第12話 漢の飛将軍、李広
李広は隴西成紀の人である。祖先の李信は秦の時代の将軍で、燕の太子・丹を擒えたものである。李の家は代々射術に習熟した将門であり、孝文帝の十四年、匈奴が大挙䔥関を侵すと、李広は良家の子弟たちによる軍を率いて匈奴に抗撃、よく射て虜を殺すこと多数。戦後、郎、騎常侍とされた。しばしば文帝の射猟に随い、あるとき猛獣と格闘してこれを殺す。文帝は「惜しむべし、李広は生まれるべき時を誤った。高祖の御世なら万戸侯にもなれたであろうに!」と痛惜した。
景帝が即位すると騎郎将。呉楚七王の乱において驍騎都尉を任され、大将・周亜父に随い昌邑の戦いで名を揚げる。梁王は李広に将軍の印璽を授けたが還っても褒章が出ることはなかった。のち上谷太守となり、匈奴としばしば交戦。典属国の公孫昆邪は哭いて言うに「李広の才気は天下に二つとなし。その能を自負ししばしば敵と勝敗するが、恐るべきはこれ犠牲の数なり」のち昇遷して上郡太守となる。
匈奴が上郡を侵すと、皇上は中貴人(それなりの貴人?)数人を派遣し李広に随わせて匈奴との戦闘を学ばせる。中貴人は数十騎ではせ参じ、匈奴三人と出会ってこれと戦う。匈奴は矢を射て中貴人を射、その騎するところを悉く殺す。生き残った中貴人は李広のもとに奔って、李広曰く「これまさに射鵰(特に射撃を得意とするもの)の者に違いない」百騎を従え三人を追う。三人は馬を失い徒歩で歩いていたから、李広は三箭をもってこれに射かけ、二人を殺し一人を擒える。果たして匈奴射鵰の物であったから、縛り上げて山に登り、匈奴数千騎を睥睨して、はたしてもって騎虜を誘う。匈奴は山の上の要地を取った李広に驚いた。李広曰く「我が大軍数十里のところにあってかくのごとく敗走し、匈奴の追射を受け命ともし火。今我が留まらば匈奴は必ず我が後ろに大軍ありと察し、我を撃つことなし」そこで李広曰く「前へ!」匈奴の陣からおよそ二百里離れたところで止まり、令して曰く「みな下馬して鞍を解け」と言えば騎兵応えて「虜は多くかくのごとし。今鞍を解いては緊急に即応できませぬ。どういうことでありますか?」李広曰く「かの虜衆を謀にかけるため、鞍を解いたと見せるのだ。今鞍を解いて走れずと見れば、虜賊はその堅陣を解くであろう」まさに匈奴は迂闊に攻撃せず。しかして匈奴に白馬の将領あって出撃したので、李広は裸馬にまたがり、十余騎を従えてこれを射て、白馬の将を討ち取り、さらに軍を回頭させ百騎をもって本陣に当たり、鞍を解き、全軍馬を開放せよと令す。時まさに日暮れ、匈奴はついに最後までこれを怪しみ、敢えて進まず。夜半、匈奴は漢の伏兵部隊あるを知り、全軍を還す。翌日晨、李広はその大部隊に帰属した。戦後、隴西・北地・雁門・雲中太守となる。
武帝即位すると左右の近臣たちが李広の名将であることを告げたので、未央衛尉とされる。程不識もまた長楽衛尉。程不識は李広とともに辺境を守る太守であり、屯田して辺境を守る。匈奴が侵犯してきたとき、李広の軍には厳格な規律などと言うものはなく、隊列も陣勢も良い水草が茂るところに屯し、往々に停留し、人おのずから便じ、夜になれば誰かが自主的に巡回した。府省の文章などというものもなく、軍はおのずから動く。程不職曰く「李将軍は至極簡便、しかるに虜卒に対するに禁ずるところなく、またその士卒また逸楽であって、これ死を恐れず。わが軍は煩擾(厳しく軍律を定めている)といえども、虜卒相手にここまで放縦にはやれぬ」このとき漢の辺郡の守りと言えば李広、程不職が名将と知られ、匈奴は特に李広を畏れた。士卒の多くは李広の放縦を喜び程不職に従うを苦としたからである。程不職は孝景帝のときしばしば直言諫言して、太中大夫となり、人となり清廉で法令に厳しかった。
のち漢朝は馬邑城に単于を誘う。大軍を馬邑の路傍に伏せ、李広を驍騎将軍、属護軍将軍となした。単于はこれを気取り逃げたので、漢軍はみな功がなかった。のち四年、李広は衛尉から将軍に遷され、雁門から出て匈奴を討つ。匈奴は大軍であったため李広は敗北し、生捕られる。単于はもとより李広の賢者であることを聞いていたので、令して曰く「李広よ必生の道を取れ」と。虜衆は騎兵をもって李広を擒えたので、李広はその当時傷を負い、彼らは二頭の馬で李広を挟んで護送した。兜にもって繋ぐ縄で李広をふんじばった。李広は走ること十里、死んだふりをし、傍らにやってきた一少年の馬を奪って奔ること数十里、ようやくその余軍と合流する。匈奴は百騎でこれを追い、李広は少年から奪い取った弓でこれを射殺し、難を脱す。これにより漢朝は李広を下吏に落し、法廷の裁判で人馬をいたずらに失い、自らは捕まったという不名誉により、斬首となるところ罪一等を免じて庶人とされる。
数年後、李広と藍田県のさきの潁陰侯・灌強は、しばしば山中に猟りに出た。またまた一騎で出かけて夜をすごしたとき、他の人と田間で酒を飲んだ。覇陵亭に戻り、覇陵の尉が酒を飲んでいるのを見て、怒鳴って止めさせる。「俺は昔名をとどろかせた李将軍だ」と名乗れば尉、応答して「今なお将軍が夜で先に進めないなどということがあるだろうか、いかに!」ということで李広は覇陵亭の下に拘留された。しばらく経って、匈奴が西の遼西に攻め入り、太守を殺し、韓将軍を敗った。韓将軍はのち右北平に遷り、死ぬ。ここにおいて皇上は李広を召し、李広は右北平太守を拝す。李広は請うて覇陵尉とともに往くことを願い、軍中に至ってこれを斬り殺した。上奏して謝罪の文を述べたが、武帝は応えるに「将軍とは国家の爪牙なり。『司馬法』に言うではないか、『車に乗って式せず、喪に遭って服さず、旅を振るわせて師を撫し、征をもって服さず。三軍を率いるの心、戦士将門の力、ゆえに怒りを形にして千里を竦ませ、威を振るってすなわち万物を伏す。これ名声を夷貉によって穢され、威稜隣国に轟くなり』と。ますらおが忿に報いて害を除くは、残酷と屠殺をもってすべし。朕の図るところそれ将軍においてや。もし蹉跌して冠を免じ、頽廃の罪を請うならば、あに朕の指さすところかな! 将軍は師を率いて東を征し、辺境を安定さす。のぞむは以て右北平盛秋の戦門」として不問に付した。李広は辺境の郡に在って匈奴の号して曰く「漢の飛将軍」と。匈奴これを避け、数年境内に入ることなし。
李広は猟りに出て、叢の中に石を見る。これを虎と見違えて弓弦を挽けば矢は石に刺さり、改めて見るに虎ではなく石であった。他日同じ石を射ても矢が刺さることはなかったという。石を虎と見違えることで人間の集中力と膂力の限界に達していたのであろう。李広は郡内に虎ありと聞けば、常に自らこれを射て殺した。右北平で大虎を射たときは、虎に傷を受けながらもやはりまたこれを射殺す。
石建が没すると武帝は李広を召して後任の郎中令に据えた。元朔六年、李広はまた将軍となり、大将軍(衛青)に随い定襄郡から匈奴を伐つ。諸将の多くが虜を斬り擒えて功により侯に封ぜられる中、李広は一人戦功がなかった。これは匈奴が飛将軍を畏れて避けたためで本来李広の不名誉ではないのだが。三年後、李広は郎中令として四千騎を率い、博望侯・張騫とともに右北平から塞外に出て道を分かつ。往くこと数百里、匈奴の左賢王は四万騎をもって李広を囲んだ。李広の軍卒みな恐れ、李広は息子の李敢に向けて救援要請の手紙を出す。李敢は精鋭数十騎を率いてただちに虜衆に突撃、左右に斬って道を開く。李広に向けて「胡虜の相手など簡単なものです」と言ったから、軍士たちはみな安らいだ。李広は円形陣を形成したところに虜賊の急襲が湧き起こり、矢の降る事雨の如しで漢兵の過半が死に、漢軍の矢は悉く尽く。李広は将士に令して把弓を開かせ、不要の物を射掛けさせた。李広も自ら大黄の弩を敵の副将に発し、殺すこと数人。匈奴ようやく囲みを解き、あたかも天は闇黒、吏士みな顔色を失うが、李広は神気横溢として平素と変わらず、軍はきわめて治まり勇気百倍。翌日、戦闘継続。博望侯の軍至り、匈奴遂に軍を解いて去る。漢軍は疲労困憊の極にあり、追撃は不可能であった。このとき李広の軍の全員が覆滅、薨されて帰る。漢朝の法律では戦闘終局直前まで間に合わなかった博望侯は死罪だが金をはたいて罪を減じ、平民とされた。李広も自軍を全滅させたとして功罪相半ばし、よって賞与はなし。
はじめ、李広と従弟の李蔡はともに郎となり、文帝に仕えたが、景帝のとき、李蔡は二千石。さらに武帝の元朔中、軽車将軍として大将軍とともに右賢王を討った。功績により中率、楽安侯。元狩二年、公孫弘が丞相になったころには、李蔡は名声では李広に遠く及ばないものの、官爵九卿では李広を大きくしのいだ。李広の軍の軍吏と士卒は(この分なら自分が李広をしのいで)あるいは封侯を取れるかもしれんと思った。李広は仲の良い王朔に曰く、「漢から匈奴への遠征、李広はいまだかつてその中に居ないことがなかったが、妄りに動く諸校尉や、自分に才能の及ばぬものが軍功を取って侯となるのを何十人と見てきた。吾は彼らの後塵を拝し、しかるについに寸尺の功も封邑も得ることなく終わるのだろうか、何ぞや? 吾には侯になるだけの実力がないのだろうか」王朔応えて「将軍自ら念じてあにかつて恨むものありや?」李広曰く「吾は隴西を守った際、羌族の反逆八百人を降し、詐って同日これを殺した。今怨み事があるとすればこの一事のみ」王朔曰く「すでに降りしものを大いに殺して禍いなし、これ将軍が侯になれぬ所以なり」と。
李広は七郡の太守として前後四十四年、得た賞与はすべて部下に分配し、食事は士卒とともに摂った。家に余財はなく、一生ついに産業や不動産を語らなかった。李広は身長高く、腕長く、これよき射手の天稟であり、子孫や他人が彼に射術を学んでも決してその高みに到達することはなかった。李広は口数少なく、あまり余人と語りたがらず、軍略の計も地図さえあればそこを射るのみで、もっぱら射術に没頭した。将兵に水が足りず、士卒の水が尽くと、自ら水を近づけず、糧が尽きればやはり自分も食べなかった。寛厚な性格で部下を虐めることがなく、士卒から非常に愛される。彼の射術は敵人を見るや数十歩の距離でも的を外さず、発すれば必ず敵を斃した。しかし兵を帯びての作戦では困辱を受けること多く、しばしば猛獣を射倒しては無聊を慰めたという。
元狩四年、大将軍と驃騎将軍(霍去病)による大挙兵に李広は自らも随行をしばしば請うたが、武帝は李広も年なのだから、といって許さなかった。しばらくしてようやく許され、前将軍とされる。
大将軍は出寨に際して、捕虜から単于の居場所を探知し、自ら精兵をもってこれに向かう。李広は右将軍の軍とともに山東道を進む。東道をやや迂回しつつ、大軍で水草少ない道をゆき、その勢は衆を集めての行進に向かぬ。李広は辞して曰く「臣は前将軍となり、今大将軍とは違う路を進んでおりますが、いわんや結髪(元服)の時の匈奴戦のごとく、今一度単于と相対したいもの。願わくば臣を前将軍の任から解き、先鋒として単于の前に死したいものであります。」大将軍は密かに皇上の内意を受けており、李広と雖ももはや老年であり単于の軍に当たるべからず、恐れるは彼の意を汲まぬようにと。このとき公孫敖が新失侯、中将軍となっており、大将軍は彼を単于の主力に充てるつもりであった。なので李広の進言は徒労に終わる。李広はこれを知り、硬い決心をもって大将軍に単于との対決を求めるが、大将軍はあくまで聴かず、長史に令して封書し李広を彼の幕府に引き下がらせる。封書には「急ぎ部をもって詣られよ、書の如く」とあり、李広は感謝するどころか大いに怒りを発して右将軍部の趙食其と合し東道をゆき、そして道に迷った。あとから進発した大将軍は単于と接戦してこれを退走させ、良く戦果を挙げて還る。大軍を南して向かった李広の前将軍部と右将軍部はようやく砂漠に出た。李広は大将軍がすでに勝利を得て還るのを見て兵を合す。大将軍の長史は酒と食事をもって李広に給わり、趙食其が道を間違えた件について「衛青は天子に報告し、貴方を戦場から遠ざけるためにこうしたのです」と言われれば李広に還す言葉もはやなし。さらに大将軍部の長史は李広の幕府に人員帳簿がないことを責める。李広は悄然と「校尉たちは無罪である。これすなわち我が自ら道を失ったのみのこと。今自ら帳簿を為さん」と語った。
幕府に還り麾下に謂いて曰く「李広は結髪以来匈奴と立戦うこと大小七十余、今幸いにして大将軍が単于の兵に接し、大将軍はいたずらに李広の部隊を遠ざけ道に迷わしめた。これなんぞ天命に非ずや! 李広は齢六十余といえど、最後は刀筆の吏に裁かれまい!」と言ってついに刀を抜き自ら首刎ねた。百姓(民衆)これを聞き武帝の認識の不是を嘆き、老壮みな涙を流したという。ちなみに右将軍・趙食其の下吏は死罪が確定したが、金を払って庶人に落された。
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