第32話 モンゴルのバヤン(伯顔)

バヤン(伯顔。一二三七-一二九五)

バヤンは蒙古バリン部の人。宗祖ジュリコツは太祖チンギスに仕え、バリン部左千戸となった。祖父アリは父の職を襲い、断事官を兼任。フシャンを平定して功あり、その封地を奪う。父シャオコダイはその官を襲い、宗王フラグに従って西域を開いた。バヤンも西域で成長した。


1264初め、フラグは世祖フビライに奏事があって遣いを送った。その使者がバヤンである。世祖はバヤンの容貌魁偉、弁舌さわやかを見て曰く、「君が諸侯王臣でないのならば、朕のもとにとどまって仕えるがよい」といってそのまま自分の臣にした。以後国事をともに謀り、廷臣にあって彼の右に出るものなし。世祖はますます彼の賢明愛し、勅書をもって中書右丞相アントンの娘の弟を妻に与えた。「バヤン、妻を得て、その氏族に慚るところなし」。二年七月、光禄大夫、中書左丞相を拝す。もろもろの国の輩から事情の陳述を受け、結着難事であったが、じっくりと十二ヶ国語をもってこれを決した。衆は彼に服して「真の宰輔なり」と讃嘆した。四月、改めて中書右丞。七年、昇遷されて同知枢密院事。10年春、持節玉冊を奉じて燕王チンキムを皇太子となす。


十一年、大挙して宋を伐ち、史天澤とともに中書左丞相、行省荊湖を拝す。時に荊湖、淮西に各行省を建てた。史天澤が言うに、号令揃わずばあるいは敗事を致す。世祖は改めて詔によってバヤンを淮西行省の行枢密院になした。史天澤は病となり、上表してバヤンを自らの後任に請う。すなわちバヤンは河南等を領して路行中書省、所属並聴節制となった。秋七月、陛下の前を辞し、世祖はこれを諭して曰く「昔、曹彬は妄りに殺さずして江南を平定した。汝はその身体に朕の心を刻み、わが曹彬となるべし」


九月甲戌初日、襄陽で軍を会し、軍を三つに分かって並進する。丙戌、バヤンと平章アジュは中道から、漢江を通って郢州に入る。万戸・武秀を前鋒とするも、水?の長雨にあって水溢れ、船も無く渡ること能わず。バヤン曰く「吾は大江を飛び渡ってみせよう、しかるに、この水たまりに浸るなどごめんである!」そこで壮士一人を召し、甲を負わせて騎兵で前導させると、麾下の諸軍ついに渡りきった。癸巳、塩山に屯し、郢州から二十里のところに距す。郢州から漢水の北に在り、石をもって城をなす。宋軍は漢水の南に新郢を築き、横に鉄鎖をかけ、鎖で戦艦を阻み、密樹を水中に建てた。下流の黄家湾堡でまた守りを設け、守禦の具とした。堡の西に溝あり。南に藤湖を通り、江から至ることわずかに数里。総管李庭、劉国傑をもって黄家湾堡を攻め、これを抜き、破竹の勢い、盪舟をもって藤湖から漢水に入る。諸将曰く「郢城はこれ我が喉襟、取らずば後患の恐を為す」、対するにバヤン曰く「用兵の緩急、我即ちこれを知る。城攻めは下策なり。大軍を出すより、ここに一城を為するなり」といってに郢に逗留し、流れを下る。バヤン、アジュはしんがり、百騎に満たず。十月戊牛、大いに澤中を行き、郢将趙文義、范興は二千騎をもって来襲、バヤン、アジュはいまた甲冑を着るも及ばなかったが、すみやかに軍を還してこれを迎撃し、バヤンは手ずから趙文義を殺し、范興を捕えてこれまた殺した。死者五百人、生獲数十人に及ぶ。


甲子、沙洋に屯す。乙丑、断事官・楊仁風を招くも、応ぜず。また天子の詔書をもって一虜を遣わし、檄文をもって趙文義の首をさらし、入城する。その守将王虎臣、王大用を招くが、王虎臣らは俘虜を斬り、詔書を焼いた。裨将・傳益は水軍十七人をもって投降し、孫虎臣らはまたその軍の降者を斬った。バヤンはまた命じて呂文煥を招くも、これまた応じなかった。日暮れて大風起こり、バヤンは順風に乗じて金汁砲を掣肘し、その家屋を焼いて烟焔漲天、ついに城を破る。万戸ボコダイが孫虎臣、孫大用ら四人を生擒り、ことごとくこれを屠る。丙寅、新城に屯し、万戸テムール、史弼に令して沙洋の城下に首を並べ、詔書を指し示し、檄文をもって城中に降るものを招く。守将辺居誼は呂文煥を招いてこれと語る。丁卯、呂文煥は城下に至り、バヤンは矢を放って呂文煥の右臂を射抜き、呂文煥は奔って還り投降した。戊辰、総制・黄順は城を出て降り、バヤンはこれを即時招討使に任じ、金符をもって佩かせた。城上の軍に令してその部曲に即時城下で縄をかける。辺居誼は入城し、尽くその降った衆を斬った。己巳、副都統制・任寧また降るも、辺居誼は籠って出ない。そこで総管李庭に令して城の外堡を攻め破り、諸軍蟻の如く登ってこれを抜く。余衆三千が死戦力戦し、辺居誼は自分の家に火をかけて死んだ。王虎臣、王大用ら四人もついに誅殺される。

 

 十一月丙戌、復州に屯す。知州タク貴は城をもって降った。諸将はその倉庫軍籍を点視して町を撫すべく官を遣わそうとしたが、バヤンは聴かず、諸将は城するべからずと諭した。違うたものは軍法をもって論じた。アジュが右丞アリハイヤを遣わして江渡の期を聞くと、バヤンは答えず。翌日また使者があるも、また答えず。アジュがそこで自らバヤンのもとに伺うと、バヤンはそこで始めて「事は大事である。主上には(江南討伐に)我ら二人をつけるにあたって、余人には知られたくない作戦があったのだ」ひそかに時宜を刻み、乙未、軍を蔡店に屯す。丁酉、漢口をみはるかす形成に立つ。宋の制置使制置使・夏貴らは戦艦数万をもって要害に分拠、都統王達は陽羅堡を守り、荊湖宣撫朱?孫は遊撃として中流を扼して兵進まず。千戸馬福の建言に沙蕪から江に入って淪河口を通るべし、とあったが、バヤンが死使者を派遣して見るに沙蕪口は夏貴の精兵が護っていた。そこで漢口を軍で囲み、声高らかに漢口を渡るといい、夏貴は果たして漢陽に移動した。


 十二月丙牛、軍は漢口に屯す。辛亥、諸将は漢口から?を開かんとして船を淪河に入れ、まず万戸アラハンが兵をもって沙蕪口を攻めて武磯に逼る。陽羅城堡を巡視して沙蕪を経て走り、ついに大江に入った。壬子、バヤンは戦艦万計、相随踵して至り、数千をもって淪河湾口に停泊させ、蒙古、漢の騎兵数十万をもって江北に布陣、屯す。諸将曰く「沙蕪は南岸、彼の戦艦あり、これを攻め取るべし」バヤンは答えて曰く「吾またその必ず取るべしを知るも、汝らが貪し慮るは少功、大事を失す。一挙江を渡り、その全功を収めるべきなり。」そこで令じて攻具を修造し、陽羅堡に軍を進める。癸丑、人を遣わして投降を促すも、聞かれず。甲寅、再び人を招いて降そうとするも、諸将皆「吾ら宋の厚恩を受け、戮戦死戦するはまさにこの時なり。反逆、降るに理ありと雖も、吾甲兵を備え、之今日を決し、宋の天下はなお賭博、すべてを賭ける。勝敗はこの一擲にあり」バヤンは麾下の諸将とともにこれを攻めるも、三日をかけて克てず。ある術者(道士)が「天道南に行くを見て、金、木二星相犯すを見よ、もし二星交まりて過ぎれば、すなわち江を渡るべし」バヤンが駁言するも、もはや言うものなし。バヤンはアジュと密かに謀議し、「誰も彼も必ずこの堡を抜くと云うなら、江を渡るべきであろう。この堡は堅陣、攻めるは徒労。汝、今夜鉄騎三千をもって直接上流に浮かぶ舟を攻め、擣虚(虚を突く)の計をなし、江を渡って南岸を襲え。過ぎたればすなわち、速やかに人を遣わして我に報せよ。」乙卯、分路右丞アリハイヤ、督万戸張弘範、フシハイヤ、ジデミチらを遣わし、まず歩騎をもって陽羅堡を攻めさす。夏貴が応援に訪れたので、そこでアジュが発する。万戸アンテル、ボコダイ、史格、賈文備ら四翼軍で西上流四十里を阻害し、青山磯に泊する。この夜大雪、はるかに露多き沙洲の南岸を見晴かし、アジュは船で登り、諸将に指示し、令してこの洲を経て走り、馬に跨って後詰として走る。万戸・史格の一軍がまず江を渡り、南宋の都統・程鵬飛を退ける。アジュは江を横切り遮り掃討、兵勢を決して、その将高邦顕らを擒え、死者無算、程鵬飛は身に七つの傷を負って敗走した。元軍は船を鹵獲すること千余、ついに南岸を得る。アジュは鎭撫・何?ら数十人と岸を登攀して戦い且つ上り、上りきるもの十中に四人。南軍は水軍をもって阻まんとするが、相逼ることかなわず、ついに浮橋をかけ、列をなして渡るを許す。アリハイヤは継いて張榮、解汝楫ら四翼軍を遣わして舳艫を前後継ぎ、直接夏貴と戦う。夏貴は麾下数千を率いて逃げ、諸軍これに乗じて斬溺数えるべからず。ついに鄂州東門まで至る。丙辰、アジュは使者を遣わしてバヤンに報せ、バヤンは大いに喜んで諸将を率いて急ぎ陽羅堡を急攻、王達を斬る。宋軍瓦解し、死傷者数十万衆甚絶。夏貴はわずかな左右のものだけを連れて逃げ、白虎山に走る。諸将は貴大将去る、逸すべからざりやと謂い、これを追撃することを請うたが、バヤンは「陽羅の捷ちは宋人に吾が遣使として欲したところを告げるであろう。今、貴は逃げ、吾はこれに代わる。おさおさ、追うべきではあるまい」丁巳、バヤンは武磯山に登り、大江の南北、みな蒙軍となった。諸将称えて駕し、バヤンは謝を辞す。


 アジュが江を渡って還り、兵を議すに向かうところ、あるいは先に薪、黄州を取って曰く「もし下流に赴かば、退き拠す処なし。まず鄂、漢を取り、旬日(十日)の遅れありと雖も、万全の計を為すべし」。バヤンはこれに従い、己未、軍を鄂州に置き、呂文煥、楊仁風らを遣わし諭させて曰く「汝らの国恃むべきところ、江、淮、すでにして今我が大兵長江を飛び渡る。平地となれば掃くがごとし、汝の輩、なぜ速やかに降らぬか」鄂は漢陽を恃みとして兵を率い戦い、結局戦艦三千を焼かれ、火は城中を照らす。両城大いに懼れた。庚申、知鄂州・張晏然、知漢陽軍・王儀、知徳安府・来興国、みな城をもって降り、程鵬飛は軍をもって降った。壬戌、新たに帰属した者たちに官級を授け、宋兵を散らし、諸将を分かって隷す。これより先、辺境の戌卒が宋の境内を陥れ、縦横に憂さを晴らした。丁卯、万戸イェデコ、総管フツダイを遣わして渡江の捷ちを上に奏した。また兵を分かってアラハンの先鋒・黄頭に命じ、寿昌の糧四十万斛を取り、軍餉は十分に満ちる。右丞アリハイヤらを残し、兵四万をもって鄂に省を建て、荊湖を略取し、己巳、バヤンとアジュは大軍をもって水陸併進して東に降る。アジュはまず黄州に拠した。


 十二年春正月癸酉朔日、黄州に至り、甲戌、沿江制置副使兼知黄州・陳奕が降った。バヤンはすぐさま丞相の権限で陳奕を沿江大都督に封じた。陳奕は漣水に至って書をもってその息子陳厳を招き、陳厳は父の言に従って投降した。呂文煥、陳奕は書を送って?州安撫使管景模を招き、またアジュは城下で水軍を造る。癸未、バヤンが?州に到達すると管景模は出て降り、淮西宣撫使とされ、現地には万戸のタイタルがここを守る。アジュはまた水軍を率いて先に江州に向かい、宋の兵部尚書呂師?は江州にあって降り、さらに知州錢真孫に部下を遣わして下した。丙戌、バヤンは江州に到達し、即時呂師?を江州の守りとなす。呂師?は?公楼に宴を張り、宋の宗室から娘二人を選抜し盛んに飾ってバヤン献じたが、バヤンは大いに怒りを発し「吾は聖天子の明命を奉じ、仁義の師を興す。宋の罪を問うに、あに女色をもって吾が志を移さんとするか!」といって遣いを斥ける。知南康軍・葉?くだり、殿前都指揮使、知安慶府・范文虎もまた書状を奉じてよしみを通じた。アジュは安慶で水軍を造り、その間に范文虎が出て投降する。バヤンは湖口に至り、千戸甯玉が渡しに浮橋を繋げるも、暴風逆巻き水走り、橋完成せず。そこで大孤山の神に祈ると、しばらくのち風が止み橋が完成し、大軍は畢に江を渡った。 


 二月壬寅朔、バヤンは安慶に至り、范文虎に両浙大都督を授け、范文虎の従子范友信を知安慶府事に封じた。万戸喬珪がここを守る。丁未、池州に進むと、都統制・張林が城をもって降った。戊申、通判権州事・趙昂発とその妻自ら縊死する。バヤンは入城してこれを見て相憐れみ、令して官衣を着せて葬らせた。


 宋の宰相賈児道は宋の京師から遣わされ書を致し、州郡をもって降り歳幣を貢ぐことで和約を結ぼうとするが、バヤンは武略将軍シャンカダイと阮思聰を介し京師に遣わして宋軍を待たせた。賈児道曰く「いまだ長江を渡らずしての降伏勧告ではあるが、すでに沿江諸郡はみな元に就き、和を欲している。であればすぐさま、議に当るべし」シャンカダイら還り、宋京を許すと決す。


 庚申、池州を発し、壬戌、丁家洲に屯す。賈児道はすぐさま掌を返してその後背に攻めかかる。宋軍は都督諸路軍十三万を百万と号し、歩軍指揮使・孫虎臣を先鋒となし、淮西制置使・夏貴に戦艦二千五百をもって江中を横に亘り、賈児道は殿として後軍を率いた。バヤンは左右翼に令して騎兵で敵軍を挟撃、砲声百里を震わす。宋軍震撼し夏貴は真っ先に逃げ、賈児道の船を掠し、叫んで曰く「彼は衆にして我は寡、勢いを支えること能わず。」賈児道はこれを聞き倉皇として震え上がり、急ぎ金鼓を鳴らして軍を収めるも、軍は潰滅してしまう。衆軍太呼して曰く「宋軍敗れるなり」。諸戦艦は賈児道を守って後ろにいたが、アジュが騎兵を召し促して挺身船に登り、梁を衝いて砕くと舳艫ことごとく一掃し、たちまち分かちたちまち合す。アジュは小さな旌旗を靡かせて何?、李庭らと並んで舟に侵入し、バヤンは左右の歩騎に命じて宋軍を引き留め、追殺すること百五十余里、溺死無算、船を獲ること二千余艘、および軍器(武器)、印符を得る。賈児道は東の揚州に逃れ、夏貴は廬州に走り、孫虎臣は泰州に奔った。


 甲子、大平州を攻める。丁卯、知州・孟之縉および知無為軍・劉権信、知鎭巣軍・曹旺、知知州・王喜、みな城をもって降る。庚午、軍を建康の劉湾に屯す。バヤンは大いに将士をねぎらった。


 三月癸酉、宋の沿江制置使趙?および趙?の兄趙淮が?陽で挙兵し、忠義を尽くして死んだ。都統徐王?、翁福らは城をもって降り、招討使サトはここを守るよう命ずる。知鎭江府洪起畏は遁走し、総管石祖忠は城をもって降った。知寧国府趙輿可も遁走、知饒州・唐震は戦って死に、しかるに江東の諸郡みな降る。淮西?州諸郡もまた相継いで下った。


 丙子、国使廉希賢が建康に至り、諸将各に営壘を守らせるよう旨を伝え、妄りに侵略するなかれと告げた。廉希賢と厳忠範らは宋の使いを奉名し、自衛の兵を請うたが、バヤンは「行く先の人は言をもってせず兵をもってす。兵多く、ただ使いに煩いを為すのみ」といって廉希賢を止めようとした。が、廉希賢はあくまで兵を請い、これとともに行った。丙戌、獨松嶺に至り、果たして宋人によって殺されるところとなった。


 庚寅、バヤンは左右司員外郎石天麟を遣わして皇上に奏し、世祖は大いに悦んでことごとくその奏文をよしとした。バヤン自身は行中書省として建康に駐留し、アタハイ、董文炳を枢密院として鎭江に、アジュには別に詔が下って揚州攻めが命ぜられた。江東に在ること数年、民衆に疫病が大流行したときには、バヤンはこれをさかんに賑やかして大いに救い、民に頼られるようになる。


 宋人は都統洪模を遣わし王榮らの書を移して、使者を殺したことは太皇太后および嗣君の知らぬことであり、辺将の罪であると弁解して、首謀者を誅殺したうえで歳幣を願い兵をやめてよしみを通じるべしと請うたが、バヤンは「彼(南宋朝廷)は譎り詐るの計、我以てこの虚実を見る。まさに同じく行く人をもって選び、その事体を見るに宣布威徳、令するに彼速やかに降るべし。」そこで議事官張羽らに王榮への返答書を持たせたが、平江駅でまた王榮は宋人によって殺された。


 四月乙丑、詔が降るも猛暑で軍を動かすに不利。秋を待って再挙する。バヤンは奏して曰く「宋人の江海に拠し、獣の如く険を保つ。今既にその喉を扼すに、わずかにほしいままにすれば則ち逝を逸するなり。」と。世祖は言葉を伝えて曰く「将は軍に在って従わざるを制に従わせるが兵法なり。よろしく丞相の言に従わせよ。」


 五月丁亥、また命を奉じてアイシャン傳旨を御す。バヤンは宮城に向かい、もってアラハンを参政、留治省治とした。ついで鎭江にたまたま会させていた投降諸将に令して格鎮に還し、江を北に渡らせて上都に渡らせる。七月癸未、進められて中書右丞相、功績をアジュに譲り、アジュもまた左丞相とされた。


 八月癸卯、命を受けて還る者たちに詔書を持たせ、宋主を諭すよう促す。すなわち益都からの路を取らせ、沂州などの軍塁を見せ、淮東都元帥モルハン、副都元帥アリボらを移動させ、その所部の兵を沂淮に進めた。九月戊寅、たまたま淮安城下で会し、新たな淮東都元帥・孫嗣武らは城を叩いて太呼し、また城中に書を射て、守将降れりと諭すも城内応じず。庚辰、招討使キリメチが北城の西門、バヤンとモルハン、アリボは親しく城南の堡に臨み、諸将長躯して指揮し登り、これを抜く。潰兵は大城の中を逃げ惑って城門まで追撃され、斬首数百級、ついに南堡は平定される。丙戌、宝応軍に屯し、戊子、高郵に屯す。十月庚戌、揚州を囲んだ。諸将に指揮の方略を授け、モルハン、アリボを湾頭新堡の守りに置いて、衆軍南に。壬戌、鎭江に至り、院にまかり行き、アタハイ、董文炳を同署事に任ず。


 十一月乙亥、バヤンは軍を三つに分かち、臨安を臨む。参政アラハンは右軍を率い、歩騎をもって建康から出て四安を通り、獨松嶺に。参政董文炳は左軍を率い、水軍をもって江陰から海路を通り浦、華亭に。バヤンおよび右丞アタハイは中道を取って諸軍を節制しつつ、水陸併進する。


 壬馬、バヤンの軍は常州に至る。常州の守将・王宗洙は遁げ、通判・王虎臣が城をもって降るが、都統制・劉師勇と張彦、王安節らはなお降らず拒み戦った。推されて姚?が守将となり、拒むこと数か月下らず。バヤンは城下に人を遣わして招諭の書を城内に打ち込ませた。降れば叛腹を疑うことなし、我が師を懼れて拒むなかれと。しかし応じるものはなかった。そこで帳前軍を親ら督して南城に臨み、また多くの火砲を建て、石弓を張り、昼夜を分かたぬ猛攻が加えられた。浙西制置使文天祥は尹玉、麻士龍に来援を求め人を遣わしたが、皆戦死した。甲申、バヤンは叱咤勉励して帳前軍の先頭に駆け、赤い旗を城上に建てる。諸郡これを見て大いに歓喜し、「丞相登れりや。」と。軍畢に登り、宋兵大潰、元軍はこれを抜き、屠城を行った。姚?および陳?は死に、王安節は生擒りにあって斬られた。劉師勇は服を変え単騎平江に奔り、諸将はこれを追うことを求めたが、バヤンは「追うなかれ、師勇には過ぎたところ。城を守るものの肝をつぶした、十分なり」。言って行省都事・馬恕を常州尹とする。


 蒙古軍都元帥ドゥリテムル、万戸カイドゥを遣わし、さきに無錫州を取らせる。万都ボコダイ、アンチェルに太湖をめぐらせ、監戦チゴリダイ、招討使サト、宣撫使游顕を遣わすも、たまたまドゥリテムルが先に平江に到達する。


 庚寅、降った人游介実は、奉る詔書によれば宋の副本使、すなわち宋朝の大臣である。十二月辛丑、無錫を取る。宋の将作監・柳岳らはその国および大皇皇太后の書を奉り、併せて宋の大臣とバヤンを来見させ、涙を垂らしながら言った。「太皇太后は年高く、嗣君は幼少、かつ国は喪中。古より喪を討つは不礼であり、望むべくは哀恕して班師してはくれまいか? 進奉修好はあえて毎年にはしないでもらえまいか? 今日、事ここに至りしは、皆奸臣・賈児道が信を失い国を誤らせたるのみなり」バヤンは答えて「主上は即位の初め、国書を奉って修好を望んだが、汝の国は我が使者を執らえて十六年、故に師を興して罪を問うた。今年、故なくして廉奉使らを殺したのは、誰の過失なりや? 我が師に進まざるを欲すに如き、将の手柄は錢王(呉越錢氏)の納土ならずや? 李主(南唐李氏)は出でて降らずや? 汝の宋は昔天下を小児の手から奪い、今また小児の手から失うのみ、これ蓋天の道なり。多くを語るな、不必である」柳岳は頓首して泣き崩れた。招討使シャオルチを遣わし、もって柳岳の来たことと厳奉書の国書がもたらしたところを入奏する。


 これより先、平江の守将潛友が遁走するも、通判胡玉らが已に城を挙げて降る。しかしまた宋人の拠するところとなったので、甲辰、衆軍を平江に集めた。都統王邦傑、通判王矩之らの衆、城を出て降る。


 庚戌、シャンカダイを遣わして宋の使い柳岳を臨安に還す。ボウコダイ、范文虎を昇遷させて大都督事。寧蜜を遣わして呉江の修築を急がせ、十日に満たずして完成させる。


 庚申、シャオカダイと宋の尚書夏士林、侍郎呂師孟、宗正少卿陸秀夫の書状をもって還る。世祖を尊貴と呼び伯父となし、宋の側は甥と呼ばれる礼を取り、歳幣銀二十五万両、帛二十五万匹を約す。癸亥、シャオカダイは呂師孟らとともに臨安に還った。ボウコダイ、范文虎を遣わし、たまたまアラハン、シリバが湖州を取り、知州趙良淳ここに死す。丙寅、趙輿可が城をもって降った。バヤンは平江を発し、游顕、カイドゥ、フト・ブケらを留めて兵屯鎮守させた。別に甯玉を遣わして長橋を守らせる。


 十三年正月己巳、嘉興に屯す。安撫劉漢傑は城をもって降り、万戸フツフらにここを守らせる。癸酉、宋の軍器監劉庭瑞から宰相陳宜中の書が来て、即刻返書を遣わす。乙亥、陳宜中は御史劉?を遣わして宋主が臣を称する表文を本に副え、バヤンに書を致し、長安鎮で会すことを約した。辛巳、衆軍崇徳に至る。陳宜中はまた都統の洪模に令して、書を持たせてシャオカダイに見えた。壬午、長安鎮に屯すが、陳宜中はやってこなかった。癸未、進軍して臨平鎭に臨む。甲申、皐亭山に屯す。宋主が遣わした知臨安府賈餘慶に、同じく宗室の保康軍承宣使尹甫、和州防禦使吉甫が奉傳国璽と降表をもって軍前に詣る。バヤンはこれを受け、シャオカダイを賈餘慶とともに臨安に還し、宋の宰臣と降事を議す。時に陳宜中が遁走したので文天祥が代わって丞相となされたが、文天祥は受けず、自ら請うて軍の前に立つ。乙酉、進軍して臨安の北十五里のところに至り、董文炳、呂文煥、范文虎を分けて遣わし城堡を巡視させ、軍民を諭し安ぜる。


 シャオカダイ、洪模から報せあり、陳宜中と張世傑、蘇劉義が益王、広王を擁して浙江を下り、南に航海して、ただ謝太后および幼主がその宮中に在るという。バヤンは速やかに遣使諭右軍アラハン、アロチ、左軍董文炳、范文虎らに浙江を拠守させ、勁兵五千人をもって追撃させる。及ばずして還る。


 丙戌、禁軍の士軍民入城するなかれとして、呂文煥に詔書を持たせて臨安の中外に入らせ、以前どおりに安堵させる。これより先、三衙の衛士が白昼殺人を犯し、田舎の小民を乱に乗じて剽掠していたが、これによって民はみな安ぜられた。丁亥、程鵬飛、洪雙壽らを遣わし入宮させ、謝后を慰諭させる。戊子、謝后に丞相呉堅、文天祥、枢密謝堂、安撫賈餘慶、内官鄧惟善らに来見するよう遣わさせる。バヤンは慰めてこれを遣わさせたが、ただ文天祥は挙動常ならず、違志有るを疑われたので軍中に留められた。文天祥はしばしば郷里に帰るを請い、バヤンは笑って答えず。文天祥は怒って「我ここにきて両国の大事を為す、彼ら皆帰し遣わすに、なぜ我を留めるか?」バヤン曰く「怒るなかれ。汝は宋の大臣として、責任軽からず。今日の事、我とともに政に当らんか。」ボウコダイ、サトに令してこれに館を与え籠絡させた。程鵬飛、洪雙壽および賈餘慶は早くも宋主を軽んじた。己丑、臨安城北の湖州市に註軍する。千戸シャオカダイらは宋の傳国璽をもってバヤンに献じた。


 庚寅、バヤンは大将の旗鼓を建て、左右翼万戸を率い、臨安城を巡り、浙江の潮を見た。暮れて湖州市に還り、宋の宗室大臣皆来見する。辛卯、万戸張弘範、郎中孟祺、同程鵬飛はもって宋主を帝の位から引きずりおろし、謝后に未だ降らない州郡に手ずから詔を書かせて軍前に至った。鎭撫タンコダイに令して文天祥が組織した義勇兵二万余を解体させる。壬辰、バヤンは獅子峯に登り、臨安の形勢を見る。サトに命じて軍民を撫諭させ、諸将の一部が皇宮を護るのに対して。癸巳、謝后がまた人を遣わして労問し、願って帰るよう言い聞かせた。


 簫郁、王世英らを分遣わし、衢、信諸州を招諭させる。二月丁酉、劉頡らを遣わして淮西に夏貴を招き、別将を遣わして浙東、西を罰して衆に示し、ここにおいて・知厳州方回、知?州・劉怡、知台州・楊必大、知処州・梁椅、ことごとく城を挙げて降った。


 右丞張恵、参政アラハン、董文炳、呂文煥に命じて謝后に入見させ、徳意を宣言しこれをもって慰諭する。辛丑、宋主は文武百官を率いて門を拝し降るを発し表す。バヤンは国事を引き受け、もって臨安、両浙大都督府を為す。ボウコダイ、范文虎を入治府事とする。また張恵、アラハン、董文炳、呂文煥らに命じて入城させる。その軍民の錢穀の数を戸籍通りに倉庫を開いて実を閲せさせ、百官に誥勅を告げ、符印図籍の尽くを宋の官府から罷じた。宋主を別室に住まわせ、新たに官を遣わして湖南、湖北、両広、四川の未だ降らざる州郡を招く。一部の諸将は要害に分屯し、人の入るを禁じられた宋氏山陵に入り破壊した。この日、浙江のみぎわに進軍し、潮の至らないもの三日、人、天助をもってなす。

 癸卯、謝后に命じて呉堅、賈餘慶、謝堂、家鉉翁、劉?および文天祥を並べて祈請使となし、楊応奎、趙若秀を奉表押璽官となして、門から出て命を請わせる。バヤンは表に駕を称して曰く

「臣バヤン言う、国家の業大統一、海岳必ず明主に帰すも、帝王の兵出万全、蛮夷敢えて天威に抗う。干戈の緩急始まり、天下統一これ会同。区分一清、天下あまねく慶賀す。


 臣バヤンらまことに喜びまことに楽しみ、頓首頓首してただ恭しく皇帝陛下の光耀多く、威光をつなぎ統べること千載。梯子船に日の出ずる国、冠帯に月支の域、丹崖の際にして所管の報告をするに、奄々として翰海に家を為す。一人之夷の島、声も教えも遵守せざりして、江湖に謂うもって逆に命を保つべし、船楫敵の王師をもってすべしと。兵を連ねて要害を恃み、過ぎること四十年、背徳約を破り、難十二計。まさに聖主江南を飛び渡るの日、人を遣わし城下の盟を乞うになし、凱奏の言をとらえるに至り、しきりに詐謀またこれほしいまま。我が信使とらわれ、乾坤再造の恩を忘れ、我に叛臣を招き入れ、漣海三城の地を盗む。我襄樊を討つにこれ六歳、彼以前として一介の荷もなし。禍既に出て自ら求め、怒り致すを聞いてようやくに顕赫。


 臣バヤンら、粛として近衛を将い、恭しく天誅を行う。よく襄漢の上流から、また武昌の渡しに出て、藩屏一空の江表、直接銭塘にのろしを上げる。敵になお度徳力量の心無く、重ねて使者を殺し書を毀すの事。属廟の謀これ親廩、いわゆる根本の当然。すなわちアラハンに命じて獨松の路を取らせ、董文炳の師に海渚を進ませ、臣とアタハイかたじけなくも中央の軍事をつかさどり、直接全軍を指揮す。掎角の勢すでになり、水陸の師並進す。常州已に下り、郡を列し檄を傳えしかしてことごとく平らげ、臨安に期をなし、諸将営を連ねて畢に会す。彼窮蹙を知り、あいついで哀しみ訴えを致す。はじめすなわち甥となりて歳幣を請い、ついですなわち璽を奉じて藩を称するを請う。顧みて甘言なんぞ実事において益し、鋭卒を率いて直接近郊を撃つ。用事の大臣召されてくるも、衛士憂いに沈みはなたれ散る。心に強情あり、四郊の横に草すべて無く、飛走の計窮まり、一片旗を降して竪にする。それ宋の国主已に二月五日、門を望んで平伏して帰附し拝す。倉廩の府庫を所有し、封じて籍を命外に待ち、臣寛大を奉じ揚げ、吏民を救済し、九衢の市店を移さず、一代の繁華如くが如し。ここにひとり天子の御年、卓絶して王前に冠し、万里を目前に視るが如く、天下を掌の上に運ばれる。臣らに令を致して、事情の対質を獲るの時、歌に七徳をもって成るを告げ、深く竜(帝)庭を切るを想い、上万年にして長寿を為し、敬いて虎拝の詩を陳べる。


 臣バヤンら、天を望んで聖激を仰ぎ見るの任なく屏を切り営ここに至り、謹んで駕を聞くをもって表を称すを奉る。」


 戊申、呉堅らは臨安を発するも、謝堂はともにゆかず。癸丑、宋の福王輿丙がバヤンに書を奉じて、辞はなはだ懇切に言うも、バヤンは「汝の国はすでにもって帰降し、南北ともに一家を為す。王疑うなかれ、よろしく速やかに来りて、同じく大事を預けよ」と。


 三月丁卯、バヤンは臨安に入り、俾郎中・孟祺は散乱する礼楽祭器、冊宝、儀杖、図書などを収集した。庚午、シャオカダイが到来。甲戌、福王輿丙来見。バヤンは議をもってアラハン、董文炳を留治行省事とし、経略をもって?、粤にボウコダイを都督鎭浙西とし、サトを宣撫使鎭浙東とし、タンコダイ、李庭に奏の君臣を北まで護送させた。


 乙亥、バヤンは臨安を発す。丁丑、アタハイらに詔を陳べ、宋主、母后に入観させて畢に詔を聞く。即日ともに宮を出るも、謝后を疾病によりとどめ、隆国夫人黄氏と宮人百余人、福王輿丙、沂王乃猶、謝堂、楊鎭らが官属数千人、三学の士数百人が出行する。宋主に会見を求められて、バヤンは「いまだ入朝せざるして、相見の礼は無し」と答えた。


 五月乙未、バヤンは宋主を上都に送り届け、世祖フビライは大安閣で宋主に会見した。宋主趙顕は開府儀同三司、檢校大司徒、瀛国公とされる。かくして宋は平定され、三十七府、百二十八州、関監二、七百三十三県が元の版図に組み入れられた。バヤンは天地の宗廟に命を告げ、天下に大赦が行われる。帝はバヤンをねぎらい、バヤンは再拝して謝して曰く「陛下の成算を奉じ、アジュの効力あり、臣に何ほどの功あらんや。」また拝して同知枢密院、銀鼠金鼠一対を三代にわたり二十襲受けた。この戦役に加わった将卒百二十三人、それぞれに程度の差こそあれ銀が賜与された。


 はじめ、ハイドゥが兵を内に向けると称し、詔をもって右丞相アントンと佐皇子ナムハンが、諸軍を統べてアリマリでこれに備えた。十四年、諸王ムリチが北平王を劫し、アントンを拘留し、宗王は謀叛に怯えた。バヤンに師を率いてこれを討てと命が下り、その衆はウォルハン河で遭遇、河を挟んで対峙し、相待つこと丸一日、その待つことを怠り、両隊は消耗し合い、その不備に乗じてバヤンは奇襲をかけ、これを破る。ムリチは敗走して奔った(敗走中に死んだというのは誤り)。十八年二月、世祖は燕王に北辺の撫軍を命じ、バヤンをそれに従わせ、諭して曰く「バヤンは将相の才を兼ね、忠は事えるところ、故に汝の征戦を成功に導かす。常人これに遇うべからず。」燕王は事々バヤンに論じ、尊礼をもって当たった。この年、群臣の食邑が策定され、バヤンには詔をもって藤州など四千九百七十七戸が与えられた。


 バヤンが宋を亡ぼし帰還した時のこと、百官が郊外に出てその労をねぎらった。平章アフマッドがまず百官の舎道で謁し、バヤンは点検したものをうちひもで結んだ目録をこれに遣わして「宋の宝玉はなはだ多けれど、吾宝を取るところなし。もってこれを薄めるなかれ。」アフマッドは言われて自分を軽んじられたと思い、心中傷ついた。そこで宋を平らげた時バヤンが玉桃盞を盗んだと誣告したが、帝は命をもってこれをとりつぶし、検することなくこれを許し、その任に復させた。アフマッドは既に死に、そこから盞を献じるものがあって、帝は愕然として曰く「すんでのところで我が忠良を陥れるところであった!」ビエジリメシがかつてバヤンを誣告して死罪となったときも、いまだすんでのところになって罪誅のことを語らず、勅が行われるに臨んでもバヤンが見るのは手にした盃の中の酒で、蒼然として顧みることがなかった。世祖がその故を問うと答えて曰く「彼自ずから罪有り、臣これに臨むをもって、人まさに天誅の公を知らざるなり。」と。


 二十二年秋、宗王アダチが規律を守らず、詔によりバヤンが代わってその総軍を率いた。これより先、辺境の兵かつて食料乏しく、バヤンは軍中に令して蔑怯葉(食用の葉。訳語不明)と蓿敦の根(これも訳語不明。食用の根菜)を採って貯蔵させた。これによって人々はそれぞれ四斛の草粒を得、冬の雨雪が盛んになっても人馬は飢えることがなかった。また軍士に令してブダラプガンの獣を食肉にし、その皮を万と積みあげた。人々はその意を知らなかったが、遣使を遣わしてみくるまで京師に至ると、帝は笑って「バヤンは辺地をもって寒く、軍士衣なし、欲するなら我が織物と易えるのみ。」と、ついに衣を賜る。二十四年春二月、あるいは、という形でナヤンの叛逆が告げられ、詔によりバヤンがこれを窺う。すなわち多くの衣裘を載せた駅車でその境に入り、しきりに駅人と語る。既に至るにナヤンは宴を設け、謀ってこれを執えようとしたが、バヤンは覚ってその従者とともに逃げ出した。三分ほど道を引き返したところで駅に着き、駅人に衣と裘を与えることで健馬を献ぜられ、畢に険を脱す。馳せかえって白状するや、夏四月、ナヤンは反し、世祖の親征が行われる。奏文により李庭、董士選ら漢軍が選ばれ、漢の法をもって戦う。ナヤンの朋党金家奴、タプダイらは進み逼って勢いに乗ずるが、漢軍は力戦してすなわちすべて壊滅させ、ナヤンを生け擒る。二十六年、進められて金紫光禄大夫、知枢密院事。和林に出鎭。和林に知院を置くのはバヤンに始まる。


 二十九年秋、宗王メリ・テムルとハイドゥが手を結んで叛乱、詔によりバヤンがこれを討ち、相軍アサフト嶺に布陣する。矢が降ること雨のごとく、衆軍敢えて登るものなし。バヤンは令して曰く「汝の寒さは君の衣、汝の餓えは君の色、政が効力を欲するのは爾この時なり。ここにおいて勉ぜずば、将に何をもって報いんや!」麾下の諸軍進み、遅れるものは斬り、バヤンは先頭に立って陣を落として、諸軍は気勢に推されて奮闘し、大いに敵を破る。メリ・テムルは挺身逃げ走り、スコ、テメトルに命じてこれを追わせた。バヤンが軍を引いて夜還ると、フシトに至って伏兵に遭遇、バヤンは堅璧動かず、黎明、畢に敵は退き去る。バヤンはベガル、スコ、テメトルらの兵に軽装騎兵でこれを追わせ、還ってきたところを挟撃し、斬首二千級、俘虜はその衆に帰す。諸将が言うに、古の礼に兵に勝てば必ず?旗のところを征服した地として、虜囚の犠牲を欲するべしと。バヤンはべからず、と言い、衆皆感服した。軍中に諜者を獲て、キントゥがこれを殺さんと欲したがバヤンは許さず、厚く賜りものを与え、禍福をもっててメリ・テムルに斉書を遣わし、メリ・テムルメリ・テムルは書の威に泣いて、衆をもって帰服した。


 いまだならざるに、ハイドゥまた辺境を犯し、バヤン留めてこれを拒む。廷臣のあるものはバヤンが北辺に拠すことからハイドゥとよしみを通じ、それによってすなわち保守していると言って無尺寸をこれ獲るもの、詔をもって御史太傅ユシ・テムルに代えられる。バヤンは大同に居して、以後の命を待つ。ユシ・テムルはいまだ三駅に至らず、たまたまハイドゥの兵また至った。バヤンは人を遣わしてユシ・テムルに語らせ曰く「舅よ止まれ、我この寇を翦るを待ちしかして来る、いまだ晩ならざりや」バヤンとハイドゥは交戦し、戦い且つ退け且つ、およそ七日、諸将バヤンの怯懦をもって憤激して曰く「果たして戦を懼れ、なんぞ将軍大夫を授かろうか!」対するにバヤン曰く「ハイドゥの軍は我が地にかかり、これを迎えればすなわち遁げる。それを深く誘い入れ、一戦にして擒えるべきなり。諸軍必ず速戦を欲すも、もしハイドゥを失わばだれがその咎めの任を受けるや?」諸将曰く「この任を請う。」すなわち軍を還してこれを撃敗するも、ハイドゥはたして脱し、去る。そこにユシ・テムルの軍至り、印綬を授けてしかしてゆく。時に成宗が皇孫をもって奉じ北辺に撫軍し、酒を挙げて餞別に曰く「公が去れば、将は何をもってわれに教えるや?」バヤンは盃を挙げ酌して曰く「慎むべきもの、これここと女色のみ。軍中には固く厳しく規律をもって当たり、而して恩徳偏廃すべからず。冬と夏は営を駐し、旧に循じて便を為すなり」成宗は尽くこれに従った。


 三十年冬十二月、駅から召されて大同より至る。世祖不豫。あくる年正月、世祖崩じ、バヤンは百官を總じてもって朝政を聴く。兵馬司は日の出から晨の鐘を鳴らし、日の入るをもって昏鐘を鳴らした。たまたま変故あるも、もって変故を防ぎ、バヤンはしかりつけて曰く「汝まさに賊を為すや! 今日一日は平日に如かず!」。内府の銀者が盗まれ、盗まれた宰相は幸赦を受けたが、誅を欲した。バヤン曰く「盗まれてもいないものに、誰の命をもってしてこれを誅に宛てろというか?」人皆その有識に服した。


 成宗は上都の大安閣で即位した。親王に違言あり、バヤンは剣を握り殿陛に立ち、祖宗の宝訓を陳べ、宣揚命を顧み、成宗の意をもって立てた所以を述べ、辞色ともに厳粛、諸王は身震いして肝を冷やし、奔り殿下に拝す。五月、バヤンは開府儀同三司、太傅、録軍国重事を拝し、依然どおり知枢密院事、金銀おのおのいささかを賜る。時に互いに悪み合う者があったが、バヤンはこれに「幸いにして我は二つの甕の美酒を送り、諸王と宮前においてこれを飲む。餘りは知るところにあらざるなり。」と言って相手にしなかった。また、江南三省に疲れ、行枢密院をやめることを請う。成宗がバヤンに問うと、時に疾病を発していたバヤンは目を瞠って曰く「内に省、院おのおのを置くはよろし、外に軍、民を分隷するは便ぜず。」成宗はこれを然りとして三院を廃止した。冬十二月丙申、隕石が東北に落ちる。己亥、雨で木に氷が張った。庚子、バヤン薨ず。享年五十九歳。


 バヤンは深略善断、二十万の兵を率いて宋を伐ち、将一人、諸師これを仰いでまさしく神明であった。畢に事を為して朝廷に還り、ただ衣装は衣を被るのみで未だかつて功を語ることなし。大徳八年、特に宣忠佐命開済功臣を贈られ、太師、開府儀同三司、淮安王に封ぜられる。諡は忠武。至正四年、宣忠佐命済翊功臣を加増され、淮王に進封された。そのほかの官位は従前の通り。

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