第28話 唐の李勣(り・せき。五九四-六六九)

 李勣、字を懋功、曹州離狐の人なり。本姓は徐、衛南に客す。家は富豪、多くの僮僕を従え、常に数千鐘の粟を積む。その父・徐蓋と皆に喜んで金貸し、遍く所、近親疎遠の間を給わらぬこと無し。


 隋の大業末年、韋城の翟譲が盗賊を為す。李勣時に十七歳、これに往きて随い、説いて曰く「公の郷は沃土にして自ら剽残す宜しからず、宋、鄭の商人旅をするに会し、御河の中にあり、船艦たがいに属し、互い迎えてこれを取れば、もって自らの資とすべし。」翟譲これを然りとす。かくて公私の船から材を取り、その由をもって兵大いに振るう。李密は亡命して雍丘にあり、李勣は浚儀王伯当とともに翟譲を説いて、李密を主に推し、奇計を以て王世充を破る。李密は李勣を右武侯大将軍、東海郡公となす。当時、河南、山東大水。隋帝は飢餓の民のため黎陽倉を解放するも、吏はこの命令を発さず、ために死者日に幾万人。李勣は李密に問いて曰く「天下の乱れの基は飢え、今もし黎陽を取って粟をもって兵を募れば、大事は済むなり」李密は麾下五千を李勣につけ、郝孝徳らと河を渡り、黎陽を襲って之を守る。倉を開いて食物を縦にすれば、十日とたたずして兵は二十万に及ぶ。宇文化及が兵を擁して北上すれば、李密は李勣を倉の守りに遣わし、李勣は遍く自分の周りに塹壕を掘る。宇文化及これを攻めるも、李勣は堅実に戦い、宇文化及を破って引き下がらせた。


武徳二年、李密は朝廷に還り、その地東に属する海、南に至る江、西に当る汝、北に当る魏郡、すべて李勣が統べるも、いまだ所属あらず。長史の郝孝徳は「人衆の国はみな魏公あってのものなり。もし我れ之を献じても、この利主にこれ敗北を為すの功、我羞じるところなり」すなわち録して郡県戸口をもって李密に啓き、自ずから上これを為すを請う。使い至り、高祖訝しんで表なし、使者もってその意を聞く。帝喜んで曰く「純臣なり」と。詔により黎州総管、莱国公。李姓を賜り、宗正の属籍に附す。また曹に封じ、給田五十頃、甲第一区。父徐蓋は済陰王に封ぜられたが、固く辞し、改めて舒国公。詔により李勣は總河南、山東の兵を以て王世充を拒む。李密謀によって叛き誅され、帝は遣使を遣わして李密の反状を示す。李勣は請うてその遺骸を葬り、これにより詔に随う。李勣は李密に衣服を着せ、葬祭を請うて許さる。


にわかに竇建徳の陥とすところとなり、その父を質とされるも、使いしてまた黎陽を護る。三年、自ら竇建徳を抜き父を帰(帰属)さす。秦王に随い東都を伐ち、戦って功あり。東の地を略して虎牢に至り、鄭州司兵沈悅を降す。竇建徳を平らげ、王世充を俘虜とし、振るって旅を還す。秦王は上将、李勣は下将、みな金の甲冑をまとい、戎車に乗って、廟に捷ちを告げる。徐蓋がまた洛州から裴矩とともに入朝し、詔により官を復す。


また龍黒闥、徐圓朗を破り、累遷して左監門大将軍。徐圓朗また叛き、李勣は河南大総督とされてこれを討ち平らぐ。趙郡王李孝恭が輔公拓を討つとき、李勣は歩卒一万を遣わして淮河を渡らせ、寿陽を抜き、江西の賊塞を攻め、馮恵亮、陳正通を相次いで潰滅させ、輔公拓を平らぐ。


太宗即位するや并州都督を拝し、実封九百戸を賜る。貞観三年、通漠道行軍総管として雲中から出、突厥と戦い、これを走らす。兵を率いて李靖と合し、曰く「頡利もし砂漠にあらば、九姓を保ち、果たして得るべからず。我もし約を齎してこれに薄れば、戦わずして慮を縛り上げん」李靖大いに悦び、もって己と合し、ここにおいて意を決す。李靖が衆を率いて夜発し、李勣は兵を勒してこれに従う。頡利は砂漠に逃げるを欲すも、李勣砂漠の口を扼し得られず。ここにおいて酋長諸部族五万、李勣に降る。詔により光禄大夫、行并州大都督府長史。父の喪が明けて哀しみを奪うや官に還り、封を遷されて英と。并州を収める事十六年、威厳粛をもって聞こえる。帝はかつて曰く「煬帝は辺境を守るに人を選ばず、国に長城を築いて虜の労あり。今我李勣を并守に用い、突厥敢えて南進せず、賢くして長城の遠きなり!」召して兵部尚書と為すも、未だ至らず。たまたま薛延陀の子大度設兵八万を以て李思摩を寇し、李勣は詔を受けて朔方道行軍総管とされ、軽騎六千を以て大設度を青山に撃つ。王一人を斬り、俘虜五万。功を持って一子を県公に封ぜらる。


晋王皇太子となるや、詹事、左衛卒、同中書門下三品を授かる。帝曰く「我が子の方位は東宮、公は旧き長史、宮の事を以て相委ねる。資屈するにもって嫌と為すなかれ」後帝は自ら高麗征伐に出征し、李勣は遼東道行軍大総管とされる。蓋牟、遼東、城崖などの城を抜き、駐譁山で戦い、功甚だ多く、一子を郡公に封ぜられる。薛延陀の部落乱れ、詔により二百騎でもって突厥に発し、烏徳?山に戦いこれを破り、その首領梯眞達干を下し、しかして可汗咄摩支が荒野に遁入したので漠北を定めて還る。改められて太常卿、同中書門下三品、詹事に復す。


李勣は既に忠力、帝の大事を托すを云うべし。かつて急病に懸り、医者が「すべからく灰を用いれば治るべし」と言うや帝自ら薬を立てて治療に当る。癒えるに及び、入朝して謝し、頓首流血。帝曰く「わが社稷の計を為す、なんぞ謝するべからず!」のち留めて宴し、顧みて曰く「思えば朕は幼かりし頃孤りにして、公の如きものなし。公は昔李密に仕えるも、あに朕と比べて如何?」李勣は感涙し、指を齧って血を流す。俄かに大酔し、帝は親しく衣を説いて布団をかぶせる。帝病となると、太子に曰く「汝は李勣に恩なし、今事あってこれ出る。我死ずば、よろしく僕射を授けよ、彼必ず力を致すであろう!」言って疊集都督を授ける。


高宗立つや、召されて檢校洛州刺史、洛陽宮留守を授け、進めて開府儀同三司、同中書門下として機密に参与させた。ついに尚書左僕射となす。永徽元年、僕射を解くを求め、帝これを聞く。すなわち開府儀同三司知政治。四年、冊立されて司空。はじめ太宗の時、李勣はすでに凌煙閣に図像を書かれるも、此処に至り帝はまた命じてその姿を図に象らせ、自叙となす。また詔によって子馬に載せ東より西に入らせ、卑官をもって一日歓迎さした。


帝は武昭儀を皇后と為すを欲し、畏れながらと大臣意義を申し、決せず。李義府、許敬宗また王皇后を廃すを欲す。帝は李勣と長孫無忌、于志寧、褚遂良らとこれを謀るも、李勣は病と称して至らず。帝曰く「皇后子なく、絶嗣の罪は大なり。まさにこれを廃さん」褚遂良らは皇后堅持すべきと説き、于志寧は答えず。帝はのちひそかに李勣を訪れ、曰く「まさに昭儀を立てる、しかして顧命の臣はみなべからずという。今やむるべきか!」李勣答えて曰く「これは陛下の家の事、すべからく外人に問うべからず」帝はついに意を定め、王皇后を廃し、詔により李勣、于志寧の奉冊により武氏を立てる。帝は東の泰山に封禅の太師を遣わす。使者は馬より落ち足に傷を負うも、帝は乗馬をこれに賜って気にする風なし。


高麗莫離支の男生がその弟の所に、子を遣わして師を乞う。詔により李勣は遼東道行軍大総管とされ、兵二万を率いてこれを討つ。その国を破り、高蔵、男建らをとらえ、その地州県を裂く。詔により俘虜を昭陵に献じ、先帝の意を明るくし、軍用をつぶさに廟に告げる。進められて太子太師、食邑一千百戸。


總章二年、卒。享年八十六。帝曰く「勣は上忠に奉じ、親孝につくし、三朝に歴事して、いまだかつて過ぎるなし。性は清廉にして産業を立てず、今亡くなってまさに貨殖(財産)なし。有司それを厚く撫恤す」よって涙を下す。光順門に悲哀挙がり、七日間朝政を見ず。太尉、揚州大都督を追贈し、貞武と諡す。秘器を賜り、昭陵に倍葬。陰山、鉄山、烏徳?山を象り、旌旗を立てて功を烈した。葬日、帝と皇太子は未央の古城に御幸するも、哭送し、百官城の西北に故送をなす。


はじめ、李勣は黎陽倉を抜き、飢者を救い、高季輔、杜正倫を往客とすると、虎牢を平らげ、戴冑を捕え、みな臥内に引見して、これに礼を推し、世に李勣を知る人を以てみな名臣と称す。洛陽を平らげ、単雄信を得ると、旧知ゆえに、その材武を表し、且つ云う「もし死を免ぜば、必ず報いるを以てあり、我が官爵を以て購うを請う」なれど許されず。すなわち慟哭し、その股肉を喰らいて曰く「生死永別、なれどこの肉はともに地に帰すべし!」その子を引き取って養育す。性友愛にして、姉が病となるや自ら粥を作って食さす。姉が戒め制さんとするも、答えて「姉上は多疾、しかして勣はかつ老い、欲されても粥を進める程のことしか出来ねど、なおどれほどか?」


その用兵は多く謀って算し、敵を料って応変、みな事機を契る。聞く人は能く手を打って讃嘆し、戦勝に及んで、必ず功を推して下す。金帛を得ても士卒に散じ、わたくしに蓄え無し。しかるに法は厳然、故人これを用いるを為す。臨時に将を選ぶは、必ず相貌奇偉にして多福なるものを遣わし、有る問いに答えて曰く「薄命の人、成功に足らずや」と。既に没して、士みな涙流さざるなし。


自ら病となって帝及び皇太子が薬を作り、家に医者と巫を呼ぼうとするも、許さず。諸子堅く薬を進めるも、しきりに謂うに「吾山東の田夫のみ。位は三公となり、歳は八十を超え、これ命に有らずや! 生死は天のかかわるところ、むしろ医者に活を求めるや?」弟・李弼、はじめ晋州刺史。李勣の病を以て召され司衛卿、使省視。忽然と語って曰く「吾わずかに安寧に似る。酒と薬を相置くべし」ここにおいて奏楽し宴し飲んで、子孫下に並ぶ。まさに罷め、李弼に謂いて曰く「我即ち死す、有言を欲さば、ことごとく悲哭を得られんのゆえにの一訣のみ! 我見る所房玄齢、杜如晦、高季輔はみな辛苦して門戸に立とうが、また望むはその後、悉く不肖敗れる之の子のみ、我が子孫を今汝に附ける、汝謹んで察すべし、不厲の言行あり、悲類の交わりあらば、急ぎ立札に聞くを以てこれを殺せ。後人の笑吾なかるべく、なお房、杜の笑いなかるべし。我死せば、布装露車の霊柩に載せ、服は常服、加えて朝服をその中に置き、党死知るあらば、庶著かく奉りて先帝に見みえよ。名器これ五六の寓馬、帳の下に蔓延。黒頂白紗の裙は多勢の人形の中に列し、もって従うを得ず。願わくば衆妾に養子の者を聴くを留め、余りをこれに出さん。葬儀済めば我が堂を居宅とし、善く看待を加えること無かれ、我が言をたがえることなく、同じく尸を戮せ!」すなわちまた語ること無し。李弼らその遺命に遵(したが)う。李勣の名、もとは二名の世勣、高宗の時、太宗の偏諱を避けて単名の勣と変える。のち、高宗の廟庭に配享。

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