第21話 マムルーク朝・バイバルス

 スルタンはの太陽と星のきらめきの間に粛然と立っていた。それはまるで狐を狙うライオンのようであった。彼は異教徒戦うための厳しい訓練を受け、そして飽くなき聖戦ジハードをつづけた。

~「昼夜にわたる戦争・バイバルスの生活」より。アブー・アル・ザーヒル~


バイバルス(1229-1277)

 スルタン・バイバルスは公正に見て、中世イスラム教世界において最も強力な戦士であったと言える。彼はシリアの白人奴隷(マムルーク)から身を起こし、ついにはマムルーク朝の創始者となり、この王朝はほぼ二百年の間、世界の大権力の一つでありつづけたのだから。彼自身は聖王ルイとの戦いに勝利を収め、アイン・ジャッラートの戦いでエジプトとシリアの覇権を握り、そして1260-77年の間スルタンとして君臨し、無敵のモンゴル軍を打ち破った。


 サラディン(1193没)はイスラム教聖戦のシンボリックな存在となり、今日の西洋においてもその騎士道精神は美徳的イコンとして、イスラム教的にはイェルサレムをキリスト教徒から取り戻した英雄として頌えられるが、本当の意味でフランク人の締め付けからイスラム教世界を解放し、レバント地方の覇権を確立したのはバイバルスであった。今日高い人気を独占するのがサラディンであるが、実際の実績を言うならばバイバルスはそれ以上のことを行った。しかし彼が史上無名に近いのは、彼の事績を記した書物や伝説の類いが西洋にほとんど流れなかったからであろう。彼の生前死後に書かれた伝記を別として、初めてバイバルスの叙事詩が書かれたのは15世紀を過ぎてからである。シラート・バイバルス(バイバルス史記)と呼ばれるその素晴らしく格調高い伝記中で、彼は素晴らしい英雄的行為、人間性と信心深さによって、何百年間か高い人気を博し、20世紀初頭にはカイロでそれぞれ30ものジャンルに分かれた朗唱者が存在したが、西欧においてはなお無名なままであった。


マムルーク朝の祖

 バイバルス政権-そして後継者たちにおいても-の主要な特徴と言えば軍事支配であった。スルタン自身が軍を躾け指揮するプロデューサーであった。彼はおよそ1229年(正確な生年は実のところ分かっていない)、キプチャクから逃げたトルコ人……クマン族……の家族の一員として産まれた。


 ロシア南方の大草原からクリミア半島までがロシア軍の侵略を受けた。逼迫されて逃げてきた少年バイバルスは奴隷にされた。彼には二人の買い手がつき、最初の買い手は彼の瞳孔に異相があるとして悦び彼を買い取った。他方もう一人の買い手の方はこれを「残忍な邪眼」として恐れ、買い控えた。


 十四歳の時に彼はアレッポの奴隷市場で下級貴族に安値で買われ、しかし長い雌伏を経てのちついにはカイロのサラーフ・アイユーブ、すなわちサラディン、エジプトの支配者の宮廷に仕えるまでになり、サラディンおよび彼の子供らにバハリヤ・マムルーク(白人奴隷護衛官)として仕官する。マムルークの素体はアイユーブ朝で創られ、これは「白人奴隷」といいつつ実質的には奴隷と言うより「エリート護衛官による精鋭部隊」であった。ムスリムの支配者は長らく中央アジアおよびクリミアからのマムルーク(文字通りの意味の上に支配される奴隷戦士)を使った。彼の青年時代は家族から孤立させられ、イスラームへの改宗を強制させられて、ナイルのアル・ラウダの特別私兵隊として扱われた。彼らはバラックで共同生活して起居し、そして過酷な訓練を受けたが、それ以外の点ではむしろエリートとして尊敬を受け、また命令を受ければ対キリスト教軍の主力として並ぶ物が無かった。後完全な訓練を終えた彼らはバハリヤ・マムルークとして奴隷階級から解放され、スルタンの家族の護衛官として一目を置かれる存在となった。


バハリヤ・マムルーク隊が歴史の表舞台に出た最初は1250年2月、アンスラフの戦いである。これ以前フランスの「夏王(のち聖王)」ルイ9世は十字軍の頭としてエジプトの地を侵し、それは総合的な意味で最良の軍隊組織であった。今や彼は前進してナイルを下りカイロを脅かした。アイユーブのスルタンはつい先日逝去したので、十字軍の2月8日の接近は、エジプト軍野営地に大きなショックを与えた。彼らの指揮官はバイバルスを見いだすと速やかに後事を託し、キリスト教軍の騎兵隊は万雷の蹄音を響かせながらマンスールの町で戦争に突入したが、致命的失策を犯した。バイバルスはバハリヤ・マムルークを率いてムスリムの先頭に立った。この時代の戦いの特徴は「獅子的英雄が敵を打ち倒す」に尽きた。マムルークは敵の不道徳に乗じて逆襲の突撃をしかけ、点在するキリスト教徒を次々と仕留めていった。また、マンスールの通りの密集する地帯に罠をしかけ、十字軍の馬を殺し疲れきった騎士たちをゆっくりと仕留めていった。おそらく、十字軍の立派に洗練された騎士たちの100人中15人が殺され、その中には208人の騎士団長も含まれた。バイバルスとバハリヤ・マムルークはかくて圧倒的かつ歴史的に重要な勝利を得た。世間が彼らの戦闘能力を高く評価し、活力と力の模範としたのも当然のことであり、神への忠勤と並んで二つのファクターでキリスト教諸国に先んじていたかもしれない。少なくともバイバルスは力によって正しさを証明した。


モンゴルの侵攻~アイン・ジャッラートの戦い

 第7次十字軍は結局失敗に終わったけれども、アイユーブ朝にも後継者不在という問題が横たわった。タラン・シャーはバハリヤ・マムルークに彼らのマンスールでの奮闘の報酬として虐殺と略奪を認めた点で継承者としてふさわしくなかった。この帝国の中が空虚で不安定な状態になると、実力を持ってマムルークの支配層が台頭した。1250年、バイバルスもまた・ラー・アル・クトゥズの一武将となり、実力者の一人と目された。その矢向、彼らは最も強大で強力な試練に立ち向かうことを余儀なくされる。すなわちモンゴルの侵攻であった。1258年、10万の大軍を以てかの遊牧民の騎兵隊は複数の道を通ってバグダッドを強襲し、東方に近いスンニ派カリフの大都市を徹底的に破壊した。モンゴル軍は基本敵に多国籍であり、多様な神を信じ、そして信仰の権利を保障されていた。誰もが彼らの前に立ちはだかる者を神の敵と認め、抹消することに躊躇いがなかった。1259年、彼らは前進してシリア、パレスチナ、エジプトの諸都市に入った。まずアンティオキアが屈服させられ、同じようにアレッポが攻撃された。ムスリムの挑戦はたやすく撃破された。しかしながら1260年早夏、モンゴルの大軍はよりよい(砂漠ではなく、牧草地の)狩り場を求めて撤退した。クトゥズはこの機に乗じて反撃に出た。バグダッドとシリアはモンゴルの手に落ちており、イスラーム世界の生存はこのエジプトと東方世界の対決にかかっていた。クトゥズはジハード、すなわち聖戦を公布し、モンゴルに抗戦した。クトゥズはモンゴルの特使を斬り、歴史家が怖気を振るうような冷酷さを示した。


 1260年9月、クトゥズはバイバルスを同道させ、シリアに打って出るや侵略者たちに立ちはだかった。2個軍団およそ1万2千人と、クトゥズらは9月25日アイン・ジャラット~別名ゴリアテの泉~で遭遇し激突した。おそらく適切な場所からより弱い集団を順次倒していったことになっているが、実際は分からない。ともかくもモンゴル人にとって、クトゥズらのエジプト軍は征服しがたい相手であった。同時代のキリスト教徒とムスリムの間の戦闘法は全くの別物だったが、モンゴルの2個軍団は比較的キリスト教徒のそれに似ていたため、ムスリム兵が両翼から弓兵で矢を射かけ、ひるんだ敵本陣に乗り込めば比較的容易く制圧できた。これはフランク人の重騎兵との戦いと本質的に似通っていた。


 マムルークの決定的勝利の要因はバイバルスのはたらきによる。彼はしばしば偵察部隊を出して状況を探るとともに、擾乱作戦によってモンゴル軍を混乱させた。彼のマムルークの対抗者は撤退の魅力にとりつかれたが、バイバルスら選ばれた少数の抗戦派はあくまでアイン・ジャッラーットの戦場にこだわった。谷と森、そして嶺に囲まれ、水源に隣接した平地で、ムスリムの軍は丘上で彼らの戦闘配備につき、モンゴル軍と対峙した。早朝、強い太陽が照り付け、マムルーク軍はゆっくりとスロープを下った。絶えずドラムを打ち鳴らし、神への祈願を叫びながら。まずモンゴル軍はムスリムの最精鋭を見つけたが、その時にはマムルーク軍は左翼別格の騎馬隊を堅持してモンゴル軍右翼を後背から撃っていた。モンゴル軍左翼は角を支配しており、ムスリムは流浪の民の盟友を遊撃としてこれを撃たせ、残った中軍を取り囲んだ。残余のモンゴル軍は獰猛に戦い丘の上に登ろうと試みたが、しかしバイバルスがこれに横撃を加えて彼らの進軍路を断った。バイバルスの同時代における伝記作家、イブン・アブド・アル・ザーヒルはこう著述する。曰く

「彼は敵前に立ち、そして彼らの最初の猛攻をしのいだ。敵は彼の英雄性を見て、彼が迫るより早く再突撃を試みた。彼は丘を登ろうとする敵の後背について突撃をしかけた。衆は彼の尽力に丘から山を登り登攀し、全方位から彼を支援した。彼は戦い、かつここで彼自身の命を賭けた。兵士たちは初めて自ら彼らの頭を選び、彼らは多いに殺戮した」


 モンゴルの将軍は乱刃の中に殺され、そして彼はシリアに残る敵を速やかに排除した。これはマムルークの絶頂であった。モンゴルの気風は排され、侵略者たちは盡く打破された。


スルタン・バイバルス

 クトゥズは彼の偉業を長く楽しむことが出来なかった。旅に出てエジプトに帰った彼は、1260年10月23日、ガザでバイバルスによって殺された。バイバルスが戦闘でみせたヒロイズムにしてみればスルタンの位をゆずられて当然であって、彼が罪を犯すに至った責任は大部分ムスリムの総意による。アイン・ジャッラーットは勝利以上に重要なことに、彼を真のイスラームの守護者として許す効果を持った。信心厚い救国者は、強奪したのではなくて神の認める最高の形でマムルークを最重要な勝利に導いたとされた。


 バイバルスは速やかに事を始め、アイン・ジャッラーットの上に彼自身の魅力によってスルタンに選ばれた。彼は冷静に情報操作に着手した。イブン・アブド・アル・ザヒールはこう書いた。「神は彼のタタール人に対するアイン・ジャッラートでの大いなる勝利を嘉した。スルタンは神の与えたもうたこの偉功と敵に強いた流血の量を記念して、マシャッド・アル・ナーセル(勝利のモニュメント)を創建するよう命じた」


 かくてバイバルスはスルタンとなった。彼が絶対に優先したのはシリアとエジプトの防衛であり、そしてモンゴル軍への逆襲であった。彼はジハードの継続を宣言し、それを成功なし遂げるにはバイバルス自身のムスリムとしての信仰心、アイデンティティーが聖戦の必要不可欠なパーツとしてあった。さらに彼を助けたのは1258年のバグダット破壊から復活したスンニ派カリフがスルタンとしてバイバルスをカリフより比較的上位に認め、1262年には彼を尊称して明確にへりくだり、名実ともにバイバルスをイスラーム世界の正当な精神的指導者と認めたことにある。誰もこれに異を唱えず、サラディン以来のジハードの指導者としてアイユーブ朝の後継者として認めた。


バイバルスの兵制

 バイバルスは最高司令官としてきわめて精密な軍令を下し、彼に率いられる騎兵たちはナンバーリングされ、精鋭として危機をくぐり抜けるために相当な訓練を課された。兵の士気を高めるためバイバルスはモンゴルの抑圧下から逃れてきた難民を迎え、彼らを訓育して軍隊組織の下層、奴隷階級に置いた。それはさながらアイユーブ朝におけるマムルークの扱いに似ていた。最も重大な変更としておよそ一千人単位だった部隊を、バイバルスは四千人単位に変えた。高いスキルと堅固な肉体、そして厳格な訓練と愛国心による聖戦意識に裏打ちされた兵士らにより、彼の軍隊は完全なプロ集団としてできあがった。彼らは非常に恐るべき重厚な戦士であり、弓矢と剣と斧と槍のすべてを使いこなし、くたびれた胴鎧をまとって馬に騎乗した(これにより正面からの攻撃から身を守った)。これはアラブ・キュレニア山脈の険しい山々、荒れた地形を機動・踏破するのに適していた。


 バイバルス自身は特別な競技場をカイロにつくらせ、特別優れた兵士たちと戦闘訓練を行い、スルタン自身鉄の教官として極めて熱心に馬術、剣術、弓術及びランス(突撃槍) のスキルを磨いたということは有名な事である。彼は並の軍隊で受ける鍛錬のすべてを通過し、むしろ戦闘技能を行うにあたって熟練した技能を保持していた。政治的にはこのスルタンは挑戦者に対して率直かつ残忍であって、水責め、磔刑、流刑など、反逆を抑止するために彼と相容れない者には酷刑をもって対した。


 バイバルスは国策実施のために、偉大な注目すべき兵站術の達人たちを雇った。このスルタンはその後直ちに騎馬による伝令システムを構築し、カイロからダマスカスまで、400マイルを三日でつないだ。彼はまた狼煙によるシグナルと伝書バトも駆使し、国内の交通整備を完全なものとし、道路や橋のコンディションを改良した。彼がとりわけ熱心だったのはスパイ網の構築と彼自身変装しての強弱の政敵発掘である。その一例としてイブン・アブド・アル・ザヒールによれば、1268年トリポリでボヘモンド6世の御馬番に扮した彼はまったく詮索されることなしに町を探索し、騒乱の原因を探ったという。


バイバルスの戦略とフランク人への反攻

 バイバルスは確かに軍事技術とその偉功、そして諜報機関の情報収集の補佐を受けて素晴らしく精力的な作戦行動をほぼ毎年行って自ら直接それを指導した。彼はフランク人(レバント地方におけるキリスト教徒の名称)、トルコ人、モンゴル人、アラブ人およびアルメニア人を圧倒し、そして堅い決心と冷酷な計算高さによってフランク人との連続した戦いを有利な条件で休戦した。彼はそれ以外の普遍的な敵を求めたが、彼の対抗者は常に容易く打ち破られた。


 彼のフランク人に対する反攻とその印象を要約すると、彼は1261年から活動的にパレスチナのフランク人を襲撃した。1263年には自らアクレを攻撃し、1265年にはカエサリヤとアルスフを手に入れた。1266年にはサファドを占領し、1267年にはもう一度アクレを蹂躙した。1268年、彼はヤッファとビューフォートを占領したのち、さらに遠くへ進軍し、アンティオクを手に入れた。1269年、彼はテュロスを脅迫し、1270にはカラック近辺の貴族たちを踏みにじったうえ翌年までかけてサフィタとアッカを占領した。このように、スケジュールは毎年のように追加された。彼は最終的にダマスカスを求め、彼以外のシリアの全王国を征服、この地で閲兵した。続いてヌビア、イエメンと小アジアに作戦の鉾を転じ、1269年にはメッカとメディナをも手に入れた。


 バイバルスのフランクに対する反抗と逆襲は、ムスリムの歴史家でさえもその悪意と峻厳に怖気を振るうほどのものだった。襲撃につぐ襲撃は、木をなぎ倒し、村を蹂躙し、家畜を殺しつくした。毎度多彩な詐術と奇策で、フランク人を打ちのめした。彼の兵士がテンプル騎士団とホスピタル騎士団の旗を抱えて恐れおののく農民たちをアクレの町から追い立てた事があった。無力な小作農たちは策略に気付いたけれど彼らは逃げ遅れ、およそ500人が殺戮され打ちのめされた。記念碑としてサファド城内の大きな円塔に戦勝をたたえる碑文が刻まれた。


 スルタンの価値観とポリシーから、このフランク人の城は報奨としてイブン・アル・フラットに与えられた。ムスリム軍の一部はフランク人たちを城塞から追い立て、そして彼らの城を破壊し新たな城を築き、東方からくるモンゴルの脅威に対抗するため、城壁堡塁を[もとのそれと比較して]より高く増した。また、やがて海岸後方からくるモンゴルの脅威を取り除くための手段として、十字軍の橋頭保を利用した。著名な著述家はそう記すが、内陸ではしばしば攻囲された城がそのダメージを残したまま修築されずに基地として近隣地区を統制していた。キリスト教諸国家は恐怖に震えあがり、防備をかためてムスリムか、モンゴルかの侵入を待ち受けるしかなかった。


バイバルスとモンゴル

 モンゴルのペルシア方面からの脅しに対し、バイバルスは彼に不可欠な柔軟性と創意の才、そして彼の戦争における以前からのルールに則して攻め寄せる東方勢力の遊牧民騎兵隊に対して焦土戦術をとり、そしてより時間をかけて彼は反撃のための主力軍を自ら創設した。秀逸な外交術でフランクと休戦協定を結び、ゴールデンホードのモンゴル軍に相対してロシアの南までをムスリム集団の前哨基地とした。共通の信念を持ってバイバルスは彼と彼の国を逼迫して競争するゴールデンホードとペルシアのモンゴル軍に相対した。彼らはそうして1273年モンゴルの侵入をユーフラテス沿岸のビラの城で迎え撃った。スルタンはラクダとワゴンで解体したボートを運び、川の上で組み立て直して進軍してくるモンゴル軍を全方位から攻撃した。彼はつづけて遊牧民たちを小アジアから駆逐するべく強要し、彼の軍歴の最後としてシリシアで勝利した。


 バイバルスは1277年6月20日、ポロ競技の観戦中に酒の飲み過ぎで倒れ、死んだ。強度のアルコール中毒にさし迫られて彼はワインのかわりにロバのミルクで過ごしていたが、どうしようもなかった。彼の殺戮と詐術の記録はいたるところ大いに噂を呼んだが、しかしながら真実を証明するにたるものは何ひとつなかった。彼はマドラスのザヒリヤ(かつてサラディンの父親の家があった場所)にドーム状の特別室を作って埋葬され、大理石でつくられた部屋は多色のモザイク模様で飾られ、今日なおその静謐を見ることができる。

 無慈悲と打算的を兼ね備えたバイバルスが創り上げた帝国の支配圏は小アジアとシリア、パレスチナとエジプト、下ってヌビアとイエメンまでに及んだ。彼は抵抗から逆襲に至り、その成功を支えたのは紛れもなく常時の軍事力であった。彼のすばらしい軍隊とそのスキルはフランク人をシリアから遠くへ追放した。彼はクリミア半島からつれて来られた奴隷の少年であったにもかかわらず、17年間、厳格かつ冷酷な支配者として成功した。

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