第11話 燕の楽毅

楽毅(がっ・き。生没年不詳)

 楽毅は戦国時代燕の名将であり、軍事家。中山霊寿の人である。先祖の楽羊は魏の文侯配下の将帥であった。楽毅は昭王を補佐して燕国を興し、強斉を伐って燕の仇に報いた。

 

 楽毅は名将の後裔であり、才徳兼備してまた軍事を好んだ。深く趙人から崇め推され、趙の武霊王の時、乱を避けて趙を離れ魏に入る。このとき燕の昭王が斉と戦い大敗、昭王はこのときの恥を忘れず雪辱を誓う。ただ燕という国は弱くまた僻地にあり、昭王は自らの力不足を知った上で的に勝ちを致すため、そこで賢者を礼遇して身を屈し、才徳兼備の士を招くべくしてまず郭魄を重用することで、天下の英才を招いた。楽毅はこのとき燕にやってきて仕え、昭王は賓客として楽毅を厚く遇した。楽毅はたびたび謙辞しするも、最後はついに昭王の誠意に動かされ、昭王の亜卿となる。


 趙を負かして斉は日増しに強大となり、斉の滑王は強悍な斉軍を率いて楚の相唐昧を破り、三晋勢力を打破して、竟には秦を攻め、趙が中山を攻めるとともにこれを滅ぼし、宋を撃破して国土を増大させる。各国の諸侯は強大となりすぎた斉の前に表面上臣従し、滑王の自負驕慢を助長した。人民は苦しみながら敢えて言わず。燕の昭王は形勢をはかり、斉伐の師を興すことを心に定め、楽毅に向かって諮問する。楽毅は分析して曰く「斉はすなわち覇国の余業を持ち、国は広く人は多く、独力でこれを攻め破るは容易ではありません。最も良い方法は趙、楚、魏と連合せられ、一斉に斉を伐つべしであります。ここにおいていわゆる“天下をあげて”しかしてこれを攻める」の斉伐方略が定まった。楽毅は趙の同恵王のもとに派遣されてともに斉を伐つことを約し、また人を遣わして楚、魏と。併せて趙を以て斉を伐つの利を説いて秦を誘った。当時諸国の国主はみな斉の潜王の驕暴を厭い嫌っていたから、ついに燕国を中核とした斉伐連合軍が形成された。楽毅が燕に帰ったのち、昭王は悉く燕の兵を発し、楽毅を大将軍に任じ趙の恵王に楽毅を授けてもって斉軍を破らしめる。楽毅は趙、楚、韓、魏、燕五国の軍を統帥し、ともに斉を伐つ。連合軍は済水の西で大いに斉軍を破った。諸侯は兵を収め国に帰ったが、楽毅は勝ちに乗じて追撃し、燕軍を率いて斉の都臨淄まで至り、城を落と土地を奪い、珍宝、財宝、祭器などを大量に収奪して燕に送った。少尉は大いに喜び欣喜雀躍、自ら前線に来て労い、士兵を饗応した。楽毅は昌国に封ぜられ、号して昌国君。楽毅は斉を囲むこと前後五年に及び、その間に斉国七〇余城を抜いた。滑王は富城と即墨城を墨守したが、ほかはすべて燕の版図となった。燕はかつてなく盛んな勢力を手に入れた。


 前二七八年、昭王が死に、恵王が即位する。恵王は太子時代から楽毅に不満を持っており、これを知るや斉の守将・田単は大いに反間の計を仕掛ける。燕で「斉の二城が落ちない原因は、楽毅が恵王に含むところあり、戦争を長引かせて斉に留まり、いずれ斉国の王となるつもりである。斉が今最も恐れているのは、彼がほかの将軍に代わることである」と流布させた。恵王はもとより楽毅に猜疑を抱いていたから、この斉の離間挑発にあっさりとかかった。楽毅はすぐに召し帰され、代わりに騎却が派遣される。楽毅は陣前にあって将を替えることの意味を深くよく知っており、不用意に帰ればおそらく誅殺に遭うとして、西の趙国に奔った。趙では楽毅を観津に封じ、号して望諸君。趙王は楽毅を寵愛し尊重し、燕、、斉に対する警戒役として用い、彼らを恐れて軽挙妄動できなくさせた。


 楽毅が趙に奔ったのち、伝単は謀略によって燕軍を騙し、即墨で大いに騎却を破ると、転じて燕軍を黄河の川辺に追い、失地を回復した。宮に迎えられて斉の襄王は臨淄に帰った。恵王は楽毅を騎却に替え、そのため敵軍に敗北し騎却が死に、かつて占領した領土のすべてを奪い返される至って後悔したが、すでに楽毅は趙に亡命した後で、楽毅が趙に用いられ、燕の窮状に乗じて攻め込んでこないかと不安がった。そこで恵王は人を派遣して彼をゆえなく避難すると同時に謝って「先王はかつて国の兵を挙げるに際して将軍に付託した。将軍は燕のために戦い大いに斉を破り、先王の仇に報いた。天下の人は将軍が為に震撼し、私もまた将軍の功績を覚えている。しかし先王は先だって亡くなり、私ははじめて立つに信頼すべきでない輩の言葉を聞いて国を誤った。私が騎却と将軍を代えたことは、荒れ野で累年を過ごす将軍を思ってのことであなたを疑い恐れてのことではなかった。故に将軍には燕に帰っていただき、わたしと国事を語っていただきたい。将軍はこの言づてを聞いて、却って私との間に隔意を思うかもしれないが、互いに悪感情を捨てて燕のため趙から帰ってきていただきたい。それでこそ先王の知遇に報いることになるであろう?」これに対し楽毅は梗概、書をしたため、<報燕恵王書>として、その中で道理に逆らって偽りを言いつくろうのは先王に対する自分の忠義に傷をつけるといい、結論して自分へのさまざまな避難や誤解に対する率直な答弁を述べ、伍子胥の訓令をひいてもし自分が燕に帰ったならやはり両者に良いことがないであろうから、といって申し開き、燕への帰属を断った。

 

 燕の恵王はのち、楽毅の息子楽間を昌国君に封じた。のち楽毅は燕と趙の間を往来し、彼は趙の客卿となり、趙の地で死んだ。

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