナポレオンは同盟軍のパリ入城を食い止める事が出来なかった。以下歴史書にあるとおりの蛇足ではあるが、一八一四年四月、彼はエルバ島に流され、一年後帰還していわゆる百日天下に復活する。一八一五年六月十八日ワーテルロー(ウェリントン曰く「天の最も近くにある戦い」)の敗北で百日天下の夢破れ、二度目の配流先として西太平洋上の離島セントヘレナに流される。ここで何年かの亡命生活の後、一八二一年五月五日、彼は死んだ。死因は胃癌であったという。


コラム

「アウステルリッツの戦い」

アウステルリッツはナポレオン一世の究極の戦闘芸術として一般に評価される。神話と宣伝をそれ以前の軍司令官とは比較にならないほど重視したナポレオンにとって、この戦いは実際の千頭以上の意味と価値を持った。


この戦いに先だって起こったいくつかの作戦は即興であったが、その中にこそナポレオンの知性の輝き、天才性がある。時に時にロシア、オーストリアおよびフランスのナポレオン自身を含め三皇帝の戦いと呼ばれるこの戦いは、一八〇五年一二月二日、ナポレオン戴冠式の記念日にブルンからおよそ一五マイル東のパルチザンの高地で行われた。高地の南には二つの浅瀬があり、戦いの前にそれに気づいたナポレオンは自分がミスをした事に気づいて高地占領を断念した。


彼は高地を取ることが出来ず、しかも明白に数で劣っていた。フランス軍訳六万六千に対して同盟軍は八万九千といわれ、同じく大砲は百三十九対二百七十八であった。この作戦の鍵を握るのはダヴー麾下六千人の兵団であった。作戦はフランス軍右翼が後退を装って敵を誘い出し逆撃、パルチザンが誘われて高地を放棄したら隠れていたウーディノの擲弾兵と帝国警備兵、そしてベルナドットのフランス左翼が適宜これを攻撃する、というものであった。


ナポレオンはフランス軍左翼が高地を厭うだろうから、自らこれを取れと命令した。戦いは計画通りに進み、およそ午前七時、連合軍は嵩にかかってフランス軍を攻撃し、ナポレオンも苦戦させられたが、ダヴーの到着により敵の攻撃は頑強に阻まれた。


午前九時までにナポレオンは、正確に全ての高地を同盟軍が断念、破棄したのを見て取り、自身の中軍と左翼に総攻撃を命じた。午後三時半までにフランス軍は高地占領を完了して、そして今や低地にあってフランス軍の攻撃に逃げ惑う敵を砲撃した。同盟軍の脱出の試みは総崩れに変わり、わずかな兵士が氷に覆われた湖の上を通って向こう側に逃げようとしたが、フランス軍は無慈悲な砲撃で氷を割り砕いた。およそ二千人がこうやって溺れ死んだという。


アウステルリッツにおけるナポレオンの戦略は史上類を見ないほど計算尽くの作戦であった。もし戦いがあと一日早く行われたならダヴーとベルナドットはまだ到着せず、そしてフランス大陸軍はそうした大きい危険にも直面したであろうが、全てはナポレオンの読み通り、ダヴーもベルナドットも時間に到着することをナポレオンは至当に把握していた。この深く繊細な読みと見切りがナポレオンの戦略を印象づける最大のものであったが、それでもこの戦いが通常歴史読本で記述されるより遙かに困難であったことは間違いが無い。敵軍の死傷は多かった。一万五千から一万六千を殺し、負傷者および捕虜は一万一千から一万二千、あるいは同盟軍の三分の一に上ったとも言われる。


対するにフランス軍の損害は死傷者あわせて七千八百。フランス軍は苦戦したものの損害は軽微であった。戦闘翌日、フランシスは早くも和睦を求めて訴訟を起こし、その一ヶ月以内にプレスベルグ条約に調印した。ロシア勢は撤退し、これは英国以外でフランスと闘う唯一残った大国の脱落を意味した。

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