第33話 南宋の成閔

成閔、字は居仁、ケイ州の人なり。靖康の初め、劉コウが眞定の師となり、兵士を募って金兵を防ぐと、成閔はその麾下となった。高宗即位するや、成閔は数百騎を領して揚州に至る。上と会して南に渡り、韓世忠が苗傳を追い、ウジュを襲い、范汝為を討つや、成閔はみな進軍し、また力戦して敵を斥け、積功をもって武功大夫、忠州刺史。


世忠に従って入朝し、世忠成閔を指して曰く「臣南京に在り、自ら謂う天下当先、まさに時にこの人を見て、また一頭を避くなり。(わたくしは南京に在り、自ら天下無双と自認していましたが、この人を見てまた一頭及ばないと知りました)」上その労勉を嘉し歓ぶ。ひるがえって海州を以て取り、抜擢されて磁州団練使。召見し、袍帯、錦巾を賜り、玉帯束束を加贈された。時まさに金と盟し、世忠兵を罷め、枢密使に入って為し、詔により成閔は棣州防禦使、殿前遊奕軍統制とされる。遷せられて保寧軍承宣使。


紹興二十四年、慶遠軍節度使を拝す。ついで母の憂いに当たる(服喪)も、詔により復帰、母は鄭国夫人を追贈された。金主亮まさに明を敗り、成閔は詔により禁軍三万を以て武昌に鎮し、命ぜられて湖北を守る。漕いで砦屋三万屋を創りもってこれを待ち、米錢茶引全百四十万余に亀裂発し、米を買い上げて義倉に六十三万石を軍用に備え、則ち金器を賜り、剣甲これに臨んで遣わす。成閔は鄂に至り、まもなく進んで応県城に屯す。


八月、官を移して湖北、京西制置使、浙西両路軍馬。九月、兼ねて京西、河北招討使。十一月、詔により淮西に回って援す。成閔は還るを得るにおいて喜び、雨を冒して昼夜兼行建康に趨り、士卒多く死ぬも、朝廷師を犒うものを給わるを以て忽ちこれに帰し、士卒及ばず。士卒に怨みごとあって成閔これを斬る。まもなく官を換えられて淮東制置使さとれ、鎭江に駐す。既にして言者の論、諸軍みな鎭江に聚め、敵の不意をついて上流から恐れに出で、ここにおいて詔発され成閔は鄂州の張成、華旺と軍を還して鄂に駐す。


亮死し、成閔兵を引き江を渡り揚州に趨る。金人?胎より淮を渡って北に去り、成閔は南岸に兵を列して、軍士互いに諾の声を聞く。金人笑いて曰く「成太尉の寄る声、勤めて護送有り(成閔の大声も、我らを護送するに有るのみだ)」時に虜すでに気を奪われ、日に王師の至るを虞れ、干戈を棄てるに委ね、粟米山と積み、郡多く仰いでもって給う。これ成閔の軍浙人多く、もとより粟を食まず、死者甚だ衆。


成閔泗州に至り、奏して已に淮東を克服すると。まもなく入朝し、およそ侍従、卿監、閤門、内侍、みな賄賂で官を買う。左に劉度が正言してこれを弾劾するも、なお超して太尉を拝し、主管殿前司公事。まもなくまた御史論列、とされ、太尉を罷め、ブ州に居住し、慶遠の節を奪う。乾道はじめ、自ら頼るを聞き、湖州に帰り、まもなく詔により節に復し、都統鎭江諸軍とされる。九年、祠を請うて致仕。平江に園第を治める。


淳熙元年卒。享年八十一歳。開府儀同三司を追贈された。子が十一人。

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