第35話 三国・魏の張遼

張遼(ちょう・りょう)

 張遼、字は文遠、雁門馬邑のひとなり。本は聶壹の後なれど、恨みを避けてもって姓を変える。若くして郡吏となり、漢末、并州刺史丁原、遼の武力人にすぐるをもって、召して従事となし、将兵を使わして京都を詣らす。何進河北に詣り遣わして兵を募り、千余を得る。


 還り、進敗れたりて、兵をもって董卓に属す。卓敗れ、兵をもって呂布に属し、遷せられて騎都尉となる。布の李カクに敗れるところとなるや、布に従いて東の徐州に奔り、魯の相を領す。時に年28。


 太祖布を下邳において破るや、遼その衆を将いて降り、中郎将を拝し、関内侯の爵を賜る。しばしば戦功あり、遷せられて裨将軍。袁紹を破るや遼は別に遣わされて魯国諸県を定むる。夏侯淵とともに昌豨を東海に囲むも、数月にして糧尽き、議、軍を還すに引く。遼淵に言いて曰く「数日来、ことごと諸囲を行き、豨しきりに嘱目して遼を見る。またその射矢さらに稀なり。これ必ず豨に謀の猶予あり、ゆえに力戦せず。遼これに語るを挑むを欲し、もしくは誘うべきなりや?」すなわち使いして豨に言いて曰く「公の命有り、遼はこれを伝えんと」豨は果たして下りて遼と語り、遼説いて曰く「太祖は神武あり、徳をもって四方を懐かしむ。先んじてついたるものは大賞を受けるであろう」と。豨、すなわち降るを許す。遼はついに単身三公山に登り、豨の家に入り、妻子を拝す。豨歓喜し、随い手太祖を詣でる。太祖は豨を帰り使わせて、遼を責めて曰く「これ大将の法に非ず」と。遼謝して曰く「名公は威信をもって四海に著しく、遼が聖旨を奉じれば、豨の必ずあえて必ず(自分を)害せざるゆえなり」。


 袁譚、袁尚を黎陽に討って功あり、行中堅将軍。尚を鄴に攻めるに従うも、尚は堅守して下らず。太祖還るを許し、遼と楽進を使わして陰安を抜かし、その民を河南に移す。また鄴攻めに従事し、鄴を破り、遼は別に趙国、常山を従え、緑山諸賊および黒山の孫軽らを招き降す。また袁譚攻めに従い、譚を破り、別将として海濱を従え、遼東の賊柳毅らを破る。鄴に帰るや、太祖自ら出て遼を迎え、御車にひき載せ、もって盪寇将軍とする。また別軍として荊州を撃ち、江夏諸県を定め、還って臨潁に屯し、都亭候に封ぜらる。柳城に袁尚を討つに従い、虜(蛮族・匈奴)と遭遇す。遼は太祖に戦うを勧め、気甚だ震い、太祖これを壮とし、自ら所持する持麾を遼に授く。ついに撃ち、大いにこれを破り、単于蹋頓を斬る。


 荊州いまだ定まらざる時、遼はまた遣わされて長社に屯す。臨に発して軍中、謀反のものあり、夜狂乱して火を起こし、一軍ことごとく擾す。遼左右に云いて曰く「動くなかれ。これ一営尽く反すに非ず、必ず造変のもの有り、動乱(その)人の欲するのみ」すなわち軍中に令し、その反せざるものを安座さす。遼は親兵数十人を将い、中陣に立つ。頃合いを定め、すなわち首謀者を得てこれを殺す。


 陳蘭、梅成六県の氐をもって叛く。太祖は于禁、臧覇らを遣わして成らを討たし、張遼に張郃、朱蓋らを督せしめて蘭を討たしむ。成は偽って禁に降り、禁還る。成はついにその将を蘭と合し、灊山に転じて入る。灊中に天柱山あり、高さ峻嶮二十余里、道険しく狭く、頂に通ずる道は歩兵一人(の狭さ)。蘭らはその壁上にあり。遼進むを欲すも、諸将曰く「兵少なく道険しく、深入りするは難用なり」遼答えて「これ所謂一と一、勇者ならば進むを得たるのみ」ついに進み山下の安営に至り、これを攻め、蘭、成の首を斬り、尽くその衆を虜とす。太祖は諸将に功を論じて曰く「天山を上り、峻嶮を踏んでもって蘭、成を取ったのは、まさに盪寇の功なり」邑を加増され、仮節を授かる。


 太祖既に孫権を征しに、遼と楽進、李典ら7000余人は還りて合肥に屯す。太祖は張魯を征し、護軍・薛悌に教えを授け、函の辺に「属至らば乃ち発せ」と署した。にわかにして孫権率いる十万の衆が合肥を囲み、すなわち教えを発す。教えに曰く「もし孫権至らば、張、李将軍は出でて戦い、楽将軍は守り、護軍とともに戦うことなかれ」諸将みなこれを疑す。遼曰く、「公は遠征の外に在って、比べ救いに至らん。彼(の軍)が我らを破るは必至、この教示をもっていまだその合せざるうちにこれを逆撃し、その勢いの盛んなるを折るべし。もって衆心を安ぜてのち、守るべきなり。成敗の機、この一戦に在り。諸君何を疑うや?」李典また遼に同和す。ここにおいて遼は敢死の士800を得、牛を椎して将士に饗し、翌日大戦す。朝、遼は冑を被り戟を持ち、先頭に立って陣を陥とし、殺すこと数十人、二将を斬り、太叫自分の名を叫び、塁に衝き入り、孫権の麾下に入る。孫権大いに驚き、衆為すべきところを知らず。走りて高津冢に登り、長戟をもって自らを守る。遼は叱って権に降りて戦えと言えど、権あえて動かず。望み見て遼の率いるところの衆少なしと見て、すなわち衆で遼を囲むこと数重。遼左右に囲みを衝き、直前急撃、囲みを開く。遼の率いるところの麾下数十人出るを得るも、余衆號呼して曰く「将軍、我らを棄てるか!」両また還って囲みを衝き、余衆を抜け出さす。孫権の人馬皆披靡し、あえて当たるものなし。朝より始まって戦いは日中に及び、呉人気を奪われ、還って守備を修して衆心すなわち安じ、諸将感服す。権は合肥を守ること十日、城を抜く敵わず、すなわち引き下がる。遼諸軍を率いて追撃し、幾たびか権を捕えかける。太祖は遼を大いに壮とし、征東将軍に拝す。


 建安21年、太祖はまた孫権を征し、合肥に至り、遼の戦った後を巡幸し、嘆息すること長久。すなわち遼の兵を増し、諸軍を多所にとどめ、(遼を)居巣に移した。


 関羽が曹仁を樊城に囲み、たまたま孫権が藩を称すや、遼は召されて諸軍とともに仁を救わんと出征。遼の至る前に徐晃がすでに関羽を破り、仁の囲みを解く。遼と太祖は摩陂で会し、遼の軍がいたるや太祖はみくるまに載せてこれをねぎらい、還って陳郡に屯せしむ。文帝王位に即位するや前将軍。兄・汛を分封し一子を列候とされる。孫権また背くと、遼、遣わされて合肥に屯す。爵を進められ都郷候。母のため車駕を賜り、および兵馬の移送には遼家に屯するを詣でるが慣例となり、遼の母訪れるや従うものが出迎えた。所督諸軍将吏みな道の端によって拝礼し、見るものこれを誉とす。文帝践祚するや晋陽候に封ぜられ、増邑1000戸。以前と合わせて2600戸。黄初2年、遼は洛陽宮に朝し、文帝より建始殿に招かれ、親しく呉軍を破った意状を問われる。帝は嘆息して左右に「これぞ古の召虎なり」と(彼のために)第舎を建て、またその母のために殿を作り、かつて遼のもとで呉軍を破った歩卒みな虎賁となす。孫権はまた藩を称する。遼は雍丘に屯し、病を得る。帝は侍従・劉曄を遣わし太医に病をみさせ、虎賁らは消息を問うて道に満つ。病いまだ治らずして帝は行在所に遼を迎え、親しく車駕に載せてその手を取り、自らの衣を着せ、贅食を食さす。病わずかに回復するや、屯に還る。孫権また叛き、帝は遼を遣わして船に乗せ、曹休とともに海陵、臨江に至らす。孫権甚だ畏れ、勅して諸将に曰く「張遼病と言えど、当たるべからず。これを慎め!」この年、遼と諸将は権の将軍・呂範を破るも、遼は病厚く、江都でついに薨ず。帝涙を流し、剛候と諡す。子の張虎が継ぐ。


 6年、帝は遼、典の合肥の功を追念し、詔に曰く「合肥の役、遼、典は歩兵八百にて賊軍10万を破る。古きよりの用兵にも、いまだこれあらんや。今に至るも賊の気を奪い、国家の爪牙というべし。そのぶん遼、典の邑を各百戸可増し、一子を関内候の爵に封ず」虎は偏将軍となるも、薨じた。子の統が継ぐ。

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