第13話 楚の覇王、項羽

項羽(こう・う。前二三二-二〇二)

 項羽は本名を項籍といい、羽は字ではあるが、世には一般に項羽として膾炙する。彼は自立して西楚の覇王を称し、後世の人々は皆彼を楚の覇王と呼ぶ。項羽は下相の人であり、西暦前二三二年、楚の幽王六年に生まれた。代々楚の将門の一族であり、項に封ぜられたたためそれを姓とする。叔父の項梁は楚の大将項燕の息子である。


 項羽の一生は短く足かけ三十一歳で終わったが、しかし彼は非常に非凡な人生を送った。彼は二十四歳の時叔父・項梁に率いられて反秦の兵を起こし、その後ひたすらに戦陣を駆け抜け軍馬から下りる間もない生活を送った。彼は「力はよく鼎を挙げ、才気人に過ぐ」といわれ、呉中の子弟は彼に対して異常なほどの敬意を払った。彼は戦場の中にあっては先頭に立って敵に突撃し、勇敢に敵を殺して向かうところ披靡せざるはなく、堅陣も落とせぬ事がなかく、はなはだ多くの大勝利を飾った。彼の権勢は借り物ではなく、民衆から起こり、ただの三年にして五路の諸侯を統帥し秦朝を滅ぼした。歴史上滅多にない壮挙であったが、しかし彼は自己の勝利で内を固めることが出来ず、垓下の一戦にて全軍覆滅され、自らは自刎して身を滅ぼした。


 二百九年、項羽は叔父の項梁に従い反秦の兵を起こし、短期間内に部隊は発展し六、七万に達した。この軍は各地においてしばしば秦の軍隊を破った。翌年、農民起義の首魁陳勝が殺されると、項梁は楚の懐王の孫を擁立して楚王とし、楚の懐王と称した。まもなく、寇陶で項梁が殺されると、項羽は上将軍宋義を殺して自らが上将軍の地位に就き、楚軍の統帥者となって”威は楚国に震い、名は諸侯に聞こゆ”。このとき、趙の巨鹿が秦の大軍に囲まれて久しく、はなはだ危急。項羽はすぐさま全軍を率いて黄河を渡った。決戦の意思を表明し不退転の決意を示すと、彼は令を下して乗ってきた戦艦を沈めた。飯釜も壊し、家屋を焼き払って、三日分の食糧だけを携行した。戦場に至るや、楚軍は秦軍を囲み、全軍の将士奮い立って敵を殺し、一をもって十に当たらざるなし。秦将王離を擒え、蘇角を殺し、渉閑を死に追いやった。元来、趙を救援するはずの諸侯の軍が恐れて敢えて出戦せず、高みの見物を決め込んでいたところ、楚軍はかくのごとく勇敢に敵を殺して敵を恐慌に陥れた。秦軍を打ちのめした後、”項羽諸侯の将を召し、その門閥を較べ、彼の前に跪かないものはなく、敢えて仰ぎ見るものもなし”これより項羽は諸侯の軍を統帥する。趙の囲みを解いて、項羽は秦軍に向かって軍を展開し猛烈に攻撃し、秦軍の大将章邯は連敗を喫して士気はなはだ低下し、二〇余万人を引き連れて投降。この二○余万人を、項羽はまもなく全員生き埋めにして殺した。


 秦の主力を消滅させたのち項羽は各路の諸侯四○余万を統率し、戈を揮って西へ向かい、まっすぐ秦始皇の墓がある咸陽に向かう。楚の懐王は項羽と劉邦とが秦軍を打破するとき、約定を結ばせて”先に咸陽に入った者こそ王者である”と言った。項羽が西谷関のあたりで時間を食っている間に劉邦が咸陽入りを果たし、彼は非常に腹を立て、すぐさま関を破り戟西に秦軍、劉邦の軍隊を撃滅すべく準備する。劉邦の軍は十万人、灞上に構えるも、形勢は明らかに劉邦に不利。劉邦は張良の意見に従い、項羽の叔父項伯を買収して味方につけ、項伯の説得により項羽に劉邦の罪を許させ、并せて鴻門で謝罪会見と決した。項羽の部下は皆この場で劉邦を殺してしまうように願い、項荘が酒の席で剣舞を披露、機に乗じて劉邦を刺殺せんとする。これが史上有名な鴻門の会であり、"項荘の剣舞、劉邦に意あり"であったが、ここに待機の劉邦の部将が項荘の相手をし、その隙に劉邦は逃れた。項羽は準備をしていなかった上に謀なくして決断に乏しかったため大魚を逸したのであった。幾日かして劉邦の謀が明るみに出ると、項羽は兵を領して咸陽に入り、大いに破壊と殺戮のかぎりを尽くし、火をかけた。大火は数ヶ月間消えることがなかったという。彼は楚懐王を尊奉して義帝とし、将相を各地の王に封じ、自らは西楚の覇王を称した。劉邦の権勢を制限するため、彼は漢中地方を三分割し、そのうち一部分だけを劉邦に与えて彼を漢王に封じた。まもなく、項羽は彭城に帰り、人を派遣して義帝を殺害した。彼はまた兵を率いて北上し、斉の田栄を伐つ。


 漢王劉邦は項羽の違約と専横にきわめて不満であり、項羽北征に乗じて迅速に関東地方を回復、平定する。前二〇六年春、劉邦は五路の諸侯に使いを出して出兵を迫り、あわせて五十六万の大軍をもって東上、楚を伐ち、四月には彭城を占領した。このとき項羽は前線にあって三万の精兵を領し、昼夜兼行して帰還すると一撃の下に反徒を粉砕、直ちに彭城を奪回し、漢軍を完膚なきまで打ちのめした。漢軍は狼狽して壊退し、その損害は二〇余万を越えたという。漢王劉邦は単身数十騎の騎兵に守られて落ち延びた。楚軍は彭城の勝ちに乗じて追撃し、劉邦の父母をともに俘虜とし、直ちに柴陽に至り、ようやくここで楚軍は阻害に突き当たる。これ以後、楚漢の間には絶えず戦闘が発生し、劉邦は幾度も大敗、一度など項羽の伏兵が用いた石弩に射られて傷を負ったが、しかし気勢いささかたりとも衰えず、闘争を堅持して三年たらずの努力の末、弱を転じて強と為した。并せて使いを出し項羽に父母と妻子を返還するよう要求、漢との間に約定なり、天下平定かに見えた。


 前二〇二年、漢王は項羽の夏南に至るを攻撃、淮陰侯韓信、建成侯訪越らと会合し、垓下に項羽の軍を包囲した。楚軍遂に困難極まる。并少なく糧尽き、その晩漢軍の四方から高らかに楚の歌が唱われる。楚軍の多くは郷愁を懐かしんで意気阻喪し、項羽はまた驚き「漢皆すでに楚を得たるか? なんぞ楚人の多きや!」といって愁い、帳中に座して杯を傾けた。彼には寵愛する美人あって、名は虞。彼には名馬あって、名は騅。この両者がともに身辺に侍る。項羽は一息に杯をあおると、梗概激昂して立ち、一首歌って


力は山を抜き 気は世を蓋う

時に利あらず 騅逝かず!

騅逝かざるをいかんせん?

虞や虞や汝をいかんすべし!


 続けて唱うこと数遍、虞美人これに唱和し、両者唱いつつ傷心に哭く。左右に侍るものみな涙流れて止まず。項羽は歌い終えると馬上の人となり、わずかに八百騎を率いて夜、囲みを突いて南へ逃れ、走って東城に到達。このとき付き従う者は二十八人に減っていた。彼は東から烏江を渡って大いに旌旗を並べたことを想い、しかし今再び江を渡らんとして江東の父老に遭わせせることがないと言い、馬を下り歩兵となって漢軍数百人の中に突撃、乱戦の中に“すなわち自刎して果てる”という。彼の英雄的且つ戦闘にあふれた生涯は終幕し、彼の死後、楚の地は悉く漢に降伏し漢による天下統一が成って劉漢王朝四〇〇年が開闢された。


 項羽は農民起義軍のから身を起こし統帥を受領し、秦皇朝の腐敗と暴虐に立ち向かって戦闘し、勇敢に敵を殺し連戦連勝、これだけで彼の軍事的才能を証明するのは十分であり、彼を構成する重要な要素である。しかし彼は最後に失敗し,古今の識者にそれについて論じる者はなはだ多いが、当然正しい見解などもはや存在しない。ただ、失敗の最重要な要因でありながら軽視されがちなのは、彼が歴史の潮流に順応できなかったということではなかろうか。人民の要求が統一と安定である時期に、彼は王侯の封爵を濫発し、封建割拠制度社会に世の中を復そうとした。歴史の発展的前進に対して、潮流に逆らおうとしたのである。とはいえ項羽ほどの英雄はそうそう存在するものでないのも事実であり、彼が難を逃れて落ち延びることがなかったのが、さらに悲劇的な結末として英雄視される。

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