第31話 イラン・タタールのティムール
ティムール(1336-1405)
14世紀末の数十年に、世界で最も偉大な征服者の一人、ティムールは前触れなく中央アジアに発した。彼は燃えさかる荒ぶる炎であり、危険をものともせず数多の王国と帝国を易々と打破し、獰猛なタタール弓騎兵を率いて勝利に次ぐ勝利を重ねた。東洋の大都市はすべからく襲撃され、略奪された。アンティオキアにアレッポ、バルクとバグダット、ダマスカスそしてデリー、ヘラト、カブール、さらにはシラーズとイスファハン、これら諸都市の住民は無慈悲な拷問にかけられ、虐殺され首を切られた。あらゆる戦場においてティムールは高い塔を建てさせ、虐殺の被害者たちの頭蓋骨を塔内に列べた。彼に諌言を進言した者もまた、おなじ運命をたどった。
ティムールは新しい勝利の結果、「東洋の真珠」ことサマルカンドの帝都を手に入れ、遠くアジアの向こうから宝物を略奪した。その強奪品の中には学者、絹織工、詩人、画家に音楽家、武器商、宝石細工師、石工、建築家、銀細工師、書家などの人的資源が含まれており、彼らによってティムールはより強大かつ壮大になった。彼の征服した土地の広大さときたら途方もなく、1370年、彼が権力を手にしてから1405年に死を迎えるまでの35年間の征戦の間、ティムールは一度の挫敗もなく、そして帝国建国者としての才覚とその版図において、彼はアレキサンダー大王をしのぎチンギス・ハーンにほぼ匹敵した。後世「チンギスは破壊し、ティムールは創造した」と言うが、彼自身これほどの破壊者であるから、2世紀の後、彼の有名な歌劇「偉大なるティムール」でクリストファー・マーロウが彼を「神の災難」と称したことはむしろ理の当然と言って良い。
これほど膨大な規模での破壊と創造、その全てをただ一人の男が成し遂げたというのは端倪すべからざる事であるが、彼の記録のうち少なくとも軍事指導者としてのそれはほぼ全面的に信用できる。なんとなれば武芸の優秀性は14世紀中央アジアにおいてのし上がるのに絶他の必要条件であり、現地のことわざに曰く「ただ剣を取る者だけが王笏を手に取ることを許される」であったから。
ティムールはその頭角を現した初めにおいては、比較的謙虚で穏やかであった。アレクサンダー大王などと異なり、彼は王族の血統ではなかったから、慎重に振る舞う必要があった。伝説に寄れば、彼は1336年4月9日、サマルカンドの南でバリアス族のタラグヘイという低級貴族の家に生まれたとされるが、これとて確かではない。その名前「ティムール」は「鉄」を意味し、のち青年期に足をけがして跛になり、「びっこのティムール」すなわちティムール・イ・ラングと呼ばれるようになり、これがヨーロッパで転訛してティムール・ラン→さらに訛って一般にタメルランと呼ばれることになった。
チンギス・ハーンおよび彼のモンゴル族と異なり、彼は同族を戦争に導くことをいとわなかった。当時中央アジアは長らく争って分裂していた民族が融和に向かう時期にあり、彼の精強きわまりない軍隊は平原に無敵を証明した。多くの種族がティムールの並外れたリーダーとしてのカリスマおよび勇敢さを見立てて、重要な将帥として推戴した。
羊泥棒から支配者へ
15世紀の宮廷年代記作家にしておべっか使いのプロパガンディスト、サラーフ・アッディーン・アル・ヤズディは若かりしティムールについて「世界支配の高い志を持った英傑」と評したが、アーメト・イブン・アラブシャーによってより痛烈な批判がなされた。ヤズディとアラブシャーはともにシリアの同時代人であるが、ヤズディはティムールが1401年、剣を置いてダマスカスに彼の出生地に因む市を置いたことを賞賛し、アラブシャーは若き日のティムールが羊盗人を行ったと書き、またその人格についても狭量な略奪者と強調している。かように両極の筆致・視点で書かれている二人の史書だが、ティムールがびっことなったのは1363年、アフガニスタン西部の砂漠を探索中、右の腕と足に矢創を受けて神経障害を被ったためのことであったという点においては一致している。ともかくもティムールの幼少から青年時代にかけての資料は少ないが、兵卒時代から神出鬼没、敵の裏をかき、出し抜く術策に長けていたことは広く知られ、また狡猾で敵に容赦ない人物であったという。彼の上記の経歴からその戦士としての優秀を読み解くなら、明敏な知性と準備に細心であるという二点が挙げられるであろう。彼の軍隊は常に組織的で設備の整った最高級のそれであり、戦術および戦略的に見て彼は非常に細心かつ放胆であり、有史以来ほとんどの軍事指導者は彼ほど大胆ではなかった。
1360年、無名であったティムールはきわめて大胆な行動を取り、歴史の表舞台に躍り出た。故地マワララナハールの川向かいがモグフル・ハンの侵略を受けると、ハジ・ベグ(ティムールが住まうカシカ・ダリヤ渓谷を支配するバルラス族の長)は戦わずして逃げることに決した。このとき若きティムールは、彼の指導者にモグフルはより多くの土地を占拠するため侵攻してくるであろうから、この背後を妨げ脅かすべしと説いた。ハジ・ベグがなにごともしなかったので、ティムールは敵の優越を認め、家臣としてモグフルに自分を売り込んだ。申し出は受け入れられ、ティムールは24才にしてバルラス族の長の座をモグフルから認められ、成功裏に一族を掌握した。
もう一つ、彼の狡猾な策略家としての事例として、彼が権力を握ることになる1370年以前の数年のこと。彼はハーンに代々の忠誠を誓うか、あるいは戦場でハーンと対決するかを迫られた。これに対してティムールは自身に十分な実力がないことを認め、権謀を使う。病気のふりをして見せ、たらいいっぱいの猪の血を飲んでハーンの公使を迎えた。会談の途中、ティムールは自分が瀕死である演技をして喀血して見せ、相手に病気が事実であると信じ込ませた。公使はティムール不豫の報せを持ってハーンのもとに帰ったが、予め敵陣近くに野営地を築いていたティムールは一気に駆けて油断している敵を急襲し、ハーンとその取り巻き連中を驚愕の中に打ち倒し、これを戮した。
1370年、すでにかつての羊盗人は、かつての同盟相手、アミール・フセイン、チャガタイ・ハーンの最後の子孫を見限った。彼は彼自身の王冠を戴冠してバルクでチャガタイ・ハン国に取って代わり、名高いアレクサンダー大王やチンギス・ハーンの後継者を自認して中央集権を推進した。彼は王号を名乗るには時期尚早であるとして特別な名を名乗ることはしなかったが、世間はいくつかの尊号で彼を称した。曰く幸運な運命の王、時代の帝王、世界征服者などと。
世界の拡がり
主権者となった1370年から1405年、中国明王朝との戦争途上での死までの間、ティムールはおよそじっとしているということがなかった。1396-98年のサマルカンドでの2年の政務を別として、彼は常に戦陣にあり、建築計画を構想し、戦場では常に無口で冷徹で、荒々しく、常に能動的であった。サマルカンドを中心として彼は絶え間なく作戦行動を展開し、征服戦争は彼が平原にその軍隊を維持して勝利者であるかぎり永続であり、そうであるかぎり彼の部族はその指導者に忠誠を誓った。彼らには俸給という概念がなかったのでいきおい略奪に頼り、ティムールの麾下は周辺諸国家から蛇蝎のごとく忌み嫌われた。彼の戦歴はつかの間中断されたけれども一つの総合的な作戦行動として一貫しており、彼は征戦のために常時その軍隊を掌握して、動けるようにしておく必要があった。
彼の征服地を地図で見ると、1370年からの最初の10年は主たる実戦の予行演習のためにためにきわめて好ましく整えられた期間であったことが分かる。この期間中にティムールはマワラナハルとその周辺地域で力を蓄え、それは彼の軍隊がさらに遠くへ遠征するために必要な先触れであった。1379年、彼はウルゲンヒを襲撃し、略奪する。さらに西へ進んで1381年、黎明期の帝国の版図にヘラトを加え、1382年までにはカスピ海の支配者となりおおせた。
恐怖の戦争とその連続
彼の戦闘スタイルはアジア全体を震撼させた。そしてこの期間、多くの場合において、彼が足を踏み入れるより前に敵手は自ら敗北し、下った。彼の兵士たちの士気は略奪への欲求によって支えられ、このやっかいなポリシーをもったエージェントたちは喜んで敵手と市民すべてに等しく恐怖を与えた。
19世紀のペルシア史家、ジョン・マルコム卿はこう書いた。「ティムールはその兵士たちによってリーダーとして偶像視されたに違いない・・・。彼は階級社会という共同体について無頓着であったが、しかし彼の征服者としての名声に異を唱える者はいなかった・・・」
1383年、ティムールはホラーサーンの抵抗者を罰するため、イスフィザールの塔の中に2000人の捕虜を生きたまま繋いで監禁した。1387年には既に以前降服していたペルシアのイスファハンで蜂起が起きたことに激怒し、有名な7万人の大虐殺を行った。1398年、デリー近郊で堅牢な市壁に苦労させられた彼は反転して見せ、敵の撤退を祝うインド人を強襲して捕えた10万人のインド人をきわめて冷酷な方法で殺した。このタタール人の行き過ぎをとがめる事は誰も無く、兵士たちはむしろこの行為を褒め称えた。2年後、シバのトルコ人都市で生き埋めが行われた。ティムールは降服した敵に名誉を認めず、約束も守らなかった。バグダッド崩壊後の1401年、ティグリス川は血で赤く染まったといい、このときもティムールは恐怖支配を敷き、120の塔を都市周縁に建て、殺戮した9万人の骸を積み上げてハゲタカの餌とした。
ティムールは遺言により素晴らしい建築学的遺産・・・途方もなく特徴的な青タイルのモスクと虹青色の天衝く門を持ったドームを譲渡した。それらは注目すべき建造物であったけれども、人々の脳裏に記憶されたのはそれら彼がその治世の間に設計して長らく後世に残った最高の公園や宮殿ではなく、戦場跡につかの間築かれて夜光灯で照らされた人間の首による塔やピラミッド、略奪と暴行の跡であり、彼は恐怖と死の象徴であった。この恐るべき軍事指導者は独立都市あるいは敵対する都市の反抗心を強烈に、大いに効果的に挫いた。
強敵トクタミシュ
1386年、スリアニヤを獲得した直後、ティムールのもとに気がかりな報せがもたらされた。彼のかつての被保護者、ティムールの軍隊の度重なる助けによってゴールデン・ホードのハーンとなっていたトクタミシュが、かつての恩人に反旗を翻しタブリズに直接攻撃を仕掛けた。ティムールは迅速に反応した。ペルシアに対する3年の作戦行動を切り上げ、軍を西に動かしサマルカンドへむかったティムールはタブリズを救援、急ぎグルジアの首都ティリス(トビリシ)を援護、のち、ここで「彼の征戦の中でも最も凄惨な虐殺の一つ」が行われた。1387年、イスファハンは降伏し、シラーズに降伏を働きかけ賢明にも戦いを避けた。ティムールはアルメニアと小アジアで作戦行動を行ったが、その間にトクタミシュが手強い敵になってマワラナハルを荒らし回った。
1389-90年厳冬、彼は雪の中馬上で迂回し、自身の軍隊に北上して彼の敵手を粉砕せよと命令を下した。それから5ヶ月、ほぼ2000マイルを踏破して極寒のシベリア大草原を抜けた兵士たちはコンディションを悪化させ、対するにトクタミシュは軍を物陰に潜ませ、領内深くにティムールを引きつけて打破しようとした。
1391年6月18日、ついに両軍は正面から対陣した。ティムールは彼の敵トクタミシュをわざとらしいほどに軽蔑して見せ、兵士たちに贅沢をさせ、毛皮のテントと大型テント(パビリオン)を築かせ、自らは従容としてカーペットに座り陣取った。年代記に寄ればこの心理戦運動によりゴールデン・ホードの面々は士気を潰滅させ、意気阻喪したという。翌日、戦いのさなか、トクタミシュはティムール優勢のまま逃げだして戦闘はひとまず終わった。
1395年4月22日、2人の敵手は2度目の、そして最後の対陣に及んだ。3日間に渡って双方は互いの軍隊を操縦し、トクタミシュは地の利を占めて現在のチェチェン共和国のテレク川対面の丘の上に陣取り、この時点で両軍対陣したまま膠着状態に陥ったのでティムールは切り札を使った。夜になるや彼は野営地の女性たちに兵に扮するよう命じ、その一方で3日間の行軍から帰った兵士たちには唯一渡河可能な浅瀬のポイントに移動させた。ティムールの軍はかくて夜襲を仕掛け、彼の兵士たちが利を掴むとトクタミシュはまた戦の最中に逃げたが、ゴールデン・ホードは今度こそ潰滅し略奪されて、トクタミシュについては終わりを知られていない。
先駆者を超える
彼の敵すなわちイスラム世界は彼のことを野蛮人だと見下していたが、ティムールは高い知性と教養を持ち、歴史と宗教に造詣の深い、比類なきチェス・プレイヤー(戦術家)であった。1398年、彼はペルシアとグルジアを叩いて成功し、5年にわたる作戦活動を終わらせると、今度はインド遠征を表明した。これは彼の先達、アレクサンダー大王とチンギス・ハーンに倣い、それを超えるための意識的な発表であった。
彼の皇子と軍卒たちは世界の屋根(ヒマラヤ)を10万の兵で超えることの理論的困難とそれに挑戦しようとする精神に仰天した。彼らの「どのように我らが訪ねた山を越えるというのでしょう?」「いかにしてサマルカンドとでリーの間に横たわる大河を渡れば良いのでしょう?」「インド人の半月刀と火器、そして鉄鎧を装備した戦象を相手にどう戦えというのでしょう?」という問いに、ティムールは威圧的沈黙を持って押さえつけた。これら弱者のいいわけめいた反対は、敗北を知らない男(ティムール)の前に無駄な質問でしかなかった。
それはめまぐるしい作戦となった。山向こうの危険なルートについて探求に着手するや、年配の皇帝(ティムール)1000フィートの絶壁の一点から下降し、自動操縦的に作戦を進めた。無慈悲ながら彼の戦争準備は常に徹底しており、ティムールは彼の兵士たちに三叉の杭を持たせるとデリー近郊の平原に布陣し、市民に市を離れることを命じた。市民は当然拒絶し、戦闘が始まった。ティムールは乾燥した草と木の束を積んだラクダを連れてきており、これに火をつけて三叉の杭でなげつけると、インドの戦象たちは炎にまかれて暴れ狂い、インド軍自身に突進した。
驚くべき恐怖により、インド軍はあわてふためき我先に逃げ出した。瀕死の恐竜のように、インド軍はパニックに陥り精神を縛られて散潰する。絶命の喘ぎを上げて世界で最も富裕な都市の一つは陥落し、並外れた富をティムールの帝国にもたらした。インドのスルタンが累代に渡って蓄積した財貨は、数日の内に略奪された。無数の首を斬られた死体が路上に転がって腐乱し、頭蓋骨の塔が口に出すのも憚られるような大殺戮の現場に現れた。飢饉と疫病が広まって蔓延し、デリーが回復するために1世紀以上の年月を要した。
破壊巡礼
一息ついてサマルカンドに勝利凱旋したティムールは、次の7年間にわたる作戦のために彼の軍団をまた招集した。これが彼の人生における征戦の最後の一押しになるが、しかし彼は年齢的にまだ惰弱になっていなかった。1400年、彼はアルメニアの駐屯部隊を破り生き埋めにして殺し、続けて南西に向かいエジプト帝国に入ってアレッポを強襲、猛攻により崩壊させた。タタール族は慈悲を知らず、男女老若を問わずエジプト人の首を切り落とした。軍隊はそのまま南進し、進軍路上に数千の首が山を成して積み上げられ、ぞっとするような虐殺の状況を伝えた。
1402年、彼はスルタン・バヤズィト(雷鳴)と対決した(アンカラの戦い・参照)。バヤズィトは肥満しているが強力で剣腕に長け、ティムールにとって最も強大な敵であった。だが勝者はティムールであり、これによって小アジアを完全に掌握した彼はエーゲ海に立ちヨーロッパをいつでもねじ伏せることのできるポジションを手に入れる。ついで、彼はこれまでで最大の敵に対峙することに決した。東方中国の明王朝。彼がまだ一度も鉾を交えることのなかった唯一にして最大の敵である。
1404年冬、タタール族の軍はその頭に68才しわくちゃの老皇帝を推戴してサマルカンドから進軍した。折からの吹雪で温度が急落し、風が身を斬る。さらには雪が降りしきって骨を刺し、男たちのあごひげと口ひげが凍り付いた、と年代記は語る。オトラル、現在のカザフスタンでティムールは病を得、典医が薬湯を与えたが熱が下がることはなかった。1405年2月18日夜8死、一代の英雄ティムールは息を引き取った。彼が死の床にあって警告していた後継者をめぐっての血なまぐさい争い、それはたちまち顕在化し、彼がかくも慎重かつ冷徹に、その建築と維持に多大な労力を要した大帝国はあっという間に崩壊を始めた。彼の死から一世紀と言わず、その帝国は地上から綺麗さっぱりなくなっていた。
アンカラの戦い
1402年7月28日朝10時、ティムールはアンカラ北東のチブガバッド平原で簡潔に閲兵を行った。彼らはアルメニアからアフガニスタン、そしてサマルカンドからシベリアまでを横断し縦断した20万の世界最強の職業軍人たちであり、事実ティムールに率いられた彼らは敗北を知らなかった。
左翼は皇帝の息子、皇子シャー・ルフとハリール・サルタンによって率いられた。さらにその前衛にはそのシャー・ルフの息子サルタン・フセインが指揮杖を取り、ティムールの3番目の息子ミラン・シャーは右翼先頭にあってその息子アブー・バクル以下の兵たちを率いた。軍の主立った指導者はティムールとその一族であり、主力はティムールと皇太孫ムハンマド・サルタンの指揮下にあった。
オスマン帝国のスルタン、バヤズィトⅠ世は、ほぼ同等の兵力を戦場に投入した。彼らの主力はフルプレートの鎧をまとった12万のセルビア人騎兵であり、小アジア諸州から集められた非正規騎兵と歩兵とがこれに加わる。バヤズィトは中央にあって5千のヤニサリス・・・イェニチェリ。スルタン直属の歩兵隊・・・を率い、それを彼の三人の息子がそれぞれ兵を率いて補佐した。皇子ムーサ、イサ、ムスタファの三人である。右翼中心はスルタンの義兄弟であるところのキリスト教徒・セルビアのラザロヴィック。右翼を率いるのはその息子スレイマン・チェレビ。
戦闘が始まる前から、ティムールの天才的戦術的術策はすでに発現していた。敵の士気を打ちのめして戦う前から疲れ切らせ、そして困憊の体のオスマン・トルコ軍に不意打ちの強襲を喰らわせた。ただ、一週間前にトルコ軍はより高い有利なポジションに移動しそこを占拠していたので、タタール族は純粋な戦闘で敵を打破することができなかった。そこでティムールは術策で勝つべく敵の給水路をおさえてそこに毒を流し、さらに遡って敵の無防備な野営地を略奪、トルコ軍の帰るべき場を奪った。
本格的な戦闘が始まると、トルコ軍は獰猛であった。平野の向こうに手強いセルビア人騎兵12万が現れ、その圧力に押されてタタール族の左側面はナフサ(揮発油)を塗った矢と火矢とを交互に放って煙幕で自身を守りつつ、後退した。右翼アブー・バクルは矢嵐を盾に敵軍左翼めがけて突き進み、獅子のごとく戦ってついに敵の重囲を突破した。
バヤズィトの軍に対して、タタール騎兵は迂回行動を取り、チェレビのトルコおよびマケドニア兵の後背を衝いた。この瞬間をもって戦況は切り替わり、ティムール軍に傾いた。それはオスマン・トルコの攻撃を打破した決定的瞬間であり、ティムールにとっては画策通りであった。数ヶ月前から仕込んだ、部族の忠誠感覚を利用してのタタール族の造反が結実した。チェレビは戦いに見込み無しと判断して、残余の兵士たちとともに戦場から落ち延びたが、サマルカンドのエリート部隊はブルサに向かって突撃しながら逃げるチェレビおよび彼に従うセルビア人騎兵隊を発見しこれを捕えた。
バヤズィトの歩兵隊は今なお損なわれずに温存される唯一の兵力であったが、悪いことは重なるものでタタール族中軍が前進、80連隊と恐るべき戦象をもってことを決しようとした。オスマン・トルコの歩兵隊はその真価を発揮するまもなく、たちまち総崩れとされた。
バヤズィトはスルタンとして最後まで勇敢に戦った。しかしタタール族の今や圧倒的な物量の前に衆寡敵せず、オスマン・トルコ史上唯一無二といっていい武威のスルタンは自ら縄目の恥を受けた。この勝利により、ティムールの最も偉大な事業は完成したといえる。
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