第30話 プリンツ・オイゲン・フォン・サヴォア
サヴォアのオイゲン公(1663-1736)
小柄であばた面、しかも反っ歯の、身体的に虚弱な-(プリンツ・オイゲンとして知られる)サヴォアのユージュヌ公は、しかしながらありえないほど大きな軍事的英雄に成長した。彼はナポレオンが評するところの、史上空前の、七人の最も偉大な軍人の一人に数え上げられる人物である。
プリンツ・オイゲンの並外れた軍事的才能と、フランスを生地としながら、終始フランスに反逆するかのような行動、そして輝かしい成果は、フランスにとっての悲劇であった。 ルイ十四世、誰よりも成功して“太陽王”と呼ばれたこの人物に反抗して闘争し、勝利を成し遂げたのは唯一彼と、彼の、歴史上軍事的パートナーシップにおいて比類ない関係にあったマールバラ一世公爵のみである。彼の他の受難者は、オイゲンが生涯三十二の作戦を通して神聖ローマ帝国のために剣をとり続けた相手、オスマン・トルコ人であった。彼らはしばしば数に勝ったが、オイゲンは決してひるむことがなかった。彼は彼の敵を熟知し、それら数の上での優位性を無価値なものとした。彼のカリスマ的な勇敢さは、彼を他者とは違うたぐいまれな栄誉あるリーダーと為した。オイゲンのトルコに対する勝利は、ベオグラード開城において頂点に達し、完璧に西ヨーロッパに対するオスマン・トルコの脅威に終止符を打たせた。オスマン・トルコの勃興より一世紀半を要して、神聖ローマ帝国はようやくらにこのような偉大な軍事的天才を見いだしたのである。
猛追するカリスマ
ウィーンが絶望的なまでに窮乏していたとき、オイゲン公はハプスブルグの軍を指揮することになった。そして戦争を準備する際、公をねたむ大臣たちの企みによってしれはしばしば妨害された。オイゲンの軍事力はまったく彼が個人的に統率するものであり、大臣たち、あるいは皇帝からも帝国のため適切に作動する戦争機械と見做されていた。同様に、彼の存在は戦場で魔除けの護符ででもあるかのように言われることがあった。彼は真鍮のボタンをつけた簡素な茶色い革ジャケットを着て、前線で指揮を執った。時代遅れの仰々しい格好は紛らわしく、邪魔になるだけだったからである。なぜなら戦場でのオイゲンは“身の毛もよだつ”ような姿を見せたから。十九世紀のイギリスの小説家ウィリアム・サッカレーは、当時の士官の手記から、オイゲンがどのように戦場で荒れ狂ったかを描いた。曰く「彼の目は明るく輝いた。彼は激怒し憤怒して、ここそこへと急いだ。彼は敵を見つけると、呪いの叫びと共に金切り声を上げ、大声を上げて彼の血まみれの軍犬を呼び戻すと、狩りが終わるまでずっと暴れ回った」という。彼の兵士たちはそんなオイゲン公を崇拝したのであった。
高貴な出自
オイゲン(本名はフルネームでフランソワ・ユージュヌ・ドゥ・サヴォア)はサヴォアの御曹司である。彼の父は勇敢ではあるが華々しくない軍人であり、彼の母はフランスの枢機卿・マザランの姪である策略的なハリダンであった。彼女が彼女の幼少時代からの恋人、ルイ十四世の女王になる野心に失敗したとき、彼女はそのつながりを保持するために(魔術の行使を含めて)奇矯な術策を弄した。彼女は不名誉なことに最終的に追放され、魔女の嫌疑をかけられ非難された。ユージュヌの若年期はこれまたスキャンダラスで、醜く柔弱な少年はホモセクシュアルの性的ないかがわしさと痛ましいほど不衛生な個性を持っていた。彼が宮廷において知られるのは悪意ある要素ばかりであり、「わたしのアンシエンヌ奥様」と呼ばれたが、その一方でユージュヌは軍事学について熱心であり、情熱的であった。彼は自ら選び取った道に進む準備のために、数学をマスターすることと古代の英雄の伝記を研究することに傾倒した。また精力的に運動し、身体を強くして、知性の曇りを取り払った。しかしながら、ユージュヌがフランス軍に将校任命を求めたとき、ルイ十四世は手痛く侮蔑的にこれを拒絶した。ルイ十四世は何度にも渡って彼の嘆願を無視し、むしろ牧師となるが良い、と言ってユージュヌの将校任命を否定し、代わりに僧侶への道を提示した。最後の嘆願が拒絶された後、そして彼の母の屈辱がなおいっそうにうずいているさなか、ユージュヌはただ復讐に燃える剣をもってフランスに帰還するだろう、と誓って故国を立ち去った。
帝国への奉職
1683年、ユージュヌはハプスブルク家の皇帝レオポルトの軍に参入した。ここで彼はドイツ風に「プリンツ・オイゲン」と名を改め、それが後世まで知られる。数年の間彼は砲火の下で厳しい試練に耐え、そしてのちロレイン公のもとでウィーン攻囲戦をトルコ軍と戦った。オイゲンの活躍が非常に際立って勇敢だったので、一対の黄金の拍車(騎士の身分の象徴)と一個連隊の指揮権とを与えた。これは驚くほどのスピード出世であり、以後オイゲンは20才で竜騎兵連隊長、22才で少佐、24才で中将、25才で陸軍元帥中尉、26才で騎兵大将に任命された。オイゲンは軍中における偉業によって注意を強要した。1687年、彼はモハクスの戦いでトルコ人に対する決定的な勝利の騎兵突撃を指揮したが、戦後、公は敗れたトルコ人のキャンプに帝国の象徴である鷲の旗を設置し、トルコの三日月旗を撤去した。彼の勇気に対する報酬として、オイゲンは皇帝に勝報を知らせる栄誉を与えられた。のち、フランスと大同盟の間に1688年勃発したアウグスブルグ同盟戦争のとき、オイゲンはイタリアで活動中であった。彼の兵士は、いまにも壊れそうながたがたの、スペイン人とサヴォア人、ピエモンテ人の混成にしか過ぎなかったが、立ちはだかるフランス軍を立て続けに打ち砕き、半世紀後には無敗無敵の記録を樹立することになる。そのオイゲンの異常なまでに優れた統率力を支えたのは彼の無慈悲な兵士たちであり、それは競争にも等しかった。(1690年、彼は、彼ら(兵士たち)が習慣的に、囚人たちを処刑する前に去勢してから殺したと報告した)1694年からオイゲンはイタリアで連合軍最高司令官となった。
ゼンタの勝利
ウイーンで、オイゲンの成功に対して嫉妬と憤慨がわき起こった。1697年、オスマン・トルコを西方に追い立て、十年前に奪われた都市を奪い返したとき、オイゲンは彼らとの会談に赴いたが、しかしそれは帝国の軍事参議官会からの指示による追撃攻勢のためではかった。オイゲンは常に行動の男であり、このようなネガティブで惰弱な態度を無視し、思うようにオスマン・トルコを視察した。彼はトルコ人が莫大な数と勇敢さを持ち合わせながら、弓矢を含め初歩的な武器しか持ち得ず、また武器製造技術を埋め合わせることができなかったことを見て取り、そしてオスマン・トルコの成功と希望が前進的技能の維持と緊密な陣形であることを理解した。オイゲンは1697年9月11日、ゼンタでトルコ人を攻撃し、大ヴィジェルの影武者4人を含めた3万人の敵兵を殺した。収奪品の中には6万匹のラクダと大特殊部隊、そして大ヴィジェルのまだ誰も獲得することの適わなかった権威のシンボルがあった。一方オイゲンが受けた打撃はわずか三百人の損耗に過ぎなかった。この驚くべき勝利を獲たオイゲン公に対する報酬は、命令に服しなかったための解雇であった。しかし、非常に高い将来の需要のために、皇帝は彼を可及的速やかに復職させることを保証した。オイゲンは将来のより大きな自立のために、ただ自身の復職を受け入れた。ゼンタは実質的に、トルコ人との最終的決着を導いたと言える。
フランスとの戦い
リスウィックの和平(1697年9月20日)はフランスとの対立を終わらせたかに見えた。しかしながら1701年、ルイ十四世がオーストリアのハプスブルグ家継承に対してそれよりもむしろ自らの孫であるスペイン国王を擁立したため、スペインとの連続した戦争が起きることになった。オイゲンはオイゲンは早期に敵を撃破して退けることに熱心で、そしてここがフランスーオーストリア間の闘争の鍵となるであろう事を確信してイタリア半島に戻った。フランスの元帥カテナの軍隊に対してゲリラ作戦を仕掛け成功するが、その前に彼は中立のヴェニスを通過して南方に2万2千の兵と共に進んだ。ルイ十四世はカテナを激しく非難し、「朕は若く未経験の公子と戦わせるために卿をイタリアに送ったのである。そして彼は戦争のすべての指針を無視した。なれど卿は魅了されて彼が望んだように踊らされているように思われる」結局カテナはヴィルロワに取って代わられた。ヴィルロワはキアーリ要塞にオイゲンとその軍隊を攻撃したが、数の不利にもかかわらずオイゲンは勝利と成功を確信していた。彼はフランス軍の最も強力な攻撃が最初の騎兵突撃にあることを見越して、そして次からの戦いではずっと成功を収めることはないだろうと述べた。彼は彼の部下たちにうつぶせに寝てフランス人が近くに来たときだけ立ち上がって発砲すること、それだけを命じた。そしてそれは見事にフランス兵を混乱させた。ヴィルロワは2万を失い、対するにオイゲンは40人の損害しか蒙ることがなかった。1702年2月、慣習的な冬営シーズンの前に、オイゲンは大胆な攻勢を開始した。クレモーナの冬営所にヴィルロワを見いだしたオイゲンは、彼の軍隊の先頭に立って棄てられた運河を通り、フランス軍の中心に出た。クレモーナ攻略は果たせなかったが、オイゲンはヴィルロワを虜囚とした。ルイ十四世は新たにヴァンドーム元帥をもってオイゲンに当てた。フランスには8万の兵と2万8千の諸公があったが、8月、両軍はリュッツァラで会し、血みどろの戦闘の結果引き分けに終わった。オイゲンの親しくも大切な友人、コンメルシー公は条約の締結中殺された。戦闘後も両軍は互いに断固として対陣したまま82日間留まりったが、オイゲンは条約によりフランス側にかなりの敗北的条件を引き出した。彼の偉業と不屈とのおかげにより、今やオイゲンは大同盟軍の最重要な英雄となった。1703年、オイゲン公はウィーンで帝国軍事参議会頭領、帝国軍軍事問題監督官に任命された。
軍における僚友
オイゲンの経歴の次なるステージは当代におけるもう一人の偉大な軍事的天才と密接に関連していた。マールバラ公ジョン・チャーチル。彼とオイゲンの出会いは1704年夏のことだった。彼は同盟軍をダニューブ河に沿って先導し、帝国人をフランスおよびバヴァリア人の潜在的脅威から救うべくやってきた。それは異例の、二人の天才による提携の始まりだった。このコンビの最初の勝利は、1704年8月13日、ブレンハイムで獲得された。オイゲン公は帝国軍を指揮して荒れた地形と優勢な敵兵を克服して、連合軍右翼の上に帝国軍を導いた。オイゲン公はくりかえし拒絶されたにもかかわらず歩兵および騎兵による突撃を連続して指揮した。二人の密偵が脱走するのを見つけると、彼は当然の報いを与えるべく、馬を飛ばしてその二人の背を撃った。午後遅くなって、マールバラは騎兵隊突撃を指揮してフランス軍を粉砕した。年下のパートナーは今やオイゲンにとって重要な役割を果たす存在となった。ルイ十四世は初めての手痛い敗北を味わったが、以後16年間、なお玉座に君臨した。
トリノの勝利
1705年、オイゲンはイタリアに戻った。彼はカッサノおよびその他の攻撃を受け、血まみれになり行き詰まった。1706年初頭彼の軍はカルチンナトで圧倒され、オイゲン公はアルプス山脈にその兵力を撤退させた。フランス-スペイン軍は既にイタリアに対するオイゲンの干渉は終結を見たと考えた。が、オイゲンはトリノ方面に前進し、広大な土地を所有する同盟国、サヴォアに接近してからトリノを攻囲した。オイゲンはフランス軍に対する世評の効果により、攻撃の準備を整えることができた。彼の接近により町は麻痺しているように思われる、と報じられた。9月7日、オイゲンはトリノ外辺への攻撃を開始、敵の銃を奪ってそれをフランス軍に向け、攻撃の指揮を執った。すさまじい戦いになり、公の従者と召使いは倒れて公の横に落ちた。さらに彼自身も愛馬の下から射撃を受け、そのため頭に銃創を受けた。両軍死傷者3千人を出したが、フランス側はさらに6乱人の捕虜を出した。ルイ十四世のイタリア支配の夢は1日にして終わり、オイゲンの勝利はスペインよりむしろオーストリアが次の一世紀半に渡る半島の支配権を獲得するにふさわしいと見せつける結果を引き出した。オイゲンが皇帝から下賜された報酬にはミラノの知事職も含まれる。
プロヴァンスでの大惨事
1707年は有望な年として始まった。この年、公は帝国の野戦元帥に任ぜられた。その間にロシアのピョートル大帝はポーランド国王空位に対して、オイゲンをそのポジションにと提案した。しかしながら、皇帝は彼の有能な統領を失うことを憂慮し、その提言を支援することをしなかった。オイゲンは彼のいとこ、サヴォア公の名ばかりの指揮下でフランス、トゥーロンの海軍基地を攻撃し、連合のために地中海の制海権を増すべしと提案、可決された。これはフランス人にスペインからの撤退をうながすであろうと期待された。トゥーロン攻撃を実行可能にした能力は驚くべき信頼性をオイゲンに付与した。しかしながら、サヴォア公は補給を待って時間を空費した。3万5千人強のオイゲンの軍が6月30日に出港したとき、フランス軍は既に彼の本当の渡航先を捕捉していた。オイゲン公は今同等の兵力のドゥ・テッセ元帥の軍と競争して、そしてフランス軍は初めてオイゲンに勝利した。トゥーロン作戦に対して決して楽観的でなかったオイゲンだが、この敗戦には大いに気落ちした。8月2日、彼は敗北を認め、長期戦をあきらめた。
パートナーシップの再開
1708年、オイゲンはマールバラと再会した。フランドルの作戦で、ブルゴーニュ公とヴァンドーム元帥は11万の兵を率いてブルージとゲントを速やかに取り、しかる後アウデナールデを目指した。マールバラは都市を救うべく彼の兵士たちを2日半に50マイルの速度で行軍させ、その速力のためにオイゲンはしばらくの間マールバラの大軍と連絡を取ることができなかったが、ようやくにして彼の僚友に合流することに成功した。アウデナールデの戦いは7月11日午後4時に始まった。オイゲンは同盟軍右翼中にあって速攻で戦闘を指揮し、押し寄せるヴァンドームの軍をほとんど引き受けた。ちょうど都合良く強化されたオイゲンは、オランダ軍がフランス軍に完全に囲まれる前にヴァンドームの第一ラインを打ち破ることを可能とした。黄昏、同盟者は発砲を停止し、独力で死傷者を生み出すことを禁止されたが、オイゲンは終わっていなかった。彼は彼の鼓笛兵にフランス軍退却の合図を鳴らすよう命じ、ユグノーの士官がその後に従うように、彼の同国人を騙す虚偽の命令を大声で申しつけた。オイゲン公のこの策略によって騙された人は、アウデナールデの9千人の捕虜の内の相当数にのぼったという。同盟軍はフランスの6千に対して、3千の死傷者を出した。オイゲンとマールバラは今やリール、すなわちフランス2番目の都市に対峙した。ヴォーバン、ルイ十四世の素晴らしい“築城の名手”によって立案され建築された堅牢かつ複雑な城塞都市で、それは攻城計画を立てるだけでも骨の折れる仕事であった。オイゲンは8月17日、都市に金をばらまいた。その五週間後、彼はマスケット銃をぶっ放し、戦闘を指揮した。最終的に12月9日、リールは陥落。ゲントとブルージはまもなくこれに続いた。翌年1709年はいっそうの困難を伴った。オイゲンは主力を率いて監督し、マールバラはトゥルネーを包囲してこれを陥とした。ヴィラール元帥とボーフレールは次の同盟軍の標的をモンスと見抜いたとき、オイゲンらはマルプラケの森林地帯で腹一杯に食べ、敵の攻撃を待ち構えた。9月11日、オイゲンは同盟軍の正規軍、デンマーク歩兵とオランダ騎兵にサポートされた皇帝軍を指揮した。彼は戦いの間に邪悪なサルト人の闘争に巻き込まれ、マスケット銃の弾丸で耳の後ろを撃たれたが、治療のために戦場から去ることを拒んだ。凄惨な争いがあり、そしてその日の終わりにフランス人は敗北して退いた。彼らは1万4千人を失っていたが、しかし同盟軍の死傷者はそれを上回る2万4千人であった。そして、マルプラケの戦いはオイゲンとマールバラが共同して戦った最後の戦いとなった。
ヴィラールの犠牲者
1710年末に向かって、イギリス政府はフランスとの和平交渉を内密に開始した。1712年の始めにトーリー党政府はマールバラがフランスに対して軍事行動を取ることを禁止した。オイゲンは暗闇に一人取り残された。そして、イギリスのこれらの裏切りは、オイゲンの戦歴を最も小さく戦果少ないものとした。1712年7月、オイゲンはクゥェスノイを獲得、この最初の成功を、彼はあえて前線から遠くにあって指示した。その月遅く、ヴィラール、ルイ十四世の世紀において最も信任厚い元帥は、デナイでオイゲンに不意打ちを食らわせ、その配下のオランダ人を打ち破った。しかる後、フランス軍はドゥエーを獲得した。その後まもなく、オランダの野戦保安代理人が彼を酷く拘束したため、オイゲンは自ら獲得したクェスノイ、そして次にボーチェインを放棄しなければならなかった。3が月にしてオイゲン公は彼の軍隊と彼が手に入れた寨の5分の3を失う事になった。連合の残余が1713年ユトレヒト条約を通してルイ十四世と和平を結んだが、皇帝はライン川上流の帝国軍を指揮するたるめオイゲンを送り戦わせた。しかし兵の士気は低く、敵は優勢なヴィラールであり、オイゲンはさらにランドーとフライブルグを失った。こののち、オイゲン公は1714年3月7日、帝国の興味を代弁し、ヴィラールとの間に和平交渉を行いラスタダット条約を結んだ。
トルコを飼い慣らす
トルコは今、大ヴィジェルおよびペトロウォーダイン麾下の12万の兵をもって西方に行進した。オイゲンは6万の兵と共にオーストリアの要塞を守り、1716年8月5日、逆襲に転じた。大ヴィジェルがその日率いて失った兵士は6千を数えた。オイゲンは報酬として敵将が放棄したシルクと金のテント(それを築くために5百人の兵士を要するほど大きい)や、十分に豊かな鹵獲品を獲た。オイゲンは引き続きテメスヴェル要塞を取った。トルコは和平交渉を求めたが、オイゲンは皇帝にあくまで唯一絶対の勝利を得るまで譲歩せぬよう説得した。オイゲンは彼の目標としてベルグラードを想定していた。1717年のベオグラード奪取は、オーストリアに対するトルコの脅威を終わらせた、オイゲンの経歴上の絶頂であった。ベルグラードは十六世紀中頃から既にトルコの手にあったが、オイゲンはそれを取り戻してオスマン・トルコから彼らの主要な西進起点を奪うことを熱望していた。彼は速攻でベルグラードを攻略し、殂して次にトルコ人がアドリアノープル送ってくるであろう援軍勢力を打破することを望んだ。オイゲンはダニューブ河上の橋を破壊し、さらに夏のサイクロンにも助けられて攻撃したが、ムスタファ・パシャと3万人のトルコ兵は勇敢に町を守ったが、ハリル・パシャ麾下の百万の軍勢そのほぼ4分の1がオイゲン公を迎撃するため到着したとき、ムスタファ・パシャの駐屯部隊はなお意気軒昂でハリル・パシャに対して反抗的であった。しかしこの二つのトルコ軍は赤痢に悩まされ、弱体化する。オイゲン公は彼の習慣とも言える反射的行動力を発揮して、攻撃に出た。1717年8月16日夜明け前、彼の兵士たちは朝靄の中を進み、トルコの兵はこれを捕捉し損ねて戦機を完全に逸した。そして知らぬままに帝国軍右翼を隔離した。オイゲンは脅威から生還し、彼の騎兵に当時先進的な強歩兵をサポートとして、トルコ人の間近五十フィートまで彼らを率いた。帝国兵は剣と銃剣をもってオスマン・トルコの兵に襲いかかり、初手で二万の損害を与えた。ベルグラードはたちまち降服した。西ヨーロッパは二つのトルコ軍の間でオイゲンが打ちのめされたというニュースを用意していたが、それに変わってオイゲンがこの百五十で年間初めてトルコの脅威から彼らを救ったことを知った。1718年からは平和が続き、十五年後、ポーランド継承戦争においてオイゲンは再びフランスと対峙するため最高司令部に呼び戻される。これは戦場で十一回創を負ったことのある虚弱な七十代の老人には過酷で遼遠な戦いであった。彼の胸は永久に感染症から立ち直れず、1734年、立ちはだかる五倍のフランス兵に対してオイゲンはドイツにおける勝利によってハプスブルグのイタリアでの損失を埋め合わせるべく勝利を模索したが、彼はもう既に、帝国最高の、自信に満ちた将軍ではなかった。そして彼の優柔不断はフィリップスブルグ陥落を許してしまう。1735年オイゲンは彼の最後の作戦に着手した。彼はこの時点までに既に心身ともにずたずたであったが、それでも帝国の援軍として出兵し、その秋ウィーンの和平によってポーランド背継承戦争を終結させた。こののちオイゲン公は引退し、翌1736年4月、七十二才で没した。彼はイタリア系フランス人でありながら、オーストリアの最も偉大な将軍として今もなお記憶される。
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