第25話 清・オーバイ(鰲拝)

 オーバイ(?~1669)、姓はグルカ氏、満州鑲黄旗の人。弱年にして皇帝ホンタイジのバーアラ(警護員、近衛)となる。ホンタイジの征戦に従い、しばしば戦功あり。天聡8年ゴンラ・コンジン(騎主の下に属する高級士官)に抜擢。崇徳元年(1636)清が朝鮮皮島に盤踞する明の毛文竜を征伐する軍を動かすと、オーバイはいまひとりのゴンラ・コンジンであるチュンタイとともに先鋒と成り、海を越えて明軍に肉薄、激闘し明軍を撃破し、皮島を占拠してのけた。この大功によりバイレ・シャンゲイ(副旗主)に昇進された。崇徳6年(1641)オーバイはジルガランに従って錦州を攻囲、明軍は荊遼総督・洪承畴ひきいる13万の大軍をもって錦州の囲みを解かせようとしたが、松山の遭遇戦で戦略を阻まれた上オーバイの奮戦で陣をズタズタにされ、5戦して5敗という惨敗を喫して退走する。この遭遇戦における敗北で明軍はその過半を殺されあるいは捕獲され、総督・洪承畴もまた捕らえられた。この錦松戦役における功績筆頭に数えられたオーバイはいよいよホンタイジからの寵愛を深く受けることになる。


 順治元年(1644)、オーバイはドルゴンの麾下としていよいよ中国本土に猛撃、これを滅ぼすに抜群の功あり、清が燕京に京師を置くと“忠勤力戮(忠義のもと戮すことに力を勤める)”の称号を受ける。すぐにまた京師を出てアジケのもと李自成の大順軍を追撃、四川に入って大西軍の将領・張献忠を斬。遵義を陥とし、夔州、茂州の諸州県を平定した。オーバイは清軍の中国入関以来農民起義軍の叛乱鎮圧にしばしば戦功を立てたが、この時期から自らの功績を誇って傲慢な態度が鼻につくようになり、摂政王ドルゴンとの確執が日増しに顕在化していった。ドルゴンの腹心たちはホンタイジの暴卒について懐疑的でこれを暗殺として告発したがる朋党であり、ホンタイジの調子ホーゲを立太子し君位につける陰謀で一致していた。ドルゴンはこの機会にオーバイを殺し政敵を排除することを望んだが、しかしまたオーバイは長きにわたりホンタイジのバーアラとして身辺に控えた近臣であり、実際赫々たる武勲もあり、清の宿将たちはみなオーバイの生き死にに対して敏感でないわけにはいられなかった。ことに両黄旗の衆に巨大な影響力を持ち、すでに形成された大勢力の前に皇族のドルゴンであってすらもこれを除くことは容易ではなく、ただ瑕瑾につけ込んで“罰鍰自贖(六両銭(鍰)の罰は自ら贖え)” として降級処分に処したがその権勢を削ることは出来なかった。オーバイとドルゴンはたがいに憎み合い、また心の底から憎み合い怨みあった。


 ドルゴンが若くして死に、順治帝が立つとオーバイはまた用いられ、重んぜられる。順治帝は彼を議政大臣、さらに超擢して領侍衛内大臣に任じ、太子大傅銜を加えてオーバイの地位は清国の支配中枢に於いて最も顕貴で最重要のものとなった。順治帝は実母と肉体関係を結び自分を抑圧したドルゴンを憎みその死後彼の爵位を剥奪、無実の罪をかぶせたが、その罪状の密告者はオーバイが自らの権職によって証言させたものであった。順治帝は死に臨んで遺詔でオーバイ、ソニ、サクスハ、カビロンを輔政大臣とした。康煕帝が幼くして即位すると朝政の大権は大臣たちの手中に掌握するところと成り、四輔臣中ソニは老人でありカビロンは軟弱、スクサハは浅薄であったからオーバイは権力をほぼ独掌することが出来、専横にも異議を唱えるものがなかった。宿将としても戦功無類、清初の名将最後の一人でもあり、彼の権勢をゆるがせに出来るものは存在しなかったといっていい。“相好者存抜之、不相好者陥害之(笑まれれはば抜擢され、睨まれれば害せられる)“といわれ、文武百官は、政敵はことごとく京師の門から外に排除された。また地方から中央に到る重要都市の太守には、ことごとく自らの腹心を配した。


 オーバイは元来康煕帝成人までの間を輔弼するために存在する存在だが、権力を保持し続けるためには康煕帝が聡明では困った。しかし康煕帝は聡明明敏に育つ。康煕帝が官員への給与の奏疏をあげると、オーバイはそれを家に持ち帰り腹心と商議して「およそ国家の大事なれば、急がず後回しにすべきかと」と言上、康煕帝を政治から遠ざけようとした。康煕5年(1666)オーバイは中原入関当初の、ドルゴンが率いて圏地にあった正白旗の軍を北京の北永定に移動させ、自らの率いる鑲黄旗を保定、河間、涿州などの要地に移動させる(換地)議を建議した。「八旗自ずから定序あり」の祖制を楯に無理矢理正白旗を排斥しようとしたのだが、鑲黄旗を要地に入れるには土地が不足し、「これ軍民の地は圏を別にす(兵と民は住まう生活圏を分かつべし)」という議が起こった。オーバイは「換地」のうえ郡民の地をおなじ圏内に置く「圏地」を主張、それまでになかった新しい議論は大いに紛糾した。オーバイは強烈に圏地を主張したが正白旗のスクサハ、戸部尚書スナハイ、直隷総督・朱昌祚、巡撫・王登聯ら大臣はこれに反対、かれらの認識に於いて両旗は三十年来並び立って久しく、換地など考えもしていなかったのである。いわんや先帝崩じてまもなく、圏地の論旨は最行を許されない時期でもあった。オーバイは反対者に対して大いに怒り、スナハイ、朱昌祚、王登聯の三人をくびり殺しその家財を没収すると換、圏を断行、彼が手にした土地は31万垧におよび、その養う旗丁は6万人を越えたが、新規生活圏の農産者は耕すべき土地なく、近畿一帯の農業生産力が致命的に破壊された。


 康煕6年(1667)、康煕帝親政。スクサハはすでに成長し人格長大なる皇帝に満足し、朝廷に職務からの辞職を申し出た。スクサハの辞職を受けてつぎに動向が注目されたのは当然オーバイとその擁する軍である。このときソニはすでに死んでいたが、彼も野心家であった。この二人は補政大臣として大権を握り、皇帝親政の暁には当然その権力を返上すべきであったが、康煕帝親政に際して職を辞したのはスクサハのみであった。オーバイは大権を握ったままなや歴史の舞台から下りることを拒み、懊悩し、かつ怒り、「先帝の遺詔に叛き」「幼主を軽んじて」いるとスクサハを糾弾しほか24条の罪状を斬奸状に羅列すると、かれの首を切り家財を没収することを要求した。この当時康煕帝は16才、オーバイの跋扈に対し早くも不満囂々ながら、聡明な帝は険悪な心が透けて見えないよう心がけ、スクサハ斬首の要求には断固拒絶を貫きながら、専横のオーバイには宮中で平伏せず立ったまま拱手のみで許される特別の恩典を許した。声色高いオーバイはついに康煕帝の論旨を窃盗、さらにスクサハを捕らえて絞首刑に処し、その残忍暴虐に康煕帝はここに至り奸臣を除く決意を固める。漢族の官吏はオーバイの漢族抑止政策に不満を持っていたので、康煕帝は一年間にわたって雌伏、弘文院侍読の熊賜履に詔を下した。熊賜履は朝廷の苦難を告げその文中でオーバイを指弾、政治の紛糾、法政の未整備、士気の衰微、国体の不敗などを挙げ、なすべきこととして貴族政治から近臣の登用への切り替え、朝政の抜本的改革等を挙げた。オーバイの心証よろしかろうはずがなく、熊賜履に矛を突きつけ捕らえて厳しく懲らしめることを康煕帝に請うたが、康煕帝は断固許さなかった。


 康煕8年(1669)5月、康煕帝はついに疾風耳を覆うも及ばざる速度で事に乗り出し、オーバイを投獄、諸臣は議する余地なくその大罪30条を数え上げ殺すべしと叫んだが、康煕帝は三朝の元老、勲功赫々であり殺すに忍びないとして死一等を免じ、永世禁固に処した。ほどなくオーバイは獄中で死ぬ。

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