第36話 劉宋・檀道済

檀道済(だん・どうせい。?―436)

 檀道済は高平金郷の人であり、東晋の左将軍・檀韶の弟である。ちなみに檀という姓で高平金郷の人、というのはこの時代にきわめて多い。幼くして孤児となり、喪中も礼を尽くし孝を守った。姉とその旦那夫婦に養われ、その恭敬によって人々に称えられた。


 栄達するには軍隊が一番手っ取り早いと思ったのか、宋の高祖・劉裕が義挙をあげたとき、彼に従って京師に入る。以後高祖建武の軍事活動に参与し、西に転戦。魯山を討ち平らげ桓振を擒え、昇進を受けて輔国将軍、南陽太守。義挙参加の勛功をもって呉興県五等侯。五等とはいえ侯になった。廬循が叛逆し群盗と互いに連携、郭寄生らが作唐で衆を集めると、檀道済は揚武将軍、天門太守としてこれを討つ。また劉道規に随って桓謙、荀林らを平定し、文武兼備、身を士卒に先んじて突撃すれば向かう所に打ち破れぬものなし。徐道覆が現れると劉道規は自らこれを拒んで戦い、その戦役における最著の功労者が檀道済であった。遷されて安遠将軍、武陵内史。また太尉参軍、中書侍郎を拝し、転じて寧朔将軍、参太尉軍事。作唐県男に封ぜられ、食邑四百戸。さらに太尉主簿、諮義参軍。豫章公の世子が征虜将軍として京口に鎮すと、檀道済は司馬、臨淮太守としてこれを補佐する。転じて西中郎司馬、梁国内史。また世子により征虜軍司馬、冠軍将軍とされる。


 義熙十二年、高祖は北に後秦を伐ち、檀道済に先鋒を任せる。出発して淮河、?水を通り、敵の諸城の戌将は風見鶏であったので、悉く降伏させる。さらに進んで許昌に克ち、後秦の寧朔将軍、潁川太守・姚坦および大将軍・楊業らを擒える。成皋に至り後秦の?州刺史・韋華を降す。順調に洛陽まで抜き、後秦の平南将軍・陳留公・姚洸を帰順させる。およそすべての城を抜き塁を破り、俘虜四千余を獲る。あるもの曰く京師を占拠していた賊はことごとく戮すべしと。しかし檀道済は「罪を伐って民を許す、それによってまさに今日があるのだ」と言い、賊を悉く許した。ここにおいて戎、夷諸族感悦し、檀道済に帰順するもの甚だ多かった。進んで潼関に拠し、諸軍とともに姚紹を破った。長安はすでに平らがれ、ここで檀道済は征虜将軍、琅邪内史。また世子を輔弼して江陵に入り、西中郎司馬、持節、南蛮校尉とされ、さらに征虜将軍を加えられる。遷えられて宋国侍中、領世子中庶子、?州代中正。


 高祖が天命(と言う笑止な宿命論)を受けて禅譲されると、護軍、散騎常侍、領石頭戌事。殿中へ入る際の一切の形式を省く恩典を授かる。佐命の功により改めて永脩県公に封ぜられ、食邑二千戸。この時点で梁の韋叡が生涯に授かった食邑の二倍。また丹陽尹とされ、護軍は以前どおりに兼任。高祖不予の時のため自由に動かせる儀仗兵二十人を賜る。


出監して南徐・?および江北・淮南諸軍事、鎮北将軍、南?州刺史。景平元年、北魏の軍が竺?が刺史を努める青州の東陽城を囲んだ。竺?は朝廷に危急を告げ、高祖は檀道済に持節を授け、観征討諸軍事の称号を与えて、王仲徳とともに東陽を救いに向かわせる。未だ及ばざるに、北虜は営と攻城具を焼いて逃げた。まさにこれを追わんとするも城内に糧なく、窯倉を開き、深さ数丈の窯から米を出す。追撃を再開するも北魏の郡は遠く去り、追うことが出来なかったので軍を還した。広陵に鎮す。


 徐羨之が盧陵王・劉義真の廃立を計画、少帝を文帝に代えることに成功する。檀道済はこれに同意せずしばしば不可であると陳べたが、受け入れられなかった。徐羨之らは少帝・劉義符を廃立して劉義隆を擁立、婉曲な言葉で檀道済に入朝を遅らせ、檀道済が入朝したときには徐羨之らは彼らの謀略を達成していた。廃立された少帝は夜、檀道済の入領軍府で謝晦に宿を借り、謝晦は大いにこれに服した。太祖・劉義隆は未だ至らず、檀道済は朝堂に入り守る。太祖が即位するや征北将軍に散騎常侍を加えられ、鼓笛隊一部を賜る。進められて武陵郡公、食邑四千戸とされるはずのところを固辞、かわりに都督青州および徐州の淮陽、下?、琅邪、東莞五軍諸軍事を受ける。


朝廷は謝晦を討つことを決定、檀道済は軍を率いて到彦之に続き、謝晦を追う。到彦之は打ち破られて隠圻に退がり、そこに檀道済が割って入る。謝晦は檀道済を徐羨之同様に(文帝擁立の首謀者として)誅したいと思ったが、たちまちのうちに逼られ、恐懼して、ついに戦わずして自壊する。事が平定されると檀道済は都督江州および荊州の江夏、豫州、西陽、新蔡、晋熙四郡諸軍事および征南大将軍、開府儀同三司、江州刺史、持節とされた。食邑一千戸を加増され、五千戸。


 元嘉八年、河南を平定したのちは失地を取り戻すべく、到彦之を先鋒に北伐。金?、虎牢の二関を同時に攻め落とし、北魏の滑台に迫る。檀道済は朝廷から総督征討諸軍事として大軍を率い、大軍を領して後発。東平郡寿張県で北魏の安平公・乙旃眷に遭遇、檀道済は寧朔将軍・王仲徳、驍騎将軍・段宏を出してこれに当たらせ、大いに乙旃眷を破る。宋軍は転戦して高梁亭に至り、ここで北魏の寿昌公・悉頬庫結と激突、檀道済は段宏の正兵、沈虔之の奇兵を繰り出して襲い、悉頬庫結を斬った。檀道済は軍を率いて済水の上に至り、二十日間連続で戦い、矛を交えること数十度、戦う毎に捷ったが北魏の兵は多勢で意気高く、撤退を決意。このときの撤退戦を評して「三十六計逃げるに如かず」というが、檀道済が口にした言葉かどうかは不明。滑台を陥とし、敵に隙を見せない見事な撤退劇を見せ、帰還する。帰還後、司空、持節、常侍、都督とされた。


 檀道済は前朝より公を立て、威名甚だ高く、左右に腹心があった。百戦を経て諸子もまた才気あるものが揃い、文帝はこれを疑い畏れた。太祖は長らく病気であり、いつ不予となるかわからないという焦りもあった。彭城王・劉義康が太祖崩御と言って宮中で車駕を乗り回すのを止められなかったのも太祖の不興を買う原因となる。元嘉十二年、太祖は病厚く、北魏の辺境侵犯を憂慮して、まさに檀道済を入朝せしめた。十三年春、太祖は檀道済を鎮に向かいわせ、檀道済を北の守りに尋陽に鎮守せしめる計算であったが、旅船から京師に還り、降りてすぐ発作を併発する。ここにおいて檀道済は召し返され、宴を設け路神に祭祀して皇上の無事を請願するが帝の容体回復に向かわないので逮捕され廷尉に罪を問われる。太祖の詔書に曰く「檀道済狼藉ながら時運にして尊貴、ありし昔の聖恩あり、寵愛を受け禄を食み厚遇されること、誰が彼に比せられようか。なれど彼は皇帝のことさらの恩典に感激せず、思念報恩万分の一。朝廷に対し妄りに猜疑を抱き、心に二志を持つこと、日を追うごとに発展して既にやまず。元嘉以来、猜疑の心は更に厳重をまし、朝廷に対して不義不信不孝の心、下吏を買収し上を欺き、己の地歩を固めて暴虐なること民の言葉に聴けば、遠近みなこれに通暁す。謝霊雲の志は猛毒にして言辞悪劣、臣たる道を十分明顕にせず、邪説を受け入れ、遭うごと顔を覆いて心を隠す。また密かに散財して剽悍狡猾の士を誘い、捕まえんとすれば逃げるは必至、爪牙甚だ多く、その威勢はなお強し。白天黒夜に時機をうかがい、簒位簒権をみだりに企む。鎮遠将軍・王仲徳往年入朝するも、その陳述するところは彼の弁護である。朕はそり権威権力の総てをもって彼の右翼を剥ぎ、朝廷に参列する要職の資格を剥奪して、しかして辺地に遷すこれ寛容、願わくば彼の心が洗われ革新されんことを。しかして悪は長く改まらず、凶を隠して遂行せんとして、朕の病疾に乗じて禍心を増長させんとするか。さきに南蛮参行台・?延祖の奸状の悉くを密かに訊き啓く。夫君はもはや将に非ず、刑罰に寛恕あらん。況や彼の罪悪の罪深く、法は厳重なり。たとえまさに彼が廷尉から逃れたとして、厳粛の刑罰は遂行やまず。このことに限って主悪分子たるとその余衆、追求せざるを得ず」いい加減長い。檀道済は謀反をたくらんでいると思うからとっつかまえて裁いて殺す、で十分なのだが、中国の詔文は以上に長い。ともかくここにおいて檀道済およびその子・給事黄門侍郎・檀植、司徒従事中・檀燦、太子舎人・檀隰、北伐主簿・檀承伯、秘書郎・檀遵ら八人、廷尉に捕らわれ誅に伏す。また司空参軍・薛?は健康にて誅され、尚書庫部・顧仲文、建武将軍・茅亨は尋陽で、檀道済の子・檀夷と檀?、そして司空参軍・高進之も誅戮された。薛?と高進之は檀道済の腹心中の腹心でともに関羽・張飛の再来と言われたものだった。このことを受けた弾道済が処刑に向かう際、冕冠を床に叩きつけ、「すなわちまた汝が万里の長城を壊すのか!」と叫んだというエピソードはあまりにも有名。檀?の子・檀孺だけが生き残って、世祖の時代になってまた朝廷に尽くした。

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