第22話 後漢・皇甫崇

皇甫崇は字を義真といい、安定朝那の人である。度遼将軍・皇甫規の兄の子であり、父・皇甫節は雁門太守であった。皇甫崇は幼いころから文武を兼ねて学び、ことに≪詩『尚書』を好み、騎射にも習熟した。はじめ推薦により孝廉、茂才に挙げられ、太尉・陳蕃、大将軍・竇武らに相次いで斥けられたが都を去らず。霊帝の公車に召されて議郎とされ、北地太守となる。


はじめ、鉅鹿の太守・張角が自らを「大賢良師」と称し、黄、老の道を奉じて門徒を集め、拝跪懺悔させ、水に呪符を溶かして病を癒すといい、これで癒えるという者が多くいて百姓がみなこれを信仰した。張角は弟子八人を四方に遣わして道教を天下に教化し、みなを騙り誑かした。十幾年の間に門徒は数十万を越え、諸郡県で連結して勢力を為す。ことに青、徐、幽、冀、荊、揚、?、豫の八州で盛んとなり、互いに饗応して、その数36万と号す。各所で将軍を自称するものが現れ、大なるものは万余、小さいものは六、七千人で、それぞれ渠師(言うなれば上位の道士)のもとに集う。時に揚言して「蒼天已に死す、黄天まさに立つべし。歳は甲子にあり、天下大吉なり」と。京師の寺門および州郡の官府ではみな「甲子」という字に着目した。中平元年、張角の教えの巨魁の一人・馬元義らが荊州、揚州で数万人を召募、?城で事を起こすと約した。馬元義はしばしば京師と往来し、中常侍・封?、徐奉らと内応し、三月五日の決起を約定する。いまだ乱の起こる前、張角の弟子・済南の唐州が師に叛き上書してこれを告げたので、馬元義は洛陽で車裂きの計に処された。霊帝は唐周の告発を信じて三公、司隷校尉を派遣し、鈎盾令・周錻を三府掾属にし、宮中の直衛人員をもって百姓の中から張角の教徒を審問させた。誅殺されたものは一千余人に上り、冀州督察をもって張角を捕縛させんとした。張角らはこのままでは敗露しか道がないとして日夜諸方に伝令を飛ばし、一斉に決起する。全員黄色い頭巾を標しにしたので、時の人が彼らを呼ぶに「黄巾」または「蛾賊」と。人を殺して天にまつり、張角を称して「天公将軍」、その弟・張宝を「地公将軍」、張宝の弟・張梁を「人公将軍」と。彼らは官府を焼き、城郷を略奪し、州郡からは保障が奪われ、官員の多くは逃亡した。十日程の大暴れで天下は恐怖に堕ち、京師は震撼した。


朝廷は詔を下して各州郡の攻守器具を修理させて機械を操練させ、函谷、大谷、広城、伊闕、?轅、旋門、孟津、小平津の各関のすべてに都尉を置いた。また郡臣を召して会議する。皇甫崇はよろしく朋党を解除すべしと説き、国庫の金をはたいて西園に軍馬を買い軍士への賞与に充てるべしと言う。帝はこれを然りとし、ここにおいて天下に精兵を発し将帥を選抜する。皇甫崇は左中郎将、持節とされ、右中郎将・朱儁とともに五軍を派遣し、三河の騎士および募兵した精兵合して四万を得、皇甫崇、朱儁がそれぞれに一軍を率い、ともに潁川の黄巾軍を討つ。


朱儁は兵を進めて賊・波才と戦い、敗北。皇甫崇が長杜に軍を進める。波才は大軍を領して城を囲み、皇甫崇は兵少なく、軍中みな恐れおののいた。皇甫崇は軍官を招集して曰く「用兵には奇謀というものがあり、兵の多寡は問題ではない。今賊は草原に駐しているから、ここは火攻めを用いるべきである。果たして夜陰に乗じて火をかけるなば、賊の大いに乱れること必定。我らは出撃してこれを攻め、四面から包囲して撃てばよい。これ斉の田単が勝ちを得た計略に根を同じゅうするものである」と。まさにその晩大風が吹き、火計を仕掛けるには絶好。皇甫崇は規定の軍官たちにたいまつを取らせて城墻に登らせ、そして兵士たちを密かに圏外から包囲させ、火を放てと叫ぶ。城墻の上から投げかけられる松明。燃える敵陣。皇甫崇は機を逃さず出陣して鼓を鳴らし敵陣に当たり、賊は驚き乱れ走って逃げた。まさにこのとき皇帝が派遣した曹操がやってきて、皇甫崇、朱儁と合し再戦。皇甫崇としてはまだ30にもならぬ若造に功を譲るわけにはいかなかったであろう、大いに奮戦し敵を破り、斬首数万を挙げる。この功により皇甫崇は都郷侯。皇甫崇と朱儁は勝ちに乗じて汝南、陳国の黄巾賊を討ち、波才を追撃して陽?に至り、西華にあって彭悦を攻め、一挙これらを抜く。残余の敵は投降するか逃げて余所に行くかして、ひとまず三郡みな定まる。


また東郡の黄巾、卜己を追って倉亭まで追撃し、卜己を生捕って斬首七千余。当時北中郎将・廬植と東中郎将・董卓が張角を討ったが、これがまたまったく功なくして還ったため、朝廷としてはご下命を下して皇甫崇に頼る。皇甫崇は張角の弟・張梁と広宗で戦った。張梁の軍は精強にして勇猛果敢、皇甫崇と雖も勝つこと能わず。翌日、関門を閉ざして将士を休ませつつ、敵情を視察するや変化あり。賊は皇甫崇を相手にする恐怖にとりつかれて悄々と逃げ散り、深夜になって軍隊を立て直したものの、三日目、鶏のなく頃に陣前に出れば、闘うこと正午までに至り大いに黄巾を破る。張梁を斬り、斬首三万余、黄河に身を投げて溺死するものは五万に及んだ。焼き捨てられた輜重は三万にのぼり、賊の老人子供を俘虜とすること甚だ多かった。張角はこれに先立って病死、棺は叩き壊され、首級は京師に送られた。


皇甫崇と鉅鹿太守・馮翊と郭典は張角の弟・張宝を下曲陽に撃ち、これを破って斬る。斬首十万以上に上ったと言う。その屍は城の南の小山に一座の封土を築き、そこに全部葬られた。この功績により皇帝は皇甫崇を左車騎将軍に任じ、冀州牧を兼務させる。槐里、美陽の両県に食邑を授かり、合わせて八千戸。


黄巾の乱が平定されると、改元して中平と号す。皇甫崇は冀州の田地からの租税一年免除を願い出、大いに餓えた民を賑恤すべしと説いたので、帝はこれを是とした。百姓が歌に歌って曰く「天下大乱市井は廃墟、母子を保てず妻子失われ、ただ皇甫将軍の陰をもって安居を得る。」皇甫崇は部下を撫恤してはなはだ衆人に慕われ、毎度行軍して駐屯するときには全軍が営を築いてからようやく自分の宿営を建てた。軍官たちが食事するのを見届けてからやっと自分の食事を摂った。この当時官吏の間では賄賂が横行していたが、皇甫崇は朝廷からの賞与以外受けず、官吏はために愧じて自殺したという。


皇甫崇が黄巾を打倒してその名を天下に響き渡らせた後、朝政は混乱に陥り天下は空虚貧困となった。さきの信都令・漢陽の閻忠が皇甫崇に遊説して曰く「得るは難く失うは易く、時にこの時をもって従わず身を喪ったもの、はなはだ多くあり。これ聖人は時に順してもって動き、智者は機をによって発するとか。今将軍が難時にあって動かれるのは、易に言う失機であり、運気よろしからず、機に臨んで発さずというもの。まさに何をもって大名を保つや?」皇甫崇曰く「お前は何を言っているんだ?」閻忠曰く「天道(太陽)は遍くを照らすわけでなく、百姓もまた善きを選んで随従するもの。今将軍が兵権を受けたまま暮れを越し春を迎えるなら、大功を冬末に成就戦というもの。兵を動かすこと神の如く、謀れば必ず成り、強敵をへし折る事枯れ枝を折るが如し、雪が注がれるまで兵を堅持し、冬の間を待てば、神兵雷電の如く掃討し、屍の石に名を刻まれるべく、南方に向かって兵を動かし威徳で本朝を震わせるがよろしい。風声は海外に轟いておられるのですから、湯王武王の挙といえども今だ将軍ほどの功績ではなかったでしょう。今身を立てて功を賞せられざれば、礼と高き徳を体現する人よ、昏君に北面せず、取って代わって平安を得るべきではありませんか?」と。つまりは簒奪の誘いであった。閻忠は純粋に皇甫崇に天下取りを進めたのかもしれないが、皇甫崇にとってそれは佞言としか聞こえぬ。皇甫崇は言う「日夜朝廷のために力をつくし、心に忠義を裏切ることなし、それだけで平安ではないか?」と。閻忠さらに言葉を重ね、「このままではだめなのです。昔韓信は一飯の恩義を忘れず、天下三分の大業を為しましたが、利剣で自らの喉を突く羽目になりました。その時になって悔悟しても遅いのです。機を失すべからずして我が謀に乗りたまえ。今主上の権力は弱く劉、項に比せられ、将軍の権勢こそが今天下の鍵を握る淮陰の位置。指揮すれば風雲を振動させるに足り、また叫び声を上げれば雷名の如し。神威発奮出撃し、恩徳を施して帰順せしものを安撫する、その武威をもって投降せしものを冀州に召して軍卒とすれば、七州の大衆を得るべし。軍国の檄文飛ぶが如くに発し、大軍をもって浩く行動を起こされ、?河を渡り、孟津で馬を食ませ、佞臣たちの罪科を問うとして、巨悪積悪を除かんとすれば、児童と雖も拳振り上げてあなたにつかざるはなく、婦女は聴令してあなたのために衣服を縫うでしょう。いわんやここに勇猛の卒が揃っているのです、この疾風の勢に乗らぬ手はありますまい! 功業は必ず成就し、天下はすでにあなたに帰順しているのです。しかるのち上帝に請うて民衆の向かうところの天命を示せば、天下統一容易くなるべし。南面して帝を称せられませ、まさにまつりごとの権は新朝に帰し、漢の滅び早まる事必定。実にこれ天の与えたもうた好機、発奮してこの機を取られませ、(漢という)木はすでに朽ちて立て直すべからず、衰勢は誰の補佐あっても難なのです。はたして誰ぞが漢朝を輔弼したとて、すでに朽ちた木を立て直すことは坂を逆に登る弾丸の如き、颶風に揺られる船のごときもの、我が言の理あるところは容易でありましょう? 況や今宦官が跋扈してそれぞれ連結し、朝廷の命令など施行されておりはせぬのであります。権力は功臣に帰すべし、昏庸なる君主のもと、長らえるは難事、早く決断為されませ、後悔及ばざるなくなる前に」皇甫崇は畏れ多さに震えて曰く「非常の謀、よく用いるべからざるなり。創業の大業には確かに昏庸の君は向かぬかもしれぬ。黄巾のごとき賊、秦朝や項羽のもとでは生まれることもなかったであろう。しかし事は成ったのである、これを覆すのは難事。況やもし人が君主の恩を忘れたとしても、上天に反逆してよいものであろうか。希望的妄図を計るのはよいが、それは朝夕に禍を為すこと、わたしは本朝に忠義をなし、その節を守る臣である。謂いたいことはまだ多くあろうが、もはや放廃すべからず。なお令命あらば、死して不朽の名を残すことを考えよ。反復の論を、わたしは敢えて聞くつもりはないのだ。」と。閻忠は自分の計略が取り上げられないと悟ると、皇甫崇のもとを去った。彼も一種の忠臣であったかもしれぬ。ただその忠義の方向が漢朝ではなく皇甫崇個人に向かっており、皇甫崇に帝位簒奪の野心がなかったゆえに二人は袂を分かつことにはなったが。


 たまたま辺章、韓遂が隴右で乱を起こしので、あくる年の春、皇甫崇は詔を受けて長安に還り、皇陵の護衛を任される。辺章らは三輔に侵入を企てたが、皇帝が皇甫崇を起用したと聞くと恐れて逃げ帰った。


 当初、皇甫崇は張角を討ち、?城を通過って中常侍の趙忠の邸宅に向かう予定であったが、朝廷はその上奏を没収。またある中常侍・張譲が好を通じるためと私に銭五千万を皇甫崇に与えようとしたが、皇甫崇は汚職の銭を受けず、このため二人の間には憎しみが産まれ、張譲は上奏して皇甫崇は連戦して功なく、歳費を無駄に浪費していると虚偽の報告をした。同年秋召し返され、左車騎将軍の印綬を召し上げられ都郷侯六千戸から二千戸に食邑を減らされる。


 中平五年、凉州の賊・王国が陳倉を囲み、皇甫崇はまた左将軍とされ、前将軍・董卓を督し、それぞれ二万人を率いて王国に対抗する。董卓は快足をもって陳倉に向かうべしと主張したが皇甫崇は応ぜず。董卓が言うに「智者は時機を誤らず、勇者は猶予せずといいます。速やかに城を保全せねば、城を救うの機は失われ、全滅してしまうでしょう。速やかに一挙すべし。」皇甫崇は応えて「さにあらず。百戦百勝は戦わずして人を屈せるの兵。もってまず戦うべからず、もってまず敵の勝ちを待つべし。我勝たざれば彼は勝ち、彼は守るに足らずと思う。我らはそこを突くのである。有り余るもの九(窮)天の上に動き、足らざる者は九地の下に陥る。今陳倉は小なりと雖も、城は固く備えあり、九地に陥る事非ざるなり。王国強勢なりといえども、進を我らが阻害せずば、九天の勢に非ざるべし。その勢九天の上に非ざれば、攻者害を受けるも九地に陥ることなく、守者抜かせることなし。王国は今既に害の地に陥り、しかれば陳倉は不落の城。我は兵衆を動かして煩わすことなく、全勝の功を取る。いずくんぞなにを救えぬことがあろうや!」といってついに聞かなかった。王国は陳倉を囲んで冬から春まで、八十余日をかけるも、堅守これを抜けず。賊衆に疲労が出て、果たして引き揚げようとするところに、皇甫崇は進撃した。董卓はにわか仕込みの生兵法で「それはまずい。兵法に言うではありませんか、窮寇を追うべからず、帰る衆に逼るべからずと。窮した獣はなお闘い、迫した蜂は毒を発するのです。いわんやこの大衆では!」と制止したが、皇甫崇は「そうではない。前にわたしが撃たなかったのは鋭鋒を挫くため、今にして撃つはその衰をまったゆえである。疲れた師を撃てば帰らすところ非ざるなり。王国の衆は敗走をはじめ、もはや闘うの意気なし。整って撃たば乱れる、窮寇に非ざるなり。」といい、ついに一人で進撃したが董卓は続かなかった。皇甫崇は連戦してこれに大勝し、斬首万余を挙げる。王国は敗走の途中で死んだ。面目を潰された形の董卓は大いに慚愧し、皇甫崇を忌むようになった。


 翌年、董卓は并州牧に任ぜられるが、詔により兵権が皇甫崇にゆだねられることになると従わなくなった。皇甫崇の甥、皇甫?が軍中にあって伯父に説き、「本朝の失政は天下を傾けんばかりであり、よく安危を定る者はただ伯父上と董卓のみでしょう。今旧恨によって連結を拒んで、両者ともに立つことおぼつかない状態あります。董卓は詔を受けて兵権を得るべく、上書してこれを請わんとしていますが、これは天命に逆らうものです。また京師混乱し躊躇して進まざるは、これ人の奸に懐く故でありましょう。今董卓の凶暴不善に将士らは不服であり、伯父上が元帥となって国威これを討ち、上に忠義を顕し下に害を除けば、これ桓文公の故事といえましょう。」といえば、皇甫崇応えて「王命に従わざるは罪であり、自儘に主張しては誅殺の責を負わされても仕方がない。わたしは上奏して事を明らかにするのみ、あとは朝廷が裁決するべきことである」といって上表し、これを聞いた。帝は董卓に遣いして譴責し、董卓は更なる怨念を皇甫崇に重ねる。のち董卓が政治を壟断すると、初平元年、皇甫崇を召して城門校尉とし、これを殺さんと欲す。皇甫崇は従容として京師に向かおうとしたが、長史・梁衍がこれを押しとどめ「漢室は衰微し、あに朝廷は混乱の極み、あの董卓と雖もあなたを殺さんと欲せば殺せ、もはや国に忠義を尽くすこと能わず。また京師では侵犯略奪が横行し、廃立された皇帝陛下は董卓の意のままであります。今、将軍よ、大なるは危禍、小なるは困辱、今董卓は洛陽に在って天子とともに西しておりますが、将軍には三万の精兵があるではありませんか。至尊を迎接し命を奉じて逆賊を討ち、海内に発命して軍師を集うのです。袁氏が東から迫ると聞き及びます。将軍は西から逼って東西呼応すれば、事なり董卓を擒うべし。」と言ったが、皇甫崇は訊かず、ついに招喚に応じる。あらゆる部署は董卓の思うがままであり、詔を受けた下吏によってついに誅殺されるところであったが、かろうじて囚われるととどまった。


皇甫崇の皇甫甫堅寿は董卓ともとから仲が良く、長安から逃れて董卓のもとに投じた。董卓は酒と雅楽をふるまってこれを歓迎し、酒が入ると皇甫堅寿はそれまでとはうってかわり、直情の質をあらわにして、大義をもって董卓を責め、頭を地に叩きつけて涙を流した。座者みな感動したという。董卓は囚われの皇甫崇と皇甫堅寿を引き合わせ、また皇甫崇の議郎を御史中丞に遷した。董卓は御史中丞以下の官員が全員皇甫崇の受けた屈辱に怒りを感じているのを見て、手を差し出して曰く「義真まだ服さざるか?」と聞いた。皇甫崇は笑ってこれを許し、董卓はようやく皇甫崇派の怒りから解放された。


 董卓が誅殺されると、皇甫崇は征西将軍に任ぜられ、昇遷して車騎将軍。同年秋に太尉、冬、隆盛が落ち、免官。光禄大夫を拝し、遷されて太常。のち李?が乱を為すが、その年病没。驃騎将軍を追贈され、家中に奴僕一人を送られる。


 皇甫崇は人となり恭順にして謹慎、性格は頑固なほど職務に忠実であり、前後の上表文で国に有益な意見を述べること五百件以上に上ったが、都の両親に宛てた手紙の草稿はすべて棄却して外に漏らさなかった。門外に賓客を待たせるようなことは一切なく、当時の人々はみな彼の人柄を評して褒め称えたという。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る