第24話 五代・李存孝

李存孝(り・そんこう)《旧五代史》53巻

 李存孝は本姓を安、本名を敬思といい、飛狐の人である。太祖武皇(晋王・李克用のこと)が代北の地を略取したときこれに仕えるようになり、帷中に仕えて給し、名を賜って義子とされ、以後李存孝を名乗る。常に騎将として太祖のそばに侍る。壮年となるに及んで騎射に巧みとなり、驍勇冠絶、常に騎将の先鋒を務め、未だかつて坐敗することなし。武皇にしたがい陳州、許州を救い、黄州の寇を駆逐して、上源駅の難に遇うに及んで、なお戦うごと捷たざるなし。


 張濬の兵が太原に加わると、ロ[?+路]州の小校・馮覇がその帥・李克恭を殺し城を以て叛いた。時に?梁の将・朱崇節まさしく[?+路]州に入り、梁祖は張全義に令して沢州を攻めさす。李罕之が武皇に危急を告げ、武皇帝李存孝に五戦騎を率いさせてこれを助けに遣わす。はじめ、?梁の兵は沢州を攻め、李罕之に呼ばわって曰く「貴公は常に太原を恃みにしているが、大国と言えど容易く絶える。今張相国は太原を囲み、葛司空は路[?+路]」府に入る、十日とたたぬうち、沙陀はみずから窮して逃げる穴を失うであろう,貴公なんぞ生を求める道を求めんや!」李存孝はその不遜の言を聞き、精騎五百を選抜して?梁の営に呼ばわって曰く「吾、沙陀にあって窮穴を求める者なり、汝らの肉を以て軍に饌えん、豚ども、出でて戦うべし!」?梁の将に鄧季?なるものがあり、これもまた驍勇を以て聞こえた。即ち兵を率いて出戦、李存孝はその率いる部の衆を激励し、?(矛+肖)を取り舞うがごとく先陣に立って登り、一戦してこれを破り、馬を獲ること一千匹、鄧季?を軍中に生け捕った。この夜、?梁の将、李読は軍を収めて撤兵、李存孝はこれを馬牢山に猛追し、斬獲万余、ついに[?+路]州攻めの?梁軍を退かせる。


 時に朝廷は命により京兆尹、孫揆を昭義節度使となし、供奉官・韓帰範に令して旌節を平陽ので送らせた。孫揆はこれをもって[?+路]を撃ち、梁祖と孫揆の牙兵三千、連合をなす。ときに孫揆は張濬の副招討となり、その率いるところ万人。八月、晋軍は絳州の刀黄嶺より上党に趨って逃げる。李存孝は三百騎を長子の西崖の間に伏せ、 立派な衣服と天蓋を以て孫揆が衆を擁し、その軍の前後が伸びきるのを待って、李存孝は騎馬隊を発し、縦横に敵を撃って孫揆および韓帰範および五百余人を擒えて太原に献じる。そのまま李存孝は [?+路]州に急行し、九月、葛従周をして夜遁させ、城を収める。武皇は表して康君立を[?+路]州の帥としたが、李存孝はこの人事に腹を立てて数日食事も喉を通らなかったという。十月、李存孝は[?+路]州の師を収め撤兵、平陽に張濬を囲み、趙城に営を築く。華州の韓建は夜、三百の壮士をもってそりの営を犯さんとするも、李存孝は蝶者によってこれを察知し、伏兵を設けてこれを迎え撃ち、悉くこれを倒す。進んで晋州西門を圧伏し、賊三千を獲るも、門を閉ざして堅壁、出ず。李存孝は軍を率いて絳州を攻め、十一月、刺史・張行恭に城を棄て遁走させる。張濬、韓建はまた含口から逃げ、李存孝は晋州、絳州を平定、この功により汾州刺史。


 大順二月三日、ケイ[?+?]州節度使、安知建が叛いて?梁に投じた。武皇は李存孝に命じて[?+?]、洛の平定を令し、軍権の象徴たる節鉞を授けた。時に幽州の李匡威と鎮州の王鎔とはともにしばしば中山の弱を攻め、まさにその彊土を分かつ。定州の王処存は武皇に救援を求め、武皇は李存孝に命じて鎮、趙の南鄙を侵させ、また李存信、李存審に令して兵を率いさせ、井?から出てこれと会せしめ、軍を合して臨城、柏郷を攻めさす。李匡威が救いに来るにいたって班師を議すが、李存信と李存孝は意見が合わず反目、両将事を構えたが、武皇はこう言った。李存孝は勢いに乗って敵が退くまで無心に攻め続けるも、わたくしに盟を結ぶを畏れるなり。李存孝はこの言を知り、自らの戦功を恃んで不平鬱々。よって王鎔に書を致し、?梁に帰順を約した。


 翌年、武皇は井?から出てまさしく真定に迫り、李存孝は王鎔に見えて軍の機密を陳べる。武皇は大いに怒り、まず?梁の将安康八を擒えて誅し、いったん師を翻す。七月、また師を動かして李存孝討伐に出、縛馬関より東下して平山を攻め、?水を渡り、鎮州の四関城を撃つ。王鎔は懼れて震え上がり、使者を遣わして和平を請い、兵三万を以て李存孝討伐を助けると約し、許される、武皇は楽城で集を集め、李存信を琉璃陂に駐屯させる。9月、李存孝は夜李存信の営を犯し、奉誠軍使・孫考老をとらえ、李存信の軍を潰乱させた。 武皇は進んで[?+?]州を攻め、溝を深くし塁を高くし、もって環状に囲み、ひるがえって李存孝と激突するも、塹壕が完成せずに事ならなかった。軍校の袁奉?なる者があって、ひとかに李存孝に言いて曰く「大王(李克用)は塹壕が完成すれば太原に帰るでしょうが、これが完成しないうちは帰らないでしょう。尚書(李存孝)がこの世で懼れるのは大王のみ、諸将を料るに尚書の右に出る者はおりません。王がもし西に帰られれば、黄河に阻まれるといえども戦団なき限りこの地は安泰であります。地を以て咫尺の地を守るには、ただよく尚書の鋭鋒あるのみ!」李存孝はこれを然りとし、兵を従えて塹壕を完成させた。また十日ほどで溝を深くし塁を高くし、飛ぶように走るも及ばず、李存孝これによって敗北し、城中の糧尽く。


 建寧元年三月、李存孝は城上で斬首とされる。武皇に対して泣いて訴え、曰く「児(わたくし)は息子として王の深い恩を被り、位は将帥とされ、にもかかわらず讒言によって間を裂かれるとは! 讎の党に報いことも出来ず、親子の恩を棄てることになろうとは慚愧の限り! 児はその心身偏狭なれど、実に李存信に陥れられてここに至るも、もし死の前に大王に見えんならば、一言が最後の言葉となっても誠悔いなし!」武皇はこれを憐れと思い、劉太妃を入城させ 遣わして慰労、太は李存孝を引見謁見し、李存孝はひれ伏し罪を請うて曰く「児の立てた功は微細にして、もとより顕過なることなし。ただ、人の中傷を被って申明の道なく、迷い惑ったあげく斯くのごとき仕儀に到ったのです!」武皇はこれを然り、「汝と王鎔の書状にその罪万端、なお李存信の所為にするか!」ついに太原まで牽いて帰り、車折の刑に処す。しかし武皇は深くその才能を惜しんでもいて、李存孝が毎度大敵に臨み、重い甲をまとい強弓と矛を携え、従僕二人を以て従え陣中馬を易えては軽捷なこと飛ぶがごとく、単身鉄槌を以て舞うがごとく、身を挺して陣を陥としせば万人辟易、いにしえの張遼、甘寧に比せられたほどであり、李存孝を死なせて以後、武皇はしばらく政務に手がつかず、ことあるごと、久しく諸将に遺憾の意を語った。

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