第23話 陳興道(チャン・フゥンダオ。ヴェトナム)

チャン・クック・トゥアン(陳国峻。1232-1300)

一般にチャン・フゥンダオ(陳興道)の名のほうが通りが良い。ヴェトナム安南チャン朝の安生王・陳柳の息子。太宗の兄。その妻は一度忠誠王に嫁したリ朝の恵王の公主・天城。チャン・クック・トゥアンは幼少より聡明にして群書を博覧し、長じてはモンゴルの来寇に対して抜群の大功を立てた。チャン朝ひいてはヴェトナム屈指の戦略家。


 ヴェトナムはリ王朝時代に宋の侵攻をかろうじて防いだものの、チャン朝の時代に入ると宋を滅ぼした元朝の三度にわたる侵攻により首都は陥落し、元軍に蹂躙されて、また中国の支配下に入ろうかという窮地に追い込まれた。最初の元寇に対しては太宗が自ら兵を率いて東歩頭に元軍を退かしめたが、以後元が本腰を入れて大挙南侵してくると太宗はチャン・クック・トゥアンに総司令官を委ね、クック・トゥアンはその信任に見事応えて三度にわたり元軍を撃退してのけた。


 まず第一回の元軍南征は一二五七年、ヴェトナムと境を接する大理国との国境の砦、帰化の寨主アクッダから「蒙古来る」の報せを受ける。元の目的は南峰交易、広くはアジア交易権の獲得であり、彼らは手始めとしてまず雲南タイ族の大理に侵攻し、一二五三年これを滅亡させた。チャン・クック・トゥアンはこの状況で太宗直々に命を受けて将兵を督し、大いに功績を立てた。


最初、元は南宋を屈服させるために南からの侵攻路を取り、ヴェトナムに対して元軍の通過を認めるよう要求した。これに対しチャン朝は拒否、ために元軍は紅河伝いに南下してヴェトナム領に侵攻、一気に首都タンロンに攻め入り、京師を落とした。国王チャン・タイ・トンは辛くも逃げ延びたが、タンロンの住民は家を焼かれ、首都一帯が空っぽとなった。ところが勝ったはずの元軍は地元での食料の調達ができず、また激しい暑さにも苦しめられる。元の大将ウリャンハタイ(チンギスの名将スブタイの嫡子)は雲南への撤退を決意したが、このときチャン・クック・トゥアンが撤退する元軍を追撃して散々に破った。元軍の南宋攻撃は失敗し、ヴェトナムからも手痛い敗北を喫した。もっともこのときの元軍は雲南を征服しており、ヴェトナムを占領する意思はなかったといわれる。


 チャン朝は元軍に蹂躙されるやただちに宋に対して使者を送り、連合を打診する。しかし使者が帰る前に元からの使節が訪れて、朝貢、課税を要求してきた。これには抗しきれず、チャン朝は元の要求に屈して三年に一度の朝貢を約束させられた。一二七四年、元の攻撃から逃れて宋からの難民が大勢ヴェトナムに亡命してきた。この年は日本の文永十一年に当たり、北九州地方に元軍が大挙襲来した年でもある。


 一二七六年、元の世祖フビライは中国江南を平定するとヴェトナムに新たな要求を突き付けた。国王自ら来朝すること、王の子弟を人質に出すこと、戸籍簿を提出すること、軍役を出すこと、租税を納めること、地方官を置くことの六か条である。チャン・タイ・トンは元の要求に激怒したがなすすべもなく、翌年死んだ。その間にも元軍は着々と二度目の南征を準備、一二七七年バーモを占拠し、一二七八年ついに元は崖山で南宋の残存勢力を破った。宋の重臣陸秀夫は衛王趙昺を背負って涯山に身を投げ、ここで宋朝は完全に滅ぶ。ヴェトナムは非常事態となった。一二八三年十月、チャン朝三代目チャン・ニン・トンはこの国難にあたり、チャン・クック・トゥアンを国公として、全軍の総指揮を任せた。


 元軍はウマルを総大将として1285年1月、ヴェトナムに侵攻。ヴェトナム側は抵抗したが、あまりにも強大な元軍の猛攻に抵抗しきれず投降するものが相次いだ。元軍はヴェトナムの首都を蹂躙して住民を屠殺した。この中でチャン・ビン・チョン将軍は元軍を相手に勇戦したものの敗れて捕虜となり、優遇と馳走でもてなされたが節を曲げず、「卿は北国の王たらんと欲しないか」と問われるも「予は北国の王たらんと欲するより、むしろ南国の悪鬼たらんことを欲す。捕えられた予の命運は汝の掌にある。汝の意のままになすべし。問答はもはや無用なり」と答えた。元のウマルは怒って彼を斬首に処した。


 敗戦に次ぐ敗戦に心を痛めたチャン・ニャン・トンは「敵は優勢である。これに抵抗するのはいたずらに国民に不幸をもたらすだけではないか。戦禍を免れるために降伏しようと思う」と言ったが、チャン・クック・トゥアンは「陛下の仰せはもとより人道の合するところであります。ただ、降参するのであれば、降服に先立ってわたくしの首をはねていただきたい。わたくしがいる限り我が国は絶対に滅びることはありません」と答えた。この答えにチャン・ニャン・トンは元軍との戦いを続けることを決意したという。チャン・ニャン・トンは三月、チャン・クック・トゥアンを従えて南方のタインホアに移った。元軍の攻撃はここでも鋭く、降服するものが相次いだ。昭国王チャン・イック・タックも降服、元は裏切ったチャン・イック・タックを安南国王に封じた。


 ヴェトナムの窮地に追い打ちをかけるように、元のトアド将軍率いる別働隊五十万(数字には多分に誇張が含まれる)の兵力は雲南から迂回作戦をとり、ラオを経てチャンパにいたり、ここから北方に転進してヴェトナムを南方から攻撃した。しかし元は大軍ながら全土を支配するために勢力を分散させており、各地の保塁の防衛体制が強固ではないことを見て取ったチャン・クック・トゥアンは、チャン軍をジャングルあるいは山岳地帯に退避させ、各地でゲリラ作戦を繰り出して反撃を加えた。また紅河デルタ地帯の住民は食料を隠して逃げてしまったため、元軍は食料調達が順調にいかず、前回の侵攻同様厳しい状況に陥った。


 相次ぐ敗戦にもかかわらず士気旺盛なチャン軍による大反撃が各地で展開された。とくに紅河デルタ地帯では善戦し、元軍を紅河デルタ北方まで押し返し、さらにチャン軍は五万の勢力で行く手を遮って元軍を破った。また海から侵攻した元軍を撃退し、首都を奪回。元の総管・張顕は降伏し、トアド将軍は戦死、ウマル将軍は敗走。この勝利でチャン軍は五万人以上の元軍兵士を捕虜とした。元軍の将兵の多くは毒矢に当たって死んだという。元軍は五十万人の過半が損害を受けて敗走した。チャン・ニャン・トンは首都タンロンに帰還した。


 戦いが終わった翌年の一二八六年、五万人の捕虜を国に帰した。将軍たちは徹底的に処罰したが、兵卒の罪を問わずに一兵たりとも殺さず帰国させるという温情をもって接したというエピソードは、ヴェトナム人の間で今もなお好んで語られる。


一二八二年クメールを攻撃、翌年チャンパとペグー王国に侵攻した元軍は、ヴェトナムに三度目の侵攻を企図した。ヴェトナムでは、元は元来、日本への三度目の遠征を計画していたが、ヴェトナム遠征を優先したことで日本侵攻を優先したことで日本侵攻を中止せざるを得なかったとみている。一二八六年、世祖フビライは号令を発し、三度目のヴェトナム侵攻を計画した。元軍はさきの二度の侵攻で食料確保に難儀した苦い体験を踏まえて戦艦五百隻を建造し食糧を輸送した。これに対しチャン・クック・トゥアンはチャン・ニャン・トンの命令を受け、総督として兵を訓練し、武器、戦艦を造らせていた。王子たちを集めて「敵軍の強さは数ではない。その質にある」と訓示した。「わが軍は今やよく訓練されている。しかるに敵は今までの侵攻の際すでに敗北を喫しており、士気は低くなっている。勝利は目前である」と述べた。


 一二八七年パガン朝を滅ぼした元軍はその年十二月、トアホン将軍を総司令官に三十万の兵を率いて国境を越えてきた。トアホアン将軍は前回の侵攻の際、チャン軍の猛追を受けて聖堂の棺に隠れて脱出した経験をもっていたが、今度は陸路の総大将である。前回の侵攻で散々な目にあったウマルはチャン・クック・トゥアンに対して「空に逃げようと、海に逃げようと、海の底まで、ジャングルの奥まで、とことん追いつめて見せようぞ」と警告を発し、五百隻の戦艦はヴェトナム沿岸を目指した。陸路を進撃した元軍もつぎつぎに要衝を陥れ、チャン・ニャン・トンはまたも首都脱出を余儀なくされた。住民たちも食糧を隠して逃げてしまった。侵入した元軍は首都に火を放ち、紅河デルタに戦線を展開した。しかしチャン軍も勇敢に戦った。元軍は築いた保塁の防衛に躍起となっていた。


 ちょうどそのころ、海岸沿いで元軍の艦隊を見張っていたのがチャン・カイン・ズ将軍の部隊だった。いまのホンガイ近くヴァンドンと呼ばれる要衝に元の大艦隊が接近するのを発見した。元軍は張文虎将軍の指揮する大船団で、中国南部から戦場の元軍への補給のため米をはじめ食料、武器を満載してはるばるとやってきた。大船団を護衛してきたウマル将軍指揮下の水軍が通過した後、これに続く張文虎指揮の元軍輸送船団をチャン・カイン・ズの伏兵が攻撃、大量の食糧と武器を奪い、三百隻を焼き、将軍や船頭たちを殺してしまった。


 紅河デルタに展開していた元軍は危急を聞いて驚いた。将軍たちは「保塁も危険になっているのに、補給物資がなくなってしまい、米がなくなってしまったのは大変だ。これからは雨期に入り気候も悪くなる。風土病も蔓延するに違いない」として、陸路、海路の二手に分かれて撤退を開始した。


 チャン・クック・トゥアンはあらかじめファム・グ・ラオ将軍のチャン軍をランソンで待ち伏せさせ陸の退路を断ったあと、バクダン江に向かった。一二八八年三月、元軍のウマル将軍率いる船団はバクダン江を下る。迎え撃つのはチャン・クック・トゥアンの軍だった。チャン・クック・トゥアンはバクダン江での戦闘準備を整えたのち全軍に向かって訴えた。「もし敵を全滅させなければ、ふたたびこのホアジャンに帰らないことを誓おう」。チャン・クック・トゥアンはゴ・クエンの先訓を再び実行した。干潮のときに杭をバクダン江に立てた。四月三日、元軍の船団が進撃してきたが、満潮を見計らってヴェトナムの小艦艇軍が元軍に挑んだ。元軍の艦船が出てくるのを待ってヴェトナム艦艇はさっと逃げ出し、元軍に追跡させる形をとった。すると潮が引き始め、元の艦船は杭にさえぎられて動けなくなった。そこへチャン軍が殺到する。これに勇気を得たヴェトナム兵は決死の覚悟で敵に向かった。両岸で待ち伏せていたチャン軍も加わり奮戦の末、ついに元軍を破った。戦艦百隻を沈め、四百隻を捕獲、元兵多数が水死し、ウマル将軍と大勢の将軍、士官たちが捕虜となった。陸路を進んだトアホアン将軍率いる元軍は撤退途中、中国・ヴェトナム国境のランソンでファム・グ・ラオ将軍のチャン軍によって散々に打ち負かされ、その多くが命を失った。


チャン・クック・トゥアンのバクダン江の大勝利によってヴェトナムは救われた。京師に帰ったチャン・ニャン・トンは戦争で荒れた地方では租税を免除した。功績のあったものを賞し、チャン・クック・トゥアンを大王に封じた。これ以降チャン・クック・トゥアンは道統を興した王としてチャン・フゥンダオ(陳興道)と呼ばれる。その名は救国の英雄としてヴェトナム全土の町の主要な通りの名称となっている。


ヴェトナム外交が巧みなことは、徹底的に破った敵の元朝にただちに使節を送って、朝貢を行ったことにある。翌一二八九年、チャン朝は捕えた元軍の将兵たちを丁重に送り返した。それでも元朝は宗主国となる以上に直接支配を望んだ。これに対してヴェトナムは、二月に元軍の将軍たちを送り返したとき、積年の敵、ウマル将軍も乗船させ帰国の途に就かせたが、途中、欺いて船の底に穴をあけて水死させてしまった。一二九三年、元はまたもチャン朝に対して元皇帝に拝謁するよう求めてきたが、チャン・ニャン・トンは病気と偽り代わりの使節を送った。元はその使節を抑留してまたもやヴェトナム征討の準備をはじめようと画策、一二九二から九三年ジャワに遠征して戦備を開始したが、一二九四年正月、フビライが崩じ、出兵は取りやめになった。


チャン・フゥンダオの晩年は静かなものであったらしい。彼は悠々自適の毎日を送りながら兵法書「萬却宗秘傳書」をものし、一三〇〇年没した。この日ヴェトナムで大地震が起こったという。


チャン・アイン・トンはこの偉大な将軍が死ぬ前、自宅まで彼を訪ねて聞いたという。「北の国からまた侵略してきたらどうすればよいか」。チャン・クック・トゥアンはこう答えた。「北方の敵は数をたのんでいるのです。これに抵抗するには、しぶとく、また一気に敵を攻撃することです。これは我らの能力によります。もし敵が大火事や暴風雨のように一気に無茶苦茶に突進してくるならば、かれらを撃滅することはたやすいでしょう。しかし、敵が辛抱強く、まるで蚕が桑の葉をゆっくりと食べるように、手順をじっくりとすすめてきたら、また略奪もせずに、勝利を急いでもぎ取ろうとしなければ、われらは最も優れた将帥を選び、将棋を戦うように、最も効果的な戦術を駆使して闘うべきでしょう。軍隊は親子のようにこころを一つに一致団結しなければなりません。民衆には心優しく接しなければなりません。民衆の力を育まなくてはなりません。山奥の道をうがち、永続的な基地を建設するようにです」


チャン・クック・トゥアンの遺言は現代にまで語り継がれた。はるか後世フランスに対する抵抗と独立戦争、また米国との戦いに当たって、ヴェトナムの民衆がこぞって戦った団結力の背景には、彼の遺訓があったといえる。

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