第29話 李世民(り・せいみん。五九九-六四九)
李世民、すなわち唐の太宗は、その祖籍を求めると隴西成紀にあり、のち陝西の武功に移り住んだという。紀元五九九年というから隋の開皇一九年生まれで、没年は六四九年だから唐の貞観二三年。彼は中華の偉大な政治家であり、著明な軍事家でもあった。
李世民の出自は隋の官僚貴族の一家であり、その父李淵と煬帝とが従兄同士と言うことで李淵は唐国公に封ぜられ、諸郡の太守、殿内少監、衛尉少卿、山西および河東の慰撫使、太原留守などを歴任した。のち隋末が大農民起義起こって大挙反隋の機運盛んとなったとき、長安を攻略し唐朝を打ち立て帝を称した。
李世民は幼い頃から聡明鋭敏、博学にして武事に精励し、年十余にして古今の兵法に通暁し、偉傑との交わりを好み、財を軽んじ義を貴び、李淵の非常な親愛を受けた。李淵は各地を官として渡り歩いたので、李世民にはそれに随行して実際に隋朝の腐敗と清水興亡の現実というものを見る機会があった。彼はのちの軍事、治世と創業において、隋の盛衰を反面教師としたという。
六一五年こと隋の大業一一年、隋の煬帝は人馬を率いて辺塞を周遊し、雁門まで行ったところで突厥数十万騎に包囲されることになった。雁門城は城墻が不完全であり、守備は薄弱、糧は少なく、形勢危急であった。煬帝はこの状況に倉皇として、天下に檄を飛ばし、救援の兵を募った。このとき16才の李世民は詔に応じて軍に入り、勤王の軍に従い屯衛将軍・雲定興の帳下に隷す。軍隊が出立した後、李世民は雲定興に建議して曰く「突厥には敢えて中華の主を囲む度胸があり、我らでは狡猾な手段を弄しなければ救援することは不可能でしょう。敢えて正面から軍を寄せれば敵は猖獗必至。私が軍を計るに、宜しく大声を発して大勢に見せかけ、また数十里にわたって旗を立てて絶やすべからず。そして夜また鼓を鳴らしては潜むべし。必ず援軍大いに集まると疑い、そうなればすなわちこれを走らすこと可なり。そうでなければ東方の虚実を悟られ、勝敗を計ること困難と言えましょう。」雲定興はその言うところに従い、李世民の計画通り実行する。軍は悖県に至り、突厥の偵察騎兵は旌旗が道を遮って絶えることないのを見、果して突厥可汗に報告、可汗は遂に自ら囲みを解いた。
六〇六年こと大業一二年、李淵は太原留守に任ぜられ、李世民は父に従って任地に至る。時に賊の首魁・歴山飛と言う者があって常々太原を荒らし、李淵は衆を率いて出撃したが逆に包囲に落ちた。李世民はこれを聞くや弓をひっさげ馬を走らせ、健騎数十騎を率いて重囲の中に突撃し、賊衆を射て退け、李淵を救出して、また勢いに乗じて奮撃、大いに賊衆を破った。
このとき、煬帝は揚州に駐留して、酒色に溺れた。天下にはすでに群雄並び立ち、隋朝の治世はまもなく土砂崩れのように瓦解する。李世民はこの難局にあって胸に大志を抱き、財をなげうち士を養い、天下の豪傑と契りを結んだ。長孫順徳、劉弘基らの人が、亡命して彼のもとに投じ、李世民は彼らを皆左右に修めた。また晋楊の令・劉文静らとも大いに交友があり、その密なること余人に過ぎた。隋朝滅亡は眼に見えており、遂に劉文静らと大挙を密謀し、再三李淵に早日事を起こし行動を取るよう促す。ひそかに策謀を巡らし、六一七年すなわち大業一三年、李淵親子は太原にて反隋の軍を起こし、大将軍府を建て、その領する部衆三万を二手に分け、一方を長子・李建成ら、もう一方を李世民に統帥させる。各地に檄を伝え、自ら義の兵と号して、汾水に沿って南下、長安を直撃する。時に西河郡の丞、高懐儒は拒んで命を受けず、李世民は軍を率いて西河を責めた。自ら先鋒となり、登城の険を冒し、高懐儒を拿えると、その首を斬って衆に示し、それ以外はただの一人も殺すことがなかった。軍を返してのち、李世民は敦煌公に封ぜられ、右領軍大都督を拝し、属宮を置いて開く。また李淵に従って兵を西へ進めるも、まさしく霍邑に至って大雨に遭い、止まず。食糧は欠乏し、かつ北の脅威・劉武周が隋軍を妨害して進ませないと聞く。李淵は軍を太原に返すことを決意したが、李世民がそれを止めて諫める。「今義挙の師を起こしたのは民を救う志あってのこと、理に応ずならまず咸陽を取られるべし。先んじて天下に号令されたてとしも、それは今、小さなつまずきに過ぎず、軍を返して一城を守らんと欲するなら大事はまさに潰えますぞ!」しかし李淵は聞かず、李世民は軍門を前に哭く。李淵もまた鳴き、ついにまた召し入れて問う。李世民は答え、曰く「衆を返さんとするなら、敵将に虚を襲われることでしょう。我ら親子が必定、手を束ねて死を待つ運命に、悲しみで涙が止まらぬのです」李淵はここに至ってようやく悟り、嘆じて「左軍はすでに返してしまった、どうすれば良いか?」李世民曰く「左軍去ると言えども、まだ遠くには行っていないはずです。追いかけなさいませ」李淵答えて「事を起こしたのはお前である。成敗を決するのもお前であるべきだ。お前が追いかけなさい」李世民はすぐさま立ち上がって急ぎ追いかけ、軽騎を領して昼夜追走し、左軍に追いつく。翌日天晴れ上がり、食糧また至って、李淵遂に霍邑への進軍を改めて決する。隋将・宋老生は固守して出てこなかったが、李世民は数十騎を率いて城下に至り、鞭を掲げて麾下を指揮し、攻城の策を授ける。宋老生は忍耐続かず、城を出て指揮し、城を背にして陣を結ぶ。李淵と李建成は城東に陣を並べ、李世民は城南に陣する。宋老生が軍を率いて東の陣に攻撃をかけると、李淵は逼られてやや退く。李世民は機に乗じて軍を率い突撃し、宋老生の軍は両側からの攻撃に足並み乱れ、李世民はそこを李淵と前後挟撃、宋老生を破り陣没させた。李世民はまた夜に乗じて城を攻め、高らかに降る者は死を免ずと呼ばわり、ついにその城を下す。ついで臨汾を下し、絳郡を降し、しかるのち渡河して韓城を降し、馮翊を収める。李建成が嗣子に冊立され、劉文静らは永豊倉に軍を屯して潼関からの敵を拒み、河東を抑える。李世民は軍を率いて渭水に進み、また李淵と兵を会してともに二十万で長安を攻略する。李淵は煬帝の息子楊侑を帝位に就け、自らは大丞相として国制を掌握した。李世民は爵を進められて秦国公。
長安が略定が成ると、たちまち西秦の覇王・薛挙が自立して帝を称し、扶風を寇して長安を取らんと欲した。李世民は部衆を率いて出撃、大いに敵衆を破り、斬首万余を獲てついに隴右の地を攻略する。六一八年すなわち大業一四年春、李世民は右元帥を加えられ、十万の兵を帥いて、東都洛陽を攻略に向かったが勝てずして帰る。三王陵に埋伏し、隋将段達を破った。
六一八年五月、李淵は正式に即位して唐朝を建立、李世民には尚書令が授けられ、秦王に封ぜられる。六月、薛挙は李淵が長安で帝を称したと聞くや、兵を率いて涇州に攻め入ってきた。李世民は命を奉じて西討元帥となり、兵十万を率い、都を出て敵を拒む。幽州に至って李世民は疾病を患い、劉文静、殷開山らが代わって兵事を司るが、薛挙の前に高峨城で敗北を喫する。八月、李世民は病癒え、また進軍して高庶城に進む。互いににらみ合うこと六〇余日、そのうち薛挙が死に、息子薛仁杲が継いで出戦を求める。李世民は兵をなつけて動かず。薛仁杲は軍糧も将も尽き、衆将の離反を受け、その機に乗じた李世民は機は熟したとみてまず行軍総管の梁実に淺水原で拒戦させ、薛仁杲の驍将・宗羅嗷と終日激戦、支えるべからずして、李世民は諸将を率いて敵の後ろから突撃、奮闘して殺しまくり、大いに敵を破って斬首数千、余衆は逃げ去った。また自ら精兵数千を率い、徹底的に追い詰める。ただちに薛仁杲の居城庶城に逼り、後続の大軍がやってくるまで協力して城を取り囲む。薛仁杲は計極まり力尽き、開城して投降した。将士入賀し、李世民に尋ねて言うには「大王は一戦にして勝敗を決し、そのために歩兵を捨て、また攻城具もなしに城下に逼り、日を置かず即日平らげられました。敢えて問いまするが、これは何と比するべき奇功でありましょうや?」李世民答えて曰く「宗羅嗷は仁杲の主力である。部衆はすべて隴外の剽悍な兵であったが、私はその不意に出て彼を打ち破った。彼はあちこち潰走するが、しかし倒れるほどの傷ではない。私が緩やかに追えば、彼は城に入って堅守し、必然的に攻略は難しくなったろう。そこで勝ちに乗じて急追し、敵が城に帰れぬ前にたたきつぶしたのだ。当然に敗卒は隴外に逃げ散る。城の虚を折り、仁杲の肝を破れば、すなわち我必ず成功を獲る。」この言葉に諸将は皆感服した。李世民は上奏して京師に凱旋し、大廟に捷ちを献じ、右武侯大将軍、大尉、陝東大行台尚書令を拝命、蒲州を領し、河東の兵馬を司る。
六一九年すなわち唐の武徳二年、馬邑を占拠する劉武周が突厥の可汗と通じ合い、衆を率いて南進、楡次を破り、并州を陥とし、また宋金剛が長躯直撃して絵州を攻め、王行本が蒲州を占拠、夏県は背いて劉武周に応じ、高祖李淵は形勢厳重なるを見て河東を捨て黄河に拠って堅守すべしと主張したが、李世民は決然と反対した。曰く「太原は王業の基、国家の根本であります。河東の庶民は富んでおり、京邑の資金はすべてここに負うています。緊急とは言え、父上は軽々にそれを棄てようとなさるのですか、それは国家にとって考えるだに恐ろしいことであります。わたくしに精兵三万を給われば、出でて武周を討ち、汾、晋の混乱を鎮めて見せますものを」高祖はその議を容れ、関中の将士を悉く発した。李世民は人民を節制し、劉武周討伐に出た。命令を受けたのち、一一月、兵を導いて龍門に出、黄河を渡って越え、柏壁に至る。険要に据し、堅壁して戦わず、裨将に命じて小さいいくつかの部隊で敵営を掠奪させた。戦ってはすぐ退き、敵は退いてまた進む。敵将・宋金剛は殺気だって衆を率いて突撃し、李世民はただ命じて強弩を射て退け、時機の到来を待った。遂に年を越し、劉武周は出撃したが挫折、宋金剛の覇気も衰え、加えて食糧の備蓄がなくなり、北に逃げ帰った。李世民は勝勢いに乗じて追撃し、昼夜を問わず二〇〇里あまり追い続けた。将士は軍を止めて食糧を請うたが、李世民は許さず、飢えを忍んで疾駆し、雀鼠谷に至って敵軍をさらに追求、宋金剛は戦い且つ退き、連敗数度におよび、軍士尉遅敬徳、尋相らは介休において唐に降り、ただ宋金剛と残余の兵が北に逃れた。劉武周は宋金剛の敗北を聞くと、恐れて突厥に逃れた、その将楊伏念はついに并州を挙げて投降した。太原は平定され、李世民は詔を受けて軍を返し朝廷に還った。
六二〇年、唐の武徳三年八月、李世民は命を受け諸郡を督して東の王世充を討つ。軍は北邙に至り、営を連ねること数十里、徐々に前進して大いに王世充を破る。李世民は洛陽に逼るも、王世充は死守。李世民がしばしば攻めるも下せず、唐の将士は疲労して帰郷を思う。高祖李淵もまた李世民に軍を返すよう命じる。李世民は決然として帰らず、将士を諭して曰く「今大挙して敵前に来て、ここで一度の労苦を味わえば後は永久の逸楽が待つというもの。東方の諸州は誰に附くかと風見鶏の城多く、洛陽は孤城、であるのにまだ攻め落とせない。しかし私が見たところこれ以上そう長く持たせることはできないだろう、功名を後世に残すべきはまさしく今なのだ」并せて高祖に人を派遣し、上奏して自己の決意を述べ、大略を説いて「世充にはただ一城しかなく、知恵も力も尽き果てて、朝夕にもこれに攻め勝てるでしょう。今もし軍を返せば、賊の勢いまた振るい、また互いに連合してのちの大難となること必定であります」といって遂に洛陽攻囲を継続する。
このとき、河北の割拠勢力竇建徳が、王世充の一朝にも滅びんことを知り、そうなれば必ず唐軍は河北まで転戦してくるだろうと考え、遂に王世充の救援依頼を受諾する。六二一年唐の武徳四年、自ら十万の大軍を以て洛陽を救援する。唐軍はこの報せを聞き、主張足並み同一ならず。あるものは新安まで退いて勢力を保つべしと主張、また険に拠って自らを固め軍を分けて戦いに派遣すべしという主張や、一戦にして二敵を葬るべしというものもあった。李世民は果然として主張の一つを取り上げ、「竇建徳は今新たに孟海公を破り、将は驕慢になり将は惰落している。一戦もしなくとも、私が虎牢の喉もとを扼せば彼は険を冒してまで争いには来れるまい。我らは逸を以て労を待てば良く、そうと分かっていれば防御することも容易いのである。彼がもし進まず逗留するなら、旬月と出られずして世充は必ず潰える。我らは再び兵を合し軍を并せて、離れては建徳を滅ぼすべし。さもなくば敵は虎牢に入り、両敵力を合して我らと鉾を争うであろう。新たに附いた諸城、および将らに告ぐ、我が軍は旦に自らを固めることをしない、なぜならそれは絶対的に危険であるからだ」李世民は言い終えると、すぐさま兵を二軍に分けて、一路洛陽を囲んで巷戦はせぬよう言い含め、もう一路は自ら領し率いて虎牢に進駐し、その要塞を固守して竇建徳の退路を裁った。李世民はこのようにしてまず険に拠り、しかる後道を分けて伏兵を設ける。自ら尉遅敬徳とともに敵を誘い、敵を斬ること数百、その鋭鉾を挫く。しかる後領軍相対峙すること一月あまり、竇建徳は軍を率いて来攻すれども、李世民は少数部隊でこれをあしらい、防ぐ。主力は兵を擁したまま動かず。時中午に至って、竇建徳は諸将を招集し商議討論し、その兵卒は散坐して命を待つ。李世民はこれを見て、衆将を指揮指して曰く「敵の勢すでに解けた。急撃遅れるなかれ」衆将令を聞き、馬を踊らせ馳せ突撃し、勢いは凶風のごとく敵陣を席巻する。竇建徳の軍は瞬時に大壊した。李世民はその前に身を乗り出し、将士はみな感服して奮戦、追撃すること三〇余里におよび、斬首数千余急。竇建徳自身も負傷して擒われ、投降者は五万、散兵は数万を算え、十万の衆は完全に瓦解した。李世民は竇建徳を滅亡させた後、すぐさま洛陽にもどり、併せて囚車に竇建徳を載せて城下に至った。王世充は竇建徳が敗れ擒われたことを見て知り、遂に絶望し開城して投降した。ここにおいて大河以北は悉く唐の領土となり、七月、李世民は京師に凱旋、俘虜を太廟に献じた。高祖は李世民の功の高さに対して、天策上将軍の号を加え、位を王公の上に置いた。
六二二年武徳五年、高祖李淵は令を下して竇建徳の部将を長安に集めさせたが、竇建徳処刑の前にまた事が起こり、河北、山東で劉黒闥を首領に推戴した大勢力が決起した。李世民はまた命を受けて東に出征し、劉黒闥を討つ。まず相州で克ち、再び肥郷を下し、洛州にあって劉黒闥を大いに破る。さらに兗州に軍を移して徐圓朗を撃とうとしたが、思いがけず京師から軍に詔が降ったので軍を返し京師に帰った。李世民が兵を帰したのち劉黒闥は勢力を盛り返し、再度地盤固めに精励したが、高祖は今度は李建成を鎮圧に派遣、魏徴の謀により劉黒闥の部衆は解体され、山東、河北は平定された。
各地の割拠勢力が消滅したことで全国統一が実現されたが、のち、皇室内部での闘争が激化した。李世民の同母兄弟は四人、太子李建成、秦王李世民、李玄霸は夭折して、斉王李元吉の順である。李世民は太原挙兵の策謀者であり、長安侵攻の先鋒であり、群雄を平定し、全国統一の主帥として威望はなはだ高く、謀臣猛将に囲まれてその府は一個の堅牢な軍団であったから、長子李建成が未来の帝王の地位を威嚇されたのも無理はなかった。李建成は李淵を利用し李世民の威望実力が大きすぎるからといって秦王府の解体を提案、一方で自らの実力を拡大し、一方で秦王の勢力を瓦解させ、并せて斉王李元吉と連合し李世民を謀殺しようと企んだ。六二五年、武徳八年、李建成と李元吉は李淵が仁智宮に避暑に行った隙に乗じて兵変を発動し、李世民を亡き者にしようとしたが、ある人の告発により実現しなかった。翌六二六年六月、双方剣を抜き弩を張って対峙し、李世民は兵を率いて玄武門に入り、紆余曲折あって殺されそうになりながらも逆に李建成と李元吉を殺した。高祖李淵はこれを聞いて大いに驚き慌てたが、事ここに至っては李世民を太子にするほか無かった。軍国の大事はすべて秦王の功績である、と詔し、八月、李淵は李世民に正式に皇位を譲渡した。すなわち唐の太宗であり、翌年改元して貞観。
李世民即位後、隋末の紛乱まだ治まらず、人口は激減しており、土地は荒廃していた。貞観の初めは連年水害と日照りが続いて、人民は飢饉にあえいだ。太宗はこの状況を強固に安定させるため前代の――隋の樹立と覆滅の経験と教訓に学び、隋文帝の倹約家で簡素な生活ぶりを見習い、煬帝の斜視や暴虐を斥けて、やがて彼のもとに中原は回復と繁栄を謳歌して後世<貞観の治>と呼ばれる黄金時代が築かれる。彼は賢者を発掘して能く任じ、科挙制度を発展させ、魏徴、房玄齢、杜如晦等の名臣を起用し、地方の官吏に均田制を実行させ、租庸調法と府兵制度を発布し、水利を興し、経済を発展させて徭役を軽くし税を薄くし、質素倹約を奨励した。社会経済は非常な発展を見、社会矛盾もなくなりはしなかったが緩和された。唐の初期の新進の気風にあふれた政治のもと、大唐帝国は殷賑を極めた。
六三〇年こと貞観四年、李世民は大将軍・李靖に命じ、軍を率いて東突厥を討たしめてその領土に行政機構を建立させた。また鉄勒、回紇族らの首領から尊奉されて‘天可汗’と号される。李世民は晩年、国家はすでに定まったが、かつて連年用兵し、宮室を設営したため、それらに関しては事業を始めた当初のように慎重であった。六四九年病卒。在位二十三年、相対的に見て彼は偉大な人物であり、中華の傑出した政治家にして軍事家であった。
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