第26話 カルタゴのハンニバル(247-182 B.C)

共和制ローマを恐れさせた“戦術の父”

古代ローマ最強の敵は死の文化の中で育った。ポエニ戦争の英雄ハンニバル・バルカ。その名前はフェニキア語で「慈悲深い主」を意味し、供犠に子供の命を要求する古代カナーン人の神バアルの信者・崇拝者として育てられた。


7歳のとき、ハンニバルは犠牲の火の穴の端に立ち、両親が幼い兄弟を司祭に引き渡すのを目撃した。司祭という名の屠殺者は腕を上げ、青銅の偶像の前で彼を抱きしめると、子供の喉を切り裂いた。迅速な死を引き起こした子供の身体を、像の伸びた手に安置した。


ハンニバルの父ハミルカルは第一次ポエニ戦争の傭兵指揮官であり政治指導者であり、イベリア半島方面における立役者であった。彼は紀元前814年頃に創設されたフェニキアの闇に根付く秘密結社、その習慣と習俗のままに子供を育てた。バアル崇拝は1000年前、カナーン人が古代イスラエル人を虐殺したころと変わらぬままに残虐であった。それは青銅器時代末期の水準で考えても恐ろしく忌まわしいものだった。旧約聖書には神がイスラエルの民にバアル信者をことごとく根絶やしにするよう命じるくだりがあるが、しかし彼らが根絶やしにされることはなく、この習俗はハンニバルが死ぬその時期まで営々と続き、繁栄した。


 クレイタルコスは前3世紀、カルタゴ人は神の好意のために最低でも一人の子供を生け贄に捧げると書いているし、プルタルコスによれば子供のない夫婦は貧しい家族から子供を買って、それでもって生け贄にしたと言及している。古代ローマ人もギリシァ人も、この習慣をひとしく野蛮と呼び慣らして嫌悪した。彼らにとって、バアルの信者とその社会とは征服され、必要に応じて破壊されるに値する十分な論拠であるととみなした。


 しかしながら、ローマの隣人イベリアとゴウル(ガリア)とは異なり、カルタゴを征服する事業は簡単なことではなかった。世界史上屈指の天才的戦術家家・ハンニバルの指揮下、彼らは共和制ローマに最大の驚異を突きつけた。


 ハンニバルが成人したのは地中海世界のパワーバランスが海洋覇権をかけて危急を告げた、ちょうどその頃だった。カルタゴはローマ、シラクサ、そしてアレクサンドロス大王の後嗣を狙う私生児たち……マケドニア、セレウコス朝、プトレマイオス朝エジプトなどと競合した。彼は間違いなくカルタゴを古代世界一の覇権国家とするだけの知恵と才覚、そして不退転の決意をもっていたし、彼がなした初期の軍事的勝利、特にカンナエの戦いで、それは確定づけられたかのようにも見えた。しかし戦場における彼のすべての成功はかえってかれを他の地中海覇権請求者たちから恐れさせ、そのためにハンニバルが最終的な勝利を得ることはできなかった。これは主に短期決戦における成功にもかかわらず、第2次ポエニ戦争の長期戦を押し切ることができなかったことにも起因する。


さらに、彼はすべての壮大な戦略のためにこれらの軍事的勝利を政治的資本に変換したが、政治かとして彼の側にカルタゴ貴族の支持を得ることができず、そのため政治家として失敗した。


にもかかわらず、彼の戦略は非常に斬新、革新的だったので、彼は頻繁に古代の最大の将軍と命名されている。戦術家というパンテオンの中で彼はアレキサンドロス大王と同等であり、スキピオ・アフリカヌス、ジュリアス・シーザー、 そしてエピロスのピュロスらを従える。彼はナポレオン・ボナパルトのような現代の戦略家の守護聖人とすら見なされているが、ハンニバルの戦術的遺産はまた、現在に残る偏ったソースのために取り返しがつかないほど歪んでいるのもまた、事実である。


彼は第三次ポエニ戦争とローマのカルタゴ破壊まで生き延びることがなかった。彼の同胞は誰も彼の人生について書き残すこともなく、擁護することも弁護することもなかった。彼の軍事的光輝について賛歌を作ることもなかった。残されたのはローマの年代記作家による記録であり、主として彼はローマ文明の破壊者として描かれる。その結果として彼らは考えられる限り最もネガティブな手法でハンニバルの人生や言行を書いた。彼に言及している年代記作家は37人にのぼるが、一人を除いて彼に肯定的な者はいない。しかし彼らは、ハンニバルの最終的敗北、これがローマの絶頂を演出したことを強調するためにも、ハンニバルが外人でありながらも軍事的天才であることを認めないわけには行かなかった。


 ハンニバルは前247年に生まれる。彼の父ハミルカルは前述の通りローマとの第1次ポエニ戦争末期のカルタゴの英雄であり、ハミルカルはシチリアがローマに屈服したとき、戦争を終わらせ、和平交渉を締結させた。長らく休養することのなかった彼はすぐにまたカルタゴの陰惨な財政難を救うべく、イベリア(スペイン)半島経営に着手した。


 まずハミルカルはイベリア半島の諸部族を征服したが、これはたやすく成就できるような事業ではなかった。カルタゴ海軍はローマとの戦後処理で拘留されていたので、彼は大規模な軍隊をイベリアまでもっていくこともできなかった。かれらはヘラクレスの柱まで行進し、ジブラルタル海峡からヨーロッパに渡った。


 彼はこの作戦に幼いハンニバルを随行させた。このときハンニバルは「決してローマの友になることはない」という誓いを立てたのだという。本国カルタゴは緊張状態にあり、それは彼らの奉職に十分な手当を受け取っていない傭兵たちの蜂起を鎮めるのに腐心していたからである。このカルタゴの政局不安に乗じてローマはコルシカ島とサルディニヤ島を占領、その戦略眼目は敵を犠牲にして領土拡大することにあり、いっさいの容赦がなかった。


 そのおり、ハミルカルは前229、ヒスパニアの征服中に落馬して溺死、彼に代わって後継者となったのは娘婿のハスドルバルで、侵略より政略と謀略を好む人物ではあったが秀逸な人材であった。彼はカルタゴのイベリア保有をローマに認めさせ、ローマが南に越境しない限りはこちらもエブロ川を越えて北上することはないと約束、条約に調印した。


しかし、条約は単なる休戦協定に過ぎなかった。ハスドルバルは、ヨーロッパ大陸における彼の支持層を強化し、ローマを攻撃するための大規模な軍隊を上げるために舞台裏で静かに働いた。彼はハンニバルとイベリア王女イミルチェとの間の結婚を手配した。彼自身は鋭敏な戦略家であり、ハンニバルが数年後に実行するであろうイタリアへの陸上作戦を周到に準備した。しかし、彼は前221に暗殺され、その計画はどれも実現しなかった。ハミルカルの死を受けて、ハンニバルは26歳で彼の後継者に任命された。


若き最高司令官はすぐに父親の積極的な軍事的アプローチにたち戻った。彼は軍事要塞と駐屯地の占領を通じてヒスパニアの征服を完了、これによって、後生戦史上に名を残す巨大な作戦行動を開始した。


最初の作戦で彼はオルケード族の中心都市、アリティアを襲撃した。その後ヘルマンティス族と結んでアルブカラのヴァッカエイ族の拠点を占領し、彼の軍隊の精強と成長力を恐れたローマはエブロ川の南、サグントゥム市と同盟を結んだ。


ハンニバルはこれを、第一次ポエニ戦争後に締結された条約に抵触するととらえ、サグントゥムを攻囲、イタリアに目を転じる前にまずサグントゥムを落とす算段であったが、これに8ヶ月を要してしまう。ローマ人のがわでもハンニバルの攻撃を条約違反ととり、彼に捕虜の引き渡しを求めると同時にハンニバルの身柄を要求したが、ハンニバルは強制送還、拷問、そして死の運命を受け入れるつもりなど毛頭なかった。かれはバルカ家の実権を握り、弟ハスドルバルを司令官に任じて戦争を継続した。


 彼はエブロ川を渡った。ローマとの第2次ポエニ戦争の開始である。ハンニバルはヒスパニアとゴウルを通って、イタリア中部に戦場を策定することを望んだ。彼の敵はハンニバルが小都市国家群の打撃によって簡単に挫敗することを期待し、この時点で彼らは過去に経験も想像もしなかった戦術と、遠大な消耗戦を強いられる長い長い戦いについて、誰も予見することがなかった。


彼が最初に決定された戦略の一つは敵の最強を打つことをしないということで、よってローマがシチリアのカルタゴ軍を叩く準備をしているのを横目に、ハンニバルは第1次ポエニ戦争の轍を踏まぬよう敵の不意を突くことに努めた。彼は不安定な高地を乗り越え、アルプス北の山岳地帯からイタリア内陸を衝くという戦略を決意し、準備した。


彼は前218年にカルタゴを出発し、38000の歩兵、8000頭の騎兵、37頭のゾウを率いてピレネー山脈を横断した。降雪にもかかわらずハンニバルの巨大な軍隊は素早く移動し、ゾウをローヌ川を渡って輸送、アルプスを越えた。それは、寒さ、飢餓、あるいは封鎖された通路にという攻撃に満ちた、非常に危険な作戦であった。イタリアに入ったハンニバルの軍のうち、生き延びたのは半分だけだった。にもかかわらずリヴィウスは、難題に直面した彼が創意工夫で山越えを達成したと書きたてている。ローマ人の話によると、彼は落石を突破するために酢と火を使った。ローマ人は彼を止めるためにゴウルを越えてまで措置を取ることができなかったので、ハンニバルの賭けは最終的に報われた。ハンニバルは、彼の進路に沿ってゴウル人の首長からの支援を確保し、イタリア攻撃の準備を進めた。


ローマ執政官プブリウス・コルネリウス・スキピオはハンニバルを迎撃するために派遣されたが、彼の上官は誤ってハンニバルはイベリア経由でヨーロッパに入ると仮定した。スキピオは山々の様子から察して、ガリアからわずかに離れた地点でハンニバルを捕捉した。彼らの衝突はティチニウスのトレビアで行われ、ハンニバルは彼の優れた騎兵部隊を使って決定的な勝利を収めた。戦いの結果はローマ人にとって壊滅的であった:スキピオは負傷し、彼らはロンバルディア平原を放棄しなければならなかった。近年共和制ローマに接収された州のゴウル人とリグリア人はハンニバルの新興ヨーロッパ国家に忠誠を誓い、彼の部隊の枯渇を癒やしてその精強を強化した。


ローマはティベリウス・センプロニウス・ロンゴス率いる部隊に対し、シチリアから軍隊を連れ戻してプブリウス・コルネリウス・スキピオの息子であるスキピオ・アフリカヌスの軍隊と合流し、ハンニバルと対戦するよう命じた。ハンニバルはセンプロニウスとスキピオの軍隊の団結を阻止できなかったが、将軍の攻撃方法の不一致を利用することができた。センプロニウスはより経験豊富なスキピオに対し上官として指揮を執ったが、ハンニバルはそこに乗じて攻撃した。彼はひそかに弟・マゴ率いる2000人の兵士を送り、その後、彼は次日の攻撃に備えて軍を組織した。


その後何度も何度も採用することになる戦術だが、彼は敵が自軍の地点Aを攻撃することを知ると最強の軍隊を側翼に置いた。夜明けが到着し、彼は攻撃してくるローマ人を誘いだすために小規模の騎兵部隊を放った。ローマ兵がその餌を食らったとき、すでに彼は準備を完了している。ローマ人は騎兵隊に囲まれた標準的な3列形成を使用するが、やがてローマの弱い側翼が失速する。その時点でマゴの伏兵部隊が襲い、攻撃し、押しつぶし、そこに加えてハンニバルが猛襲する。この戦いで、ローマは2万人もの兵を失ったと推定されている。


トレビアでの敗北の後、ローマ人はハンニバルに挑戦する新しい指揮官を得た。ガイウス・フラミニウスはセンプロニウスに取って代わった。イタリア中部の湿地帯を難儀して横断した後、彼は前217の春、エトルリアに到着した。


ハンニバルも田舎を暴れ、ローマ人を新たな戦いに誘い込もうとして近隣住民にプレッシャーをかけた。ハンニバルはフラミニウスの受動性に対する人々の避難と不人気が奏功することを期待した。フラミニウスがハンニバルと関わることを徹底的に拒否したので、ハンニバルはローマの兵站線を遮断する策に出た。この時点で、ローマ元老院はフラミニウスに行動を要求した。フラミニウスは、ハンニバルが待ち伏せのために軍隊を立てたトラシメネス湖の近くで戦いの準備をした。狭い峡谷は、湖の近くの小さな平原への唯一の進路だった。ハンニバルは軽歩兵を隠しながら、攻撃するローマ人を誘惑し、切り札の重い歩兵を配置するために峡谷の近くの敵に彼の軍隊を見せびらかした。さらに彼はローマの隠れ家を迎撃するために彼の騎兵と追加の軍隊を配置した。ローマ人をさらに混乱させるために、彼は占領されていないトゥオロヒルズで野営地に火をかけた。フラミニウスはグナエウス・セルビリウス・ゲミヌス指揮する軍隊が彼の軍に加わる前に攻撃する準備を整え、戦場に到着した。


彼の焦りは正当に報われた。ハンニバルは、フラミニウスの前線部隊を主要軍から分裂させる小さな力で攻撃し、丘の中で待っていた彼の軍隊で彼らを攻撃した。ローマ人は勇敢に戦ったが、効果的な反撃を仕掛けることができなかった。彼らの最西端の軍隊は湖に強制され、歩兵の大半は敗北し、残りは後退した。25000人のローマ兵の半数以上が殺害された。迂回しつつ相手の左翼を叩いたハンニバルの作戦は、軍事史上初めて記録された旋回運動となった。フラミニウスは殺され、パルティニア人との間のカルヘの戦いまで、ローマの軍事史上最悪の待ち伏せ敗北となった。


この悲惨な敗北の後、ローマはついにカルタゴ将軍の脅威を真剣に受け止め始めるに至る。ハンニバルのローマ進出を妨げる唯一の力として、元老院はイタリア半島でハンニバルの攻勢に対抗するために、完全な執行権限を持つ独裁執政官としてクインタス・ファビウス・マクシムスを任命した。

ファビウス自身は抜け目のない戦術家であり、強力なカルタゴ軍に対する直接的な軍事攻撃よりも狡猾さを好んだ。彼は相手の2つの主要な弱点を利用する戦略を作った。まず、ハンニバルはカルタゴからイタリアへの供給ラインが弱い。補給のうち、武器、衣類、包囲装備、およびその他の重要な条項のほとんどはにローマの敵(おもにゴウル人、ヒスパニア人)の支援に依存していた。第二に、彼の軍隊は主にカルタゴを愛するよりもローマを憎んでいたゴウルとスペインからの傭兵で構成されていたので、彼らは直接戦闘には適していたが、忍耐と、そして彼らに欠けていた装備を必要とする長い包囲には不向きであった。ファビウスはこれら2つの欠点を利用した。彼はカルタゴ人に直接関ることを拒否し、彼を消耗戦争に追い込んだ。


将軍ファビウスはハンニバルにの餌として対して適度で小規模な分遣隊を送り出したが、直接の殴り合いで彼に直面したことはなかった。かわりに彼はハンニバルの近くにいくつかのローマ軍を派遣し、彼の動きを制限した。ファビウスはハンニバルをイタリアの丘陵地帯に導き、騎兵隊の優位性を無効にした。ローマ市民はカルタゴ軍から物資や略奪を奪うように指示された。


この長引く戦争の中で、ハンニバルはイタリアの南東の角まで行軍を続け、町を攻撃し、供給ラインを遮断し、カンナエの補給拠点の支配権を得た。彼はプーリャを叩いて荒廃させ、サムニウンとカンパニアの豊かで肥沃な州を行進したが、彼の失望することに、彼はローマ軍に対して激しい打撃を与えることができなかった。ファビウスの戦略は当初成功したが、その戦略は消極的、臆病としてローマ人から非難を浴びた。


古い元老院議員はこの作戦を支持したが、将校や兵士はファビウスの戦略を戦場で直接敵を粉砕する軍隊にはなりえないと考えた。それはカルタゴから勝利を奪い、その力を薄くひき伸ばしたが、戦略は最終的に軍隊からの支援の欠如のために失敗した。彼らはハンニバルがイタリアで無双し、無敵に略奪したと激怒した。


ファビウスの政治的敵であるマルクス・ ミヌウス ・ルーファスは、「同盟国が焼かれ、その財産が焼かれるのを、楽しめる光景として見るためにここに来たのか、ファビウスよ? 私たちが恥をかいて、なお動かないならば、私たちは市民のために存在するものではない。世界の、限界よりなお遠く離れていたカルタゴ人は、いまや私たちの非活動に乗じてここまできたのではないか?」といった。


前216年、元老院はファビウスをローマ領事ガイウス・テレンティウス・ヴァロとルキウス・アエミリウス・パウロスに置き換え、50000~80000人の巨大な軍隊を与えた。彼らはアウフィドゥス川沿いのカンナエの戦いのために準備した。彼らの作戦計画は騎兵横隊に対して、中央に強く、狭く間を詰めた歩兵で攻撃することだった。ハンニバルは経験豊富な歩兵と騎兵を横隊にして、軽歩兵で彼の軍隊を策定した。


戦闘が始まる。カルタゴ軍は前進し、三日月のような湾刀でローマ軍を押し戻した。左側翼の騎兵隊は素早く敵を封じ、ローマ人の後方を襲って右サイドの友軍を助けた。ハンニバルはその後、外側の兵士が戦場を保持している間に、彼自身の中央歩兵をゆっくり偽装退却させつつ敵を包囲させ。彼の命令に応じて、横隊の騎兵が一挙前進した。この作戦は、二重包囲殲滅作戦として知られており、ほとんどの軍事史家によってハンニバルによる軍事史上の傑作と考えられている。


包囲殲滅、それは、開いた地形において、劣った力が優れた力を倒すための方法である。より少ない軍隊はまず敵側翼を攻撃し、敵の力を分散させる。大きな側の軍隊は分散されまいと、壊乱を防ぐために側翼からの攻撃に過剰反応で反撃を加える。その隙を突いて歩兵は前進し、敵に一当たりしつつ側翼へ流れて包囲を完成し、包囲と同時進行で横隊の騎兵隊が突撃を敢行して敵を粉砕する。言うは易し、しかし複雑な軍隊運用を展開するには十分な統率力と高度な訓練を受けた騎兵のふたつが不可欠であり、実行することはきわめて困難である。


さらに、司令官は、未知の風景から正常に二重包囲が演出する複雑な状況と結果、敵の混乱と驚きまでを予想できねばならず、また地形についても綿密緊密な知識が頭に入っていなくてはならない。これらの条件をふべて満たして、ハンニバルは包囲を成功させ、ローマ軍は覆滅されることになる。劣った兵力しか持たなかったカルタゴ軍は、ローマの主力をこの世から消滅させた。80000人中、実に50000人以上が殺戮され、5000人が捕虜となった。死者の中には3人の執政官と、ローマ元老院300人のうちの80人が含まれた。これは数字以上に大きな打撃をローマに与え、た。ローマはこの戦いを含む、この季節における4つの戦争によって、17才以上の男子人口の5分の1を失った。


ハンニバルの勝利により、多くのイタリアの都市国家はカルタゴに傾いた。しかし、これらの新しい家臣は、彼に十分な軍隊や補給を提供しなかった。当初から彼の作戦運動を悩ませていた「外国の土壌における不利な戦争」の問題は消えていなかった。ハンニバルは、捕獲に数ヶ月かかるであろう非常によく要塞化された都市、ローマに包囲を敷くだけの要素をまだ欠いていた。


ハンニバルはイタリア第二の都市、カプアを占拠したにもかかわらず、ローマを陥とす力がないというは真実だった。ハンニバルは、彼の新しいイタリアの同盟国に戦う意思がないのを理解し、同時に、カルタゴの指導者層が彼にほとんど支持を与えなかったことにも失望した。ヌミディア騎兵隊の司令官マハルバルは、彼の苦境について、「ハンニバル、あなたは勝利を得る方法を知っているが、それを使いこなす方法は知らない」とコメントし、ハンニバルのイタリア作戦における減少していく運命とローマとの戦略的行き詰まりに、避けられない結論を指摘した。彼は優れた将軍だったが、まだ彼の敵を征服するための要素を欠いていた。それまでにローマは大ハンニバル戦に調整していた。


元老院と軍はファビウスの撤退戦略の有効性を惜しげなく認め、その実施を求めた。第二次ファビアン戦争を通じてハンニバルを引きずり回すことで、ローマは包囲を敷いた後、前211、カプアの支配権を取り戻すことができた。前212、2つのローマ軍が破壊され、前208年の戦いで2人の執政官が殺害されるなど、ハンニバルはまだ勝利を収めたが、しかし彼のイタリアの同盟国は彼を支持しすること不十分であり、カルタゴ政権は物資の不足や嫉妬からかどうかにかかわらず、彼を見捨てた。


これによったハンニバルはシチリアから追い出され、ローマは支配権を取り戻した。ヘルドニアとロクリ・エピゼフィリの戦いで、ハンニバルは弟にイベリアから援軍を呼んでくれと頼んだ。しかし、ハスドルバルはアルプスを渡って彼の行進を繰り返すことができず、後に戦いで殺された。


ハスドルバル・バルカの頭は、最終的に彼の取り乱した兄に届けられることになる。最後に、前203年、イタリア半島での戦争から15年間の後、将軍はしぶしぶコルネリアス・スキピオ・アフリカヌスの侵略を食い止めるためにカルタゴに戻った。ハンニバルとスキピオは緊張した交渉に入った。


カルタゴはヨーロッパにおける持ち株を失い、戦争の補償を支払うだろう。ローマは カルタゴが条約の条件を尊重すると確信していなかったが、敗北した敵から望ましい譲歩を得た。カルタゴがチュニス湾でのローマ海軍の敗北により新たな自信の急増を経験し、軍事指導者復帰を望む機運を高めたとき、威勢はなおカルタゴを離れていないかに見えたが、運命の凋落はすぐにやってきた。スキピオはザマの戦いでハンニバルの騎兵を圧倒し、ゾウ兵を無効化した。彼はハンニバルのサインを熟知してカルタゴ軍の後ろ側翼を叩き、ハンニバルの形成を崩して老いた敵将のお株を奪った。ハンニバルは敗北し、軍隊は降伏した。カルタゴ軍は20000を失い、第2次ポエニ戦争にもはや勝ちの目がないことに気づいた。カルタゴの夢は終わった。カルタゴの政治指導者たちによって軍権を剥奪されたにもかかわらず、ハンニバルは、十分な、または最高の政治家として彼の国家に奉仕する新しい方途を見つけることができた。


これは権威ある任命とは見なされなかったが、彼はカルタゴの金融および司法制度を改善するのに十分な力を振るうことができた。まだ43歳の若者は、都市国家の経済システムの再構築や、カルタゴの裁判官評議会の任期見直しなどの104の改革を実施した。都市国家は繁栄の時期に入った。善行が罰せられないことを証明し、これらの改革はハンニバルの最後の償いといえた。経済再編は、既得権益を失うことを恐れた上陸貴族の反発を引き起した。常にハンニバルに嫉妬する彼らは、ハンニバルがセレウコス朝との新しい同盟を結ぶと、これはイタリアを侵略する計画の一部であるとローマ元老院に知らせた。


それが真実であろうとなかろうと、ローマはカルタゲの降伏とハンニバルの首を要求し、ハンニバルは前195、シリアのアンティオコス王のもとに亡命した。


セレウコス朝はローマ侵攻の第一段階としてギリシァに侵攻することを決めた。ハンニバルは軍隊を率いることを申し出たが、アンティオコスの顧問の助言により、彼は少数の船の指揮下に置かれただけだった。彼はその後、彼の指揮下による軍隊でイタリアに侵攻するため、セレウコス王を説得しようとした。しかし、その考えは決して実現しなかった。イタリアへの別の攻撃を感じたローマは、セレウコス朝に対して攻撃を行い、前191サーモピラエでそれらを撃破したからである。彼らは前190年、マグネシアのシミラムでC シピオ・アジアティカスによって完全に粉砕された.


ローマ人を避けるために、ハンニバルはまたも逃げなければならなかった。彼はアルメニアのアルタキサスの宮廷、次にクレタ島、そして最後にビティニアのプルシアス1世の宮廷に避難を求めた。彼はローマの同盟国であるペルガモン王プルシアスに仕え、反ローマ勢を結集しようとした。


ハンニバルは海軍司令官を務め、ペルガモンのユーメネス2世に勝利した。彼は陸上ほか2つの戦いでユーメネスを破ったが、その後ローマが介入した。彼らは毒蛇で満たされた鍋をペルガモン軍に送り、ハンニバルを渡さなければペルガモンを破壊すると脅した。


前182年、降伏するのではなく、服毒自殺により死す。彼は究極的には軍事目標に失敗したが、にもかかわらず、ハンニバルの永続的な遺産は、すべての時間の中に存在するあらゆる戦術家の中で最高のものの一人と彼を称す。カンナエでの彼の勝利と敵の最も弱い側面を攻撃する能力は、つい最近、1991年の砂漠の嵐作戦でアメリカの将軍により複製された。ノーマン・シュワルツコフ将軍は、ハンニバルの騎兵、槍、ゾウに対する衛星とF-14の技術的優位性にもかかわらず、この戦略を採用して、大成功を収めた。彼はアメリカ軍に対し、後方への攻撃に成功してしかるのち、100時間の戦争でイラク軍を包囲するよう手配した。


ハンニバルは戦いに成功したにもかかわらず、戦いに勝つことは戦争に勝つことと同等ではない。それはここまでを見れば明らかであろう。ローマ諸都市と恒久的な同盟関係を築くことができない彼は、敗北を運命づけられていた。


しかし、おそらく彼の最大の遺産は、非常に長い間成功を求める人々の希望を鼓舞している。ある将軍から、アルプスを象と渡るこことは不可能だと言われたとき、彼はラテン語のフレーズAut viam inveniam aut faciamと答えた(「私は道を見つけるか、でなければ作るだろう」)。歴史家セオドア・アイロー・ダッジは、この属性を彼の成功の主な源であり、彼の遺産の最も顕著な部分であると断じる。


また彼はハンニバルを最高の軍司令官、インスピレーションに満ちた人物、そして何よりも愛国者として賞賛する。「ハンニバルは戦術家として優れていました。歴史上の戦いにおいて、カンナエよりも秀逸なサンプルはありません。しかし、彼がより優れていたのは物流と戦略においてだった。およそ自身の数字や材料よりも優位な多くの敵軍の前で、彼ほど恐れることなく巧みに軍を動かしたしたことは人物は存在しません。かかる高い賭け率に対してこれほど長く、これほど自負心を抱いた人は一人もいませんでした。立派な将軍は常により良い兵士を率いて助け合い、しばしば偉大な能力を持つ。彼は半世代の間、イタリアから彼を追い出すためのすべての努力に逆らいつづけました。兵士として、彼は最も頑丈な敵に相対し、最も苦い逆境の下で恒常的に勇気を示した。ハンニバルは将軍として政治家として人として比類なく、歴史上のどの人物も、彼より純粋に研ぎ澄まされた生活や高貴な愛国心を示す人はいません」。

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