第10話.グスタフ・アドルフ二世

グスタフ・アドルフ(1594-1632)

 勇敢なるプロテスタントの英雄として歓呼をもって迎えられたグスタフ二世アドルフ(ラテン語読みでグスタヴァス・アドルファスとして知られる)は、片田舎の小国から彼の王国を列強の一つにのしあげたカリスマティックな指導者であった。三〇年戦争期におけるスウェーデンの劇的介入を支えた彼の戦術革命は、北東ヨーロッパでの十年間の戦争で学んだ教訓がものをいった。


 一五九四年十二月、ストックホルムで生まれたグスタフ・アドルフは、彼の役割としての古代史および言語学、そして法律とルター派神学を学ばされたが、彼自身が本来胸を焦がしたのは歴史、特にスウェーデンの往古の戦士王たちの物語と、戦争芸術に関してであった。


 グスタフは若年時は痩身だったが、壮年にいたってやや太鼓腹で猫背気味になった。しかし逞しく忍耐強く、背は高くて体躯はがっしりとしていたという。鋭敏なスポーツマンシップをもち騎手として練達の域に達しており、作戦活動の生活によく耐えた。髪と小さめの頭をつつむのは赤みがかった金髪で、それは彼のニック・ネームである「北方の獅子王」を想起させるに足りた。誇り高いがむらっ毛で、怒りっぽかったが必要なとき必要な自分の魅力を引き出して演出することが出来た。彼は贅沢品や華美な服装・装飾品を遠ざけた。彼のいつもまとう服装は軍人が身にまとう緋色の肩帯だけが装飾になった平易な淡黄色のコートとつば広帽であったという。グスタフは抜け目ない政治家であり有能な指揮官であると同時に、なかなか大した剣術家でもあった。政戦両略の技能はこの剣術家としての技に研ぎ澄まされたと言っても良い。


一章、プロシアでの研修と教訓

 王国を継承したとき、彼は十六歳に過ぎなかった。一六一七年までの講和条約が締結されていたけれども、これが終結すると彼はデンマークおよびモスクワ(ロシア)との戦争を継承した。これを通して、スウェーデンはバルト海南岸、ポーランドのリヴォニアなどの土地領域を考慮することを学び、ポーランドを襲って戦争を展開、エストニアを獲得した。以後十年にわたって続くポーランドとの闘争は、彼に軍の集中的運用を学ぶ機会を提供したであろう。


 一六二一年、グスタフは要地・リガ港を速やかに攻略し、リヴォニアに侵攻した。これが彼の最初の重要な勝利ということになる。続く四年間にわたって、ポーランド人はリヴォニアの大部分から押し出された。ついで一六二六年、グスタフは今度はポーランドの東、プロシアに注意を向けた。スウェーデン軍は重要な戦闘、メーウェの戦いで勝った。一六二六年十月一日、選抜された歩兵隊と砲兵隊の複合兵科が、堅牢なポーランドの陣地を蹂躙した。そして一六二七年八月一七日、ディルスカウで、スウェーデン装甲騎兵隊はポーランド自慢の騎兵隊を完璧に制圧し、その真価を証明した。翌日、ポーラン時の将軍たちはよく働いたけれども、結局グスタフの肩を撃ち抜く以上のことはできなかった。


 戦術レベルにおいて、これら小規模な戦闘はスウェーデン部隊、そしてグスタフ自身が始めた改革の結果による軍隊の向上を証明した。しかしながら、王はプロシアでの戦略任務上に無理をしすぎ、抵抗を受けることになる。重要ないくつかの港湾町が攻略されたが、スウェーデン軍はバルト海岸沿いの領土辺縁で彼らを取り囲んだ凄まじい局所的抵抗に直面し、停滞を余儀なくされる。


 状況はグスタフにとって大いに不都合となった。一六二八年八月、メーウェで一万の兵をもって野営していたポーランド指揮官、スタニスラス・コニエツポルスキを壊滅させんとした彼の試みは大失敗に終わった。利口で狡猾なポーランド人は田園地帯を破壊し、冬営中に腹を空かせたスウェーデン人が不名誉な撤退を行うよう仕向けてグスタフの主力一万五千と戦場で直接対決する危険を拒んだ。


 さらに悪いことが続いた。一六二九年、ポーランドのシギスムント三世はグスタフの従兄弟であるのみで無く、神聖ローマ帝国皇帝フェルディナンド二世の従兄弟でもあった。フェルディナンドはハンス・ジョージ・アルニムに兵士一万二千を授けてシギスムントに貸与した。グスタフはプロシアに二万三千の兵を持っていたが、しかしポーランドの駐屯地には今や二万六千のポーランド兵が約束されており、これに対して即応できるスウェーデンの戦力はわずかに一万四千の野戦兵力でしかなかった。コニエスポルスキと皇帝軍のアルニムが合流する前に各個撃破すべきであったがそれが叶わず、グスタフは六月二七日、ホニグフェルドでグスタフは激戦の末敗北、かろうじて撤退した。


 一六二九年九月、アルトマルクでポーランドとの六年の停戦に署名すること以外、グスタフにはどのような手立ても残されていなかった。彼自身の王国が疲弊しきっている状態で安心してしまったシギスムントは、リヴォニアとプロイセンの人々に若干の補助を与えたが、それがスウェーデンの軍資金にとって後押しを与えることになるとは考えなかった。そのため、プロイセンおよびポーランドの港町を使って多額の通行税を取ることを許可されているスウェーデンに、長期的に見て敗北を喫することになる。


二章、軍制改革

 グスタフはポーランド戦におけるひどく手強い、こちらを疲労させてくる敵に学んで、彼自身の軍隊の弱点を識別、その構造を理解し用兵を大きく修正する貴重な機会を得た。これらの改革が『軍事革命』といわれる。これに関しては物議が醸され、これが『改革であるか否か』という点で激論されて今に到るが、革命であるかなしかにかかわらず、一六三〇年までにグスタフは、すでに西ヨーロッパの戦場に大きく深遠な影響を与えることになる変化を実行していた。


 国王グスタフの軍制改革は彼自身の長らくの興味、過去と未来両方における戦史を基盤に積み上げていった。彼はひたすらに献身的であった。彼はすでに一五九〇年代において軍制改革を果たしたオランダの陸軍を手本とし、特に砲兵においてオラニエ・ナッサウ家のマウリッツから多大な影響を受けた。内部の旋回機構を改善して火力を増強したのはまさしくマウリッツのそれを踏襲したものであったし、ゆえにグスタフはマウリッツの門弟と言われる。が、王はさらによりいっそう踏み込んでより簡潔でしかも柔軟な用兵を可能とする軍事編成を加えた。


 まずグスタフは一五四四年から始まっている徴兵制(ウトスクリヴィング)に基づき、国家軍(常備軍)を設立した。これは一六二〇年時点に始まり、一人の歩兵徴集兵とともに十人の民兵を当番表、あるいは「戸籍帳」によって供出するシステムであったが、脱走者続出でなかなかうまくいかなかったらしい。それと対照的にスウェーデンの騎兵隊は外国人傭兵あるいは現地人ボランティアであったから、一六二〇年代を通じて最も管理上有効且つ有用な、そして戦術的なユニットを探究する考察が当時すでにあった。最終的に歩騎両軍は二連隊制に落ち着き、四百八十人の精強な「大隊」が一単位として構成された。一六三〇年までに歩兵隊は三から四大隊により編制された一五〇〇から二〇〇〇人の「スウェーデン旅団」で構成され、また予備軍として一大隊が後方に置かれた。王はくさび形あるいは鏃型の陣形をとる二連隊を常時雇用した。この改革により将校と下士官の比率が非常に高くなり、これが軍隊の統制と制御を容易とした。


旋条銃の集中運用がスウェーデン歩兵隊の以前より遙かに薄いが機動的な群層の採用を可能とした。これを六層に並べるというのはマウリッツの推奨した十層よりは浅かったが、多くの西洋軍に採用された歩兵隊の、扱いにくいとされる五層よりさらに深かった。一六三一年までにスウェーデン歩兵の攻撃は銃撃が主となり、これはグスタフ自身が考案した新戦術の帰結であった。かつて「あなたの敵に同じくらい多くの衆を注げ」と言ったのはスコットランドの義勇兵ジェームズ・ターナー卿の言葉で、敵に集中した衝撃力を与え続けることを教唆している。銃兵の厚みは三層でしかなかったが、その火力はかつての二倍から三倍に及び、まさに集中した火力を敵に注ぐに適した。


  それぞれの歩兵連隊は各自二つ、あるいは三つの軽装三ポンド銃を支給された。手荒い扱いに十分耐え、機動的であり、また新たに導入された近距離砲弾(キャニスター)の突風は歩兵隊・・・というよりすでに銃兵隊というべきだが・・・の火力を増大させた。熱を持った銃鉄を冷却することに関しても無視されなかった。銃兵に対してパイク歩兵の比率が低下する他国の軍に対して、グスタフは彼らを純防御的よりむしろ攻撃に使い、これで銃撃の合間を埋めることで、従前以上の高い比率を維持した。


 騎兵隊においても歩兵隊同様、深度の深みが減少していた。騎兵隊は『カラコール(フランス語で半回転? 由来不明)隊形』を雇い、諸軍と連携して軍隊の銃撃プロセスのリロードとリピートの中継テクニックに成功した。スウェーデン軍はそれら銃撃と火砲の攻撃に継いで、すぐさま抜剣突撃できるよう訓練された。スウェーデン騎兵隊の戦闘効率は銃兵および砲兵の綿密な支援を受けて向上した。


 グスタフの改革の真骨頂は近距離火力と衝撃力の融合を通し、敵の最重要を一気に叩くことのできる高度に組織化された、そしてきわめて忠誠厚く従順な軍隊を創り上げたことにあろう。のちの作戦が表すように、これはきわめて高度で敵にとって手強いコンビネーションであった。


三章、ドイツ上陸

 ポーランドとの和平がグスタフのドイツ遠征を可能とした。ドイツでは皇帝フェルディナンドのカトリック軍と、プロテスタント諸侯の連携の取れない連合軍の戦争が一六一八年から続き、エスカレートしていた(一六一八年から一六四八年まで三〇年間続いたため、この戦争は三十年戦争と言われる)。一六三〇年までに対立はプロテスタントにとってひどく凄惨なことになっていた。グスタフはプロテスタントルター派国家における、特に敬虔な国王であったからこれに介入することをよしとしたが、しかし彼は介入のための大義名分が小さいことに懊悩した。彼ののちの名声と評価にかかわらず、この戦争は反カトリック教徒の『革命戦争』ではなかったからである。そしてなによりスウェーデンには金がなかった。そのときスウェーデンに資金援助に来たのが、対ハプスブルク家抑制のために策動するフランスであった。フランスはスウェーデンと同じくハプスブルクの覇権主義に対抗していたし、またポーランドへのフェルディナンドの軍事援助はグスタフを苛つかせた。そしてとりわけ、帝国の野心がスウェーデンの安全を脅かしかねないという危惧があった。


 一六二七年、デンマークのクリスティアン四世が帝国に戦争を仕掛けると、フェルディナンドは軍をバルト海に送って報復した。帝国主義者は南デンマークを侵略した。一六二八年九月のウォルガストにおけるクリスティアンの敗北は、ハニグフェルドでグスタフに痛恨の敗北を喫したプロシア人たちの中にも転換をもたらした。ハプスブルグ家が沿岸、あるいは『スカンジナビアの湖』に海軍基地を作ることは明白であり、このいわゆる『バルチック・デザイン』はデンマーク以上にスウェーデンを怒らせた。一六二七年時点に戻って、まだ彼がプロシアの作戦に陥らせられる前、グスタフはでに彼の信頼できる友人にして宰相、アクセル・オクセンシェルナに皇帝軍との戦争不可避を告げている。すでにデンマークの多くを押し流さんとしている「カトリック連盟」のひたひたと押し寄せる波が、もしスウェーデンをも水浸しにする計画を持つのであれば、それは止められねばならなかった。


 一六三〇年六月、グスタフはリスクダーゲンにおいて議会に宣誓して、ドイツに個人的に介入することを決した。彼は全てのスウェーデン人が犠牲を払うことになるであろう厳しい戦争を予測したが、最悪彼一人でも戦う気概であった。「しばしば水差しに貯めた水がついにはあふれこぼれるのと同じように、多くの場合において彼ら(プロテスタント諸氏)の生活と彼らの領域を危険にさらしていた敵は、これを敗ってそれ(敵意)を失わせなければならない」


六月二日、グスタフは一万三千人の兵を引き連れてストックホルムを出帆、七月六日にオーデル河口でペーネンリンデに上陸した。迅速な行動でウーゼドムとシュッティンから追い落とすと、逐われた人々は地元の支配者、ポメラニア公に、この侵略者がドイツの中に足を踏み入れる足場を認めるよう請うた。一六三〇年残余の期間において、スウェーデン軍は北ドイツ諸侯が自軍に集結するのを待ってポメラニアに滞在したが、ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルクやブランデンブルクのゲオルク・ウィルヘルムのような重要人物が皇帝への叛逆に二の足を踏んでいることを知った。しかし支持を失うよりより以上の利益、特にメクレンブルクとブランデンブルグの所有権を失われた公爵クリスチャン・ウィルヘルムと諸地方の辺境伯、マクデブルグ、エルベ上の戦略上重要な市の大主教職の前任者などを味方につけたことは大きい。


 スウェーデンの橋頭堡は次第に拡がっていった。一六三一年までにメクレンブルグの大部分が占領されるに到る。グスタフは戦術的前進を継続し、南方ブランデンブルグにカストリンおよびフランクフルト・アン・デア・オーデルを獲た。しかし友軍たるマクデブルグを救援するには、その行進速度はなお遅かった。五月二十日、プロテスタントの要塞マクデブルグに帝国主義者ヨハン・セルクラウス・ティリーの軍が襲撃をかけ、そして恐怖の暴風雨をヨーロッパ中に知らしめた。その軍のあまりの残忍性にティリーは一時解雇されたという。マクデブルグの凄惨な運命に惹起されて、ブランデンブルクのゲオルク・ウィルヘルムは一六三一年六月、グスタフを支持することを正式に表明。これはタイムリーな報せとなり、ケラスコの和平によって二日後に批准され、帝国主義者の軍隊は北イタリアのどこと戦うかを自由とされた。軍備補強の必要を求めつつ、ティリーはグスタフとの対決を求めてマクデブルグの硝煙たちのぼる廃墟を立ち退いたという。


スウェーデン同様に帝国軍も財政難で供給が停滞がちであり、補給の多くはザクセンの金持ち、またまだ荒廃していない領土からの徴発によった。九月四日、ティリーはメルセブルグとライプチヒを襲撃して、双方進入を果たした。ヨハン・ゲオルクはただちに二万三千人の退役軍人および一万八千人の未熟なザクセン人を加え、グスタフに協力することとした。九月一七日、ブライテンフェルトの近くエルベ川下流で、グスタフと三万一千を率いるティリーは対峙した。ちなみに、現在もライプチヒの北には穏やかにうねった田舎の中の村が現存する。


 ティリーが粉砕できず逆に粉砕されて事実上全滅したということは、グスタフがバルトという劇場の外について無知であったがために、その勝利の大きさに誰より彼グスタフ自身を驚かせた。ヨーロッパはグスタフの新戦術に、まさしく震撼した。この戦闘によって冷酷さを発揮した、熟練した軍は、ドイツのプロテスタントに彼らの新兵器を与えたが、しかし国王はすでにバルト南岸から帝国主義者を押し返すという目的を達しており、次にどう行動するか疑問を抱き始めた。


 グスタフが選択すべきを熟考する間にティリーはザールとウィーザーを越えて撤退し、彼の軍隊を再建する猶予を得た。一方でグスタフはラインとメーンに沿った肥沃なカトリックの土地を、戦争に倦んだ兵士達を率いて南西に拓いた。ブライテンフェルト-プロテスタントのためのこの戦争最初の大勝利-にもかかわらず、若干名を除く多くのスウェーデン人はもう中立を好んだであろう。彼の非常な軍隊の前に、今まで彼らの領域に近寄ったとき、グスタフを支援しなければならないと感じた支配者たちからすらそのサポートが途絶え始め、このような中途半端な『同盟者』はグスタフに汚れた物資や汚い食糧を提供した。グスタフはしばらくの間はドイツのプロテスタント支配者から人気があったが、やがてその人気と名声は遠ざかったのである。それでもグスタフは宗教的熱狂を防波堤に、彼の偉業を記念する出版物や工芸品に心を楽しませた。    


 一六三一から三二年の間に、帝国主義者たちは彼らの安定を取り戻した。北斉でパッペンハイムがスウェーデンのコミューンを襲撃し、ティリーは新たな作戦のための力を蓄えるべくバヴァリアにポジションを取ったが、一六三二年三月の時点で七十三才という年齢に悩まされた。


 ティリーはスウェーデン軍をハンブルグから追放すべくイベントを起こしたが、グスタフの対応は快活果断、そして残酷なまでに効果的であった。彼は一ヶ月以内に南に機動し、三万七千の兵でティリー軍二万二千に反転逆撃、四月五日、船橋がレヒ川の対岸に建造され、砲兵砲火の一斉掃射によりバヴァリアのティリー軍は破壊された。ティリーは七十二挺の鉄砲による集中砲火の弾幕の中をかろうじて生き延びたが、このときの怪我がもとで死んだ。年齢からいって天命と言って良い。バヴァリアの地は無力に横たわることとなり、カトリックの希望はどん底まで落ちた。この危機的状況で一六三二年四月、残存の帝国軍を指揮できる唯一の男として起用されたのがアルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン、その冷笑的態度と貪欲とによって十七世紀の諸指揮官の中でも異彩を放つ男が、信仰衰えたプロテスタントを伐つことに決められた。


 帝国軍敗北の原因が極端に軍の脆弱性によることを熟知しているヴァレンシュタインは、用心深く外交的・政治的な活動をした。一六三二年七月、彼はニュルンベルグのすぐそばでアルテ・フェステと呼ばれる古城近郊の、きわめて強化された土地を戦場に選んだ。八月二十四日、グスタフはここからヴァレンシュタインを引きずり出すべく圧倒的な努力と粘り強さでもって襲撃したが、徒労に終わった。多数の死傷者と傷病者、逃亡者によって戦線を維持できなくなり、スウェーデン軍は十月、最終的に北西へと退いた。彼の部下がボヘミアとシレジアから退去した際、ヴァレンシュタインは個人の名を以てザクセンを侵略、十一月一日、ライプチヒは再び帝国主義者のものとなった。


 二週間、ヴァレンシュタインは彼の軍隊をまとめておいたが、十一月十四日、冬営所に彼らを散開させた。これは諜報機関がスウェーデン軍がリュッツェンの本部に止まっているとという報告をもたらした次の日のことで、情報は有益だが高くついた。彼は先遣隊を放って攻撃させたが、これを集中させることが出来ず失敗した。十一月十六日、リュッツェンで両雄が対陣したとき、グスタフは夏の損失にもかかわらずなお一万九千人を要していた。スウェーデン軍と帝国軍はグスタフがブライテンフェルトで使ったように新戦術をもって戦い・・・といっても練度精度ともにスウェーデン軍の方が数等上ではあった・・・両軍の士卒が疲れ果てるまで行われた。それこそ地に臥し倒れる者の上や下でも、残忍で凄惨な、強打者同士の剛打合戦の様相を呈した。その夜、六千の死傷者を出し、ヴァレンシュタインは悄然と引き上げた。ただ彼の砲門と荷駄を捨てていっただけでなく、彼のザクセンの征服地をも放棄してボヘミアへと退いた。このときヴァレンシュタインは自分の運命を占星術により悟っていたと言われる。


 戦勝国スウェーデンが獲たものは非常にわずかで、彼らの損失は大きかった。なによりグスタフがすでに殺されていたことが判明したときのスウェーデン将士の悲しみたるや。彼は白馬ストライフを駆り騎馬隊の先陣を切って突撃、彼は味方にとって一種のカンフル剤であり、絶対の勝利の象徴であった。それが銃撃によりあぶみからはじき出され、落馬して引きずられた。彼が泥濘に下を向いて横たわったとき、なにものか名も残らぬ下士官の銃弾が彼を殺した。略奪者により取り上げられた遺骸は、争いが終わった後なお取り戻されず、ただ国王死すと識別されただけであったという。


 人々にとってグスタフの死を信じることは困難であった。その十二月のニュースが虚偽であることに、ロンドンの侍従は二百ポンドをかけることを厭わなかった。ドイツにおけるプロテスタントの絶頂、グスタフと、そのリュッツェンにおける事業不完全なままの死。国王の死は真空状態を残し、彼の娘クリスティーナ女王は当時まだ六歳であったから、グスタフの有能で信用できる友オクセンシェルナが摂政となりこれを輔佐した。一六二〇年代のポーランド戦争で多くを学んだ指揮官たちは、彼ら自身の才覚と、スウェーデンがグスタフと彼の献身的な兵士達の優れた能力によってよい転職先を確保・管理でき、スウェーデンを離れるものが続出した。そんな中ホルン、バナー、トルステンソンらはスウェーデンに留まりなお領土を拡大し、三〇年戦争が一六四八年ウエストファリア条約をもって終結したとき、スウェーデンは列強の一国に引き上げられていたが、一代のカリスマを失った国家には早くも凋落の影が兆していた。  


コラム

「ブライテンフェルトの戦い」

 ライプチヒ郊外ブライテンフェルトの平野にて、敵手ティリーとグスタフの軍が明暗を分けたのがブライテンフェルトの戦いである。ティリー率いる帝国軍歩兵隊はスウェーデン軍の真っ向向かいに布陣した。

 十七のテルシオ(スペイン式方陣。歩兵の中にはパイク槍兵とマスケット銃兵が含まれる)の中心にはそれぞれ五十人が記録され、また三十人等級の深度に分かれる。それが騎兵隊によって翼を整えられる。全ての射手はライン川を挟んで中央部に集結した。

 対すにスウェーデン-ザクセン軍は二つの別個な軍隊により構成された中にあり、まず未審理のサクソン人が左翼をとり、経験豊富なスウェーデン軍は中軍と右翼を担当した。

 それぞれの部隊が騎兵隊による側面攻撃を受けた。ザクセン人と異なり、スウェーデンの歩兵隊は六等深度の五百人大隊で戦った。この大隊は全て三隊組でTの字形の旅団にグループ化され、人数的には同等ながら密度が高い一千五百人のテルシオに当たった。彼らの敵手と異なり、スウェーデンの歩兵隊は十分な備えをして、深く精密に組織されていた。銃兵がスウェーデン騎兵の間に派遣された。

 それぞれのスウェーデンの旅団が三-六ポンドのマスケット銃によって支援され、加えるにグスタフは五十一門に及ぶ重野戦砲を配していた。ティリーは大砲の数で上回られるだけでなく、二十時七分、銃撃によって創を負った。それでも帝国主義者把持部たちの信じる無敵の信仰という武器を振りかざして進むことが出来たが。

 戦闘は伝統的砲撃戦で始まった。不安げなザクセン兵にめがけて方向転換する前に、ティリーの無様なテルシオはラインの中心へと向かって鈍重に前進した。

 この時点までに双方側面の騎兵は機動を開始していた。ゴットフリート・ハインリヒ・フォン・パッペンハイムは、頭から膝まで全て黒一色に統一された甲冑を身につけ、恐るべき彼の胸甲騎兵隊を率いて帝国軍の騎馬隊を先導した。マスケット銃を装備した騎馬隊のの中に配されたグスタフは厳しく個人の名において指令を下し、ここに史上最初の銃兵隊斉射戦術が現出する。敵の潰乱の中を騎兵隊が裁撃した。

 皇帝軍右翼は非常に困難な状況に陥ったが、エーゴン・フォン・フュルステンベルグの対応は速く、選帝侯ヨハン・ゲオルクの歩兵隊を通じてティリーの足を踏みとどまらせた。 ザクセンの騎兵隊が壊滅し、その軍が排除された。あるいは帝国軍の勝利が確かなものになろうとしつつあった。

 スウェーデン軍左翼、グスタフ・ホルン大将麾下の四千は危険にさらされているように見せかけていた。この偽りの危険こそがグスタフの戦術システムの真価であると証明するため、スウェーデンの柔軟性をもってホルンは、まず脆弱な面を見せ、ついでそれをカバーするために機動し、予備兵を出して、しかるのち反撃に転じた。敵がまだ疲弊していて、ザクセン人との衝突による混乱から立ち直っていないうちに、彼はティリーのテルシオを打ち破った。一方で突撃騎兵隊と銃兵隊の火力によるコンビネーションが、ついにしつこいパッペンハイムを打ち破っていた。グスタフの勝利を確信した右翼が中軍に向きを変え、銃口にティリーをとらえてぐらつく歩兵隊の頭上にぶっ放した。これがスウェーデン軍勝利を確定づけた。負傷したティリーは北西へ逃れ、疲れを知らないパッペンハイムは軍の残存物を回収して撤退した。

 およそ七千六百人の帝国軍が殺され、九千人が傷つくかあるいは捕虜とされた。さらに脱走者四千。スウェーデンの死傷者はあわせて三千未満、ザクセンの損害は一千五百足らずだったという。グスタフが考案した歩兵、騎兵と砲兵隊の効果的統合・・・三兵戦術・・・は圧倒的であった。 

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