第27話 唐の李靖(り・せい。五七一-六四九)

 李靖、字は薬師、京兆三原の人。姿貌雄偉にして書史に通ず。かつて親しきに謂うところ「ますらおになるにはまさに功名を以て富貴を取るべし、なんぞ章句を作って儒者とならんや!」と。その伯父韓擒虎は李靖とことごとに兵を論じ、しきりに嘆じて曰く「これと孫呉を語るべきもの、この人に非ずれば誰あらんや!」と云う。隋に仕えて殿内直長となり、吏部尚書・牛弘これを見て曰く「王佐の才なり!」と讃え、左僕射・楊素は自分の椅子を叩いて曰く「卿は終にここに座らん!」と絶賛した。


 大業末、馬邑丞。高祖が突厥を撃ち、李靖はそれに非常の志ありと察し、上に急変を告げんとするも囚われる。江都に伝送される途上、長安で道を妨げられる。高祖は既に京師を定め、正にこれを斬らんとす。李靖は叫び「公が起兵したのは訛可の暴乱を除くために在らんや、大事を為さんと欲するに、私怨を以て義士を殺すか?」秦王(李世民)これを聞いて除命を請い、許されるを得て、引き立てられ三衛。王世充平定に従軍し、功を以て開府。


 簫銑、江陵に拠し、詔により李靖にこれを安んじ平らげよと。数童を従え金州に騎道す。たまたま蛮賊・鄧世落の兵数万が山間に屯し、廬江王・李援これを討って勝てず。李靖は李援のために謀ってこれを討ち斥ける。進んで峡州に至り、簫銑の兵阻んで前を得ず。帝は逗留を云い、詔により都督許紹に李靖を斬らすが、許紹請うてこれを免ず。開州の蛮賊冉肇則が虁州を寇し、趙郡王李孝恭戦って未だ利あらず、李靖は八百を率いてその屯を破り、険要に埋伏し、冉肇則を斬って俘虜五千。帝左右に云いて曰く「使いの功は過ぎるに如く、李靖果たして然り」そこで手勅をもって労って曰く「既に往くは咎めず、向事吾久しくこれを忘れる」李靖は簫銑を図る策十策を陳べ、詔により行軍総管、兼李孝恭の行軍長史として軍政を一手に委ねらる。


 武徳四年八月、虁州で大閲兵。時に秋、惡気漲って怒涛を為す。李靖は以て未だ簫銑を降す能わず、設備もならず。諸将江を平らげに進むを請う。李靖曰く「兵機の事、神となすのは速なり。今、衆の集まり始めるを簫銑は知るに及ばず。若し水に乗じて塁を伝えば、これ霆を震わして耳を塞ぐに及ばす。有能の倉卒、兵を召しせば、我を禦ぐ手はもって無し。これ必ず禽えるなり。」李孝恭これに従う。


 九月、水師夷陵を叩き、簫銑の将・文士弘卒数万を以て清江に屯す。李孝恭これを討つを欲すも、李靖曰く「べからず。士弘は健将、その下は皆勇士、今新たに荊門を失い、鋭鋒悉く我を拒んで、これ救敗の師、当たるべからず。よろしく南岸に駐し、その気の衰えるを待ってこれを取らん」李孝恭これを聞かず、李靖を屯守に留めて自らこれと戦い、大敗して還る。賊は舟を散掠し、李靖その乱を見て、ほしいままに兵を撃ちこれを破り、船四百余艘を取り、溺死者万人。すなわち軽兵五千を率いてもって先鋒となし、江陵に趨り、城営に逼る。その将楊君茂、鄭文秀を破り、甲士四千を俘虜とする。李孝恭の軍これに継ぎ、簫銑大いに懼れ、江南の兵に檄を飛ばすも及ばず、翌日降る。李靖はその都に入り、號令厳粛、軍は秋毫もわたくしにすることなし。あるものが李靖に簫銑の軍の降ったものから資を奪い軍の賞とすべしというも、李靖は「王者の兵、人を弔うも取るは有罪なり。彼は脅躯(盤踞)以来、籍(代々の国)を以て師を拒み、もとより情の欠けるところなし。これに比べて反逆は容れざるなり。今新たに荊、郢を定めたからには、よろしく寛大を示し、その心をもって慰撫すべし、もし降りしかしてこれを籍とすれば、おそらく荊より南、堅城劇屯、駆してこれを死守す。計の善にあらざるなり」といって籍に止めず。これより江、漢城を列して下るを争う。功を以て永康県公、檢校荊州刺史。すなわち嶺から桂州に至り、分道招き慰撫する。酋長・馮盎らみな子弟を以て来謁し、南方ことごとく平らぐ。裁量款效、承制補官。得る郡凡て九十六、戸は六十万余。詔により勉励を労われ、嶺南慰撫太使、檢校桂州総管を授かる。嶺海辺遠をもって久しく徳を見ず、武威に震える事非ざるを、礼儀を示し、すなわちもって風変わりなし。すなわち兵を率いて南へ巡り、過ぎる所疾苦を問い、長老と引きあって天子の恩威を宣布し、遠近ことごとく服さす。


輔公拓丹陽に拠して叛き、詔により李孝恭を師とし、李靖は入朝して方略を受け、李孝恭の副として東を撃ち、李世勣ら七総管みなその節度下に置かれる。輔公拓は馮恵亮をつかわし以て水師三万で当塗に屯し、陳正通を歩騎二万で青林に屯させ、自らは梁山にあって連鎖でもって江道を断つ。月城を築き、延々続くこと十余里、掎角を為す。諸将議して曰く「彼は強兵を柵で連ね、正にわが師は戦わずして労す。もし直ぐ丹陽を取り、その巣窟を空とすれば、恵亮に自ずと降る」対して李靖曰く「然らず。二軍精強と雖も、しかして公拓の率いる所また鋭卒なり。すでに石頭を保ち、すなわち牢して未だ抜かざるべし。我留まるに志を得ず、退けば忌まれるところあり、背腹に欺瞞の患いを受けるは、百全の刑にあらず。かつ恵亮、正通は百戦余の賊、野闘に怯えること非ず、今こそ慎重に、特に公拓を禽う計を立てるべし。もし不意に出てその城を挑み攻めれば、これ必ず破れん。恵亮を抜かば、公拓を禽うなり」李孝恭これを聞く。李靖は黄君漢らを率いて水陸両進し、苦戦するも殺傷万余、馮恵亮ら陣没。李靖は将に軽兵を以て丹陽に至り、輔公拓畏れる。衆なお多くあるも、よく戦わず、すなわち出て逃げ、これを禽えて江南平らぐ。東南道行臺を置き、もって行臺兵部尚書。賜物千段、奴婢百人、馬百頭。行臺が廃されるや、檢校揚州大都督府長史。帝は嘆じて曰く「靖はすなわち銑、公拓の手の届かざるを破る。古の韓、白、衛、霍、彼と比べるに何をもってするか!」


 八年、突厥が太原を犯し、行軍総管として江淮の兵万人を以て太谷に屯す。時に諸将多く破れ、一人李靖のみ軍を全うして還る。にわかに檢校安州大都督。太宗践祚するや、刑部尚書を授かり、禄功により実封四百戸、兼檢校中書令。突厥の部が畔を離れ、帝国に方図進取すると、兵部尚書を以て定襄道行軍総管となり、勁騎(精強な騎兵)三千騎を率いて馬邑から悪陽嶺に趨る。頡利可汗大いに驚いて「兵は傾国に来るあらず、靖敢えて孤軍を引っ提げてここに至るや?」ここにおいて帳部しばしば恐れる。李靖は患者を縦横に放ってその腹心を熟執し、夜定襄を襲ってこれを破る。可汗身を脱して砂漠に遁がれ、李靖は進められて代国公。帝曰く「李陵は歩卒五千を以て砂漠に絶し、しかるに匈奴に降って、その功なお竹帛に書さる。靖は騎兵三千を以て擒の庭を蹂躙し、ついに定襄を取る、古より未だ有輩あらず、吾が渭水の恥を雪ぐに足る!」


 吉利は走って鉄山を保ち、使者を遣わして謝罪し、国を挙げて内に附くことを請う。李靖は定襄道総管としてこれを迎え、また鴻臚卿・唐険を遣わし、将軍安脩仁を慰撫する。李靖は副将張公謹に謂いて曰く「詔により使い至らば、虜必ず自ずから安ず。万騎に二十日の糧なれども、白道これを襲う。必ずその所を得るべし」公謹曰く「上已にこれの降るを約し、使者彼方に在り。如何?」李靖曰く「機会失すべからず、韓信が斉を破りし処なり。唐倹の如き輩、なんぞ惜しむに足るや!」兵を督して疾進し、偵察の網をはりめぐらせ、皆とらえてもって従わせ、その牙(王庭)七里を往くごとに確かめ、部衆を震潰させ、斬首万余、俘虜の男女十万、頡利可汗の息子畳羅施を擒え、義成公主を殺し、頡利可汗は逃亡したが大同道行軍総管・張宝相に擒われてもって献ぜらる。ここにおいて陰山から北の大砂漠に至るまでが開拓され、帝は因って天下に大赦を行い、民に五日の酒宴を賜る。


 御史大夫・蕭瑀が李靖の軍に規律なく、士卒が縦に大掠を行い、貴宝を散失させたと弾劾す。帝は召してこれを責めたが、李靖は弁ずるところなく、頓首して謝する。帝は改めて曰く「隋の史萬歳は達頭可汗を破りながら、賞せられず誅された。朕は然にあらず。公の罪を赦し、公の功を録す」といって左光禄大夫に進め、絹千匹を賜り、増戸して五百戸とした。さらに曰く「向人(小人)公の短を中傷す、朕いまそれを悟る」加えて帛二千匹を賜り、遷して尚書右僕射。


 李靖はことごと議に参与し、善言を吐くに恐れず、沈厚をもって称された。時に遣使が十六道の風俗を巡察すると、李靖は畿内道大使とされた。たまたま足に疾病をかかえ、懇ろ致仕を請うも、帝は中書侍郎岑文本を遣わし諭旨して曰く「古より富貴にして智慧を止むもの蓋し少なし、病頓憊といえども、なお力もて進まん。今、公が引くは大礼にして、朕深くこれを嘉すも、公の美名を成すを欲す。これ一代の法なり、聴かざるは許さず」といってついに致仕を斥け、すなわち檢校特進を授け、すぐさま賜物千段、乗馬二頭を与え、祿賜、国官、府佐みな廃すなかれとした。病僅かに和らぐを聞くや、三日と置かずして門下中書平章政治を授かる。加えて霊寿杖を賜る。


 このころ、吐谷渾来寇。帝は侍臣に謂いて曰く「靖能く復帰して師をなさんや?」李靖は房玄齢と見えて曰く「吾老いたりと雖も、なお一行に堪ゆ」帝喜び、もって李靖を西海道行軍大総管となし、任城王李道宗、侯君集、李大亮、李道彦、高瓶生の五総管の兵をみなこれに属す。軍はまず伏俟城に屯し、吐谷渾を悉く火で葬り、退いて大非川に。諸将議し、春草芽吹かぬうちは馬弱く戦うべからずと。李靖は策を決すと深入りし、遂に積石山を踏む。大いに戦うこと数十、殺獲甚だ多く、その国を残し、国人の多くを降す。吐谷渾の伏允、憂い縮こまり自ら縊死す。李靖はさらに大寧王・慕容順を立てて還る。高瓶生の軍は塩澤道の後方より進まず、ゆえに李靖はこれに薄り責める。帰り遺恨を残し、広州長史・唐奉義が李靖謀叛を告げるも、有司按験の状なく、高瓶生らの誣告によるものと察せられる。李靖は門を閉ざして自ら守り、賓客親戚を遣わして帝に一謝させ、改めて衛国公。その妻が没すと衛青、霍去病の故事に基づいて詔により墳墓が造られ、鉄山、積石山を象られ、旗を以てその功を讃えられる。進められて開府儀同三司。


 帝はまさに遼を撃つにあたり、李靖を召し入れて「公は南に呉を平らげ、北に突厥を破り、西に吐谷渾を定めた。ただ高麗未だ服さず、また意あらんか?」答えて曰く「往時は天威が尽き、尺寸の功を立てるを得る。今病衰えると雖も、陛下誠にこれを棄てず、病かつやわらぐ」帝はその老いを不憫に思うも、休退を許さず。二十三年、病甚だしくなり、帝はその邸第に御幸して涙を流し、曰く「公は朕の一生の師であり、国において功労あり。今病にしてかくなり、公を憂いてこれを為す」薨る。享年七十九、司徒、并州都督、儀仗兵、羽葆(羽を綴った装飾の華蓋)、鼓吹隊を追贈され、昭陵に倍葬された。諡は景武。

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