第8話 アレクサンダー・スヴォーロフ
アレクサンダー・スヴォーロフ(1729ー1800)~ロシアの孫子、あるいはトルコ、フランス、ポーランドの征服者。
ほとんどの西洋人に知られていないことではあるが、このロシアの将官は18世紀、ヨーロッパじゅうを席巻したナポレオンの進軍を止めて、そして彼の将軍を成功裏に打ち負かした唯一の将帥である。その著書「勝利への科学」は後世の軍司令官に多大な影響を与えた英知の宝庫であり、前線の兵士たちに不可欠な士気と鍛錬、自発性の向上をベースに、主としてロシアの小作農兵を適切な兵士に鍛え上げる目的で書かれた。スヴォーロフは複雑な人物であったが、しかし彼の哲学は多分に「最良の勝利のためには個々人の激しい訓練が必要であり、戦闘は単純でなければならない」という発言に要約される。
この点に関してスヴォーロフは優れた模範的な軍人であった。彼はおよそ100度の戦いに参加し、そして一回残らず勝利した。それらの勝利は彼の、慣例に従わない型破りな戦術と、荒々しいほどの兵士の訓育によって為された。彼はモスクワの退廃的文化を避け、その間にこれらの勝利を達成した。スヴォーロフは軍事的指導力を制限する18世紀のロシアにおいて、皇帝に対しする卑屈な追従の言葉を持たなかった。
多くの軍の指導者が上流階級の快適な生活に心をいたしている間に、彼は主として戦場にあり、宮廷での陰謀を無視した。彼はただ民衆と彼の指揮下の兵士たちからの尊敬を求め、それを獲得した。物質的快適さにおいて、彼は兵士と同レベルの水準に自分を置いていた。
スヴォーロフは1730年、モスクワで生まれた。彼の父ヴァシリー・スヴォーロフは軍長官、あるいはロシア軍の最高権威であり、また上院議員の資格保有者でもあった。母はアルメニア人。彼は病弱な子供であり、父は息子に対してどんな軍事レベルにおいても成功する望みをほとんど持っていなかった。それゆえ彼はただ官庁職につけられるにとどまった。
しかしながら、スヴォーロフの克己心と懸命な鍛錬は、彼の父が彼に与えていた心身の制限を克服するようになる。彼は独学で4カ国語を覚え、そして父の巨大な書斎から軍の歴史、戦略と戦術を学んだ。また彼はせわしなく厳しい肉体トレーニングと体質改善に励んだ。
彼の献身的努力は、彼の祖父ギャニバル将軍に多くの感銘を与えた。彼はヴァシリーに熱心に孫の軍事的キャリアの追求を勧め、十八歳の時、スヴォーロフは軍隊に入隊し、そして士官候補生クラスに挙げられた。彼はセミョノフスキー近衛騎兵連隊で六年を過ごした。
彼の最初の戦いは1756-1763間に行われたプロシアとの7年戦争の一部であった。この時期までに彼の能力に関するすべての疑惑は葬り去られており、スヴォーロフは有能な指揮官として野戦での活躍を賞賛され、大佐に昇進した。彼の経歴の本当の意味での成功は1762年、大帝エカテリーナ二世の即位の後のことである。
スヴォーロフはポーランドで職務を割り当てられ、そして弁護士による暴動が起きた。彼はプラスキー将軍の軍を破り、クラクフを占領した。この戦争はロシア、オーストリア、プロシアによるポーランド分割の前兆であった。戦後まもなく、彼は少将に昇進した。
これらの戦闘の間にスヴォーロフは彼が独自に作り上げていた戦闘教義を実行に移した。それは複雑な訓練を避けてより基本的な(単純な)精密さに頼り、侵略と直接突撃の敢行を強調するものだった。それは慣例に従わない取り組みであったが、しかし敵軍に対する大胆な行動は有効だった。彼は辛抱強さ以上に、性急な攻撃をこそ強調した。「目で判別したならすぐさま攻撃すべし。それが勝利の鍵だ」と彼はコメントする。
スヴォーロフが次に経た大戦は1768ー1774のロシアートルコ戦争であった。オスマン帝国はロシア人の大敵であったが、彼は1773年までこの戦争に投入されることがなかった。しかし一旦投入されるや彼の影響は絶大であり、オスマン軍に対する彼の勝利はその並外れた野戦指揮官としての評を決定的に確立した。しかしながら、彼の政治と政府に対する軽蔑もまた、この時期明白になった。
彼はトルコ人の反抗に対して許可なく行動を起こし、そしてそのために裁かれ死刑を宣告された。しかし、彼の政治や皇室に対する不作法で時としてけんか腰の態度にもかかわらず、軍国主義者のエカテリーナ二世大帝は彼を擁護する立場を取った。彼女は議会の評決をとりあげず、ばかりか勝利者は裁かれるものではないと言ってスヴォーロフを守った。
1774年、条約交渉が失敗したのち、彼はコズルカの戦いでオスマン・トルコ軍と戦った。トルコ軍は40,000人という圧倒的数の優位を誇っていたが、ロシア軍は優勢な火力でトルコ軍を分断し、そして制圧し、打ち負かすことを可能とした。
この戦闘で、彼はトルコ軍の一部がダニューブ川支流を渡ろうと試みているのを捕らえた。彼のすさまじい突撃はオスマン軍を後背から圧倒してその主力を後退させ、ロシア軍に野営地を侵略する機会を作った。この戦におけるロシア軍の損害わずかに200、トルコのそれは3000を超えた。この損害のためトルコ軍は黒海北岸の多くを放棄し、これらはロシアの湖に変わった。戦争は程なく終わり、彼は中将に昇進せられた。
「兵士たちの将軍」として、スヴォーロフは既に彼の性格の多様性に対する評判を獲得していた。彼は、装備と賃金が適切に支給されることが容易ではない原始的なお役所主義の時代に特急便ネットワークを確立したことで賃金の未払いを抑えて、それにより、彼の軍隊はまた尊敬されるようになった。
スヴォーロフの著作は多くの引用を含み、彼を軍事問題の宝庫、ロシアの孫子と言わしめる。彼は機会を最も早く捉えることが遅滞よりも完全な状況を生む、と信じ、また雄弁にこう表明する。「攻撃は話題に上った瞬間、神の送り給うものとともに」するべしと。また、彼はプロイセン流の熱狂的な精神論的軍事アプローチを全く信じなかったが、彼の兵士たちに徹底的な鍛錬を課し、「ハードな鍛錬が戦闘を容易にする」と語った。
彼以外の軍隊は敵を打破するためますます野戦砲に依存したが、スヴォーロフは銃剣突撃に対する絶大な自信を持っていた。18世紀のライフル銃はリロードに非常に時間がかかり、時として一分以上の時間を要した。そのため彼は敵に出会った際まず銃剣突撃を行い、しかるのち射撃に移行するよう命じた。「銃弾というのは馬鹿なやつだ、ただ銃剣だけが戦闘のなんたるかを知っている」とは彼の「勝利への科学」に記された有名な文言である。
彼は速度と可動性、銃弾の命中精度を精密に計算し、主に銃剣を取って戦うよう訓練した。それらすべては彼が個人的に監督し、その戦略の中で慎重に実行された。W・リヨン・ブリースは彼のスヴォーロフの伝記の中で、彼自身が作戦上の計画に参画し、力と制御の優越に関する小規模な判定を任され満足していたことを記す。「この指揮官はわたしが自らこの仕事に取り組むことに呆れないことをわたしは知っている。スヴォーロフは将官である前に少佐であり副官であり、そして伍長以下のすべてであった。わたしは自らこれを見て、皆にこれを教示することが出来た」
彼の成功のための信念の第一は戦争に理由を見失わないことであった。第二に、巨大な軍事的成功を喜ぶ現代の将官とは異なり、スヴォーロフはその人生においてほとんど後退することをしなかったが、それは決して後退を実現不可能な戦略的選択であると考えたからではなかった。彼が常に後退をよしとなかったのは、どちらかといえば彼の兵士たちに必勝の信念と信頼を植え付けるためであった。成功の第三の理由は士官の数を制限することで、トップ賞間と前線の兵士たちの間の齟齬を減らし、いっそう能率的な軍事機構をもたらすことにあった。
スヴォーロフは訓練に容赦なかったが、疑いなく明快な方法で彼自身の軍卒とコミュニケーションを図った。それはフリードリヒ大王やマールバラ公のような、過去の兵站重視型の将官に類似していた。彼は軍隊の補給ラインと生活状況について注意を払い、これによって兵士たちの全体的な健康を供給した。彼の軍駐留地では他所より遙かに疫病発生率が低かったという。
しばしの小競り合いに勝ち続けた後、スヴォーロフは1787ー1792年、ロシアートルコ戦争の指揮を執った。彼はオカコフとキンブルンの戦いで勝利した。1787年、キンブルンでトルコ軍はロシア艦隊を止め、オカコフを長期機に渉って防衛しようとしたが、スヴォーロフは開戦早々逆襲に出て有利を得、ボートに乗ってトルコ海軍の艦艇を奪い敵地に上陸した。
猛撃によりスヴォーロフは2度けがを負った。それが後退するトルコ兵の希望であったが、彼は一切けがを気にかけなかった。このことを念頭に置き、サフキンは「作戦芸術と戦術の基本原則」で彼を引用する。「猛然たる追求は敵に考える時間を与えない。勝利によって敵を立ち退かせ、そして勝ちに乗じて敵の退路を断つべし」。
戦闘の最終被害者はロシアに400人、オスマン・トルコ側に4,000人を数えた。戦争はなお継続し、1790年、彼はダニューブ川上流の、彼の勝利の中でも最も有名なベッサラビアでイスマーイール要塞を攻撃した。要塞はその巨大な威容のため抜くこと敵わずと思われたが、それでもなおロシア兵たちは成功裏にこれに殺到した。トルコの兵士たちはこの要塞に固執すべく命令を受けていて、ロシア語による降服の最後通牒を固辞した。
この勝利は対トルコ戦争における彼の軍事行動の白眉、オスマン・トルコの壊滅的敗北と戦争のターニングポイントと見做された。この勝利を祝うためロシアで初めて国家が斉唱され、彼の名は輝かしい不朽のものとなった。彼の戦争による奉職に、エカテリーナ二世大帝はリミニスクスキー公の称号を持って報いた。
1794年、スヴォーロフはポーランドの蜂起鎮圧を命ぜられた。マチェヨヴィッツェの戦いで、ポーランドの増援部隊が到着する前にロシア軍は攻撃が可能な状態にあった。それは速やかだが残忍な作戦であった。ポーランドの指導者タデウス・コシューシコは捕獲された。ロシア軍はその後、ワルシャワと隣接するプラハの町を攻撃した。
プラハに対する攻撃の間に、コサックが20,000人の市民を殺した。この大虐殺について、コサックがスヴォーロフの指揮下にいたかどうかについては若干の疑問がある。しかし彼がコサックの殺戮行為を許してしまったことは、やはり彼自身にすべてではないにしろ責任があるといえよう。
多くの市民が略奪と強奪という形で死んだことで、この作戦はヨーロッパのスヴォーロフ評を無情で残忍な指揮官である、とした。しかしながら、スヴォーロフの計算に因れば、この殺戮も必要で正当なものだった。戦争の暴力的ではあるが迅速な終焉は、長く続く軍事衝突よりはるかに人命の損失を少なくするであろうから。
彼は言う「義務を果たすと言うことは実に難しい。わたしはプラハで7000人を殺したために野蛮人であると思われた。ヨーロッパではわたしをモンスターと呼ぶと、わたし自身新聞で読んだ。だが、わたしは人々に問いたい、長引かせ100,000人を戦争に引きずり込んで殺すより、むしろ7,000人の死で早々に戦を終わらせた方が良かったのではないか、と」
戦争が終わりワルシャワが攻略されたとき、彼は女帝に彼独特の、鋼鉄のように堅い方法で喜びを表明した。彼がエカテリーナ二世に送ったメッセージはただ以下の通り。「やりました。ワルシャワから。スヴォーロフ」
ポーランドでの戦争が終わった後、六十四歳の老指揮官はコンチャンスキの彼の土地に隠棲した。彼は彼の兵士たちと既にそうしていたのと同じように、今度は町民らと同じ水準で暮らして、農業に従事した。彼の引退のすぐ後、1976年にエカテリーナ二世大帝は崩じ、その後を継いだ息子パーウェル一世はスヴォーロフとそりがあわず、スヴォーロフの側でも軍全体について批判的になっていたから、パーウェルは彼の側近と軍から彼を断絶した。
彼の母親と異なり、パーウェルの人格はこの大将に従順ではなかった。パーウェルはすべからく華美を好み、パレードの訓練下においてスヴォーロフにつま先のカールした靴を履かせて物笑いの種とした。老いた将軍は王宮からそっぽを向かれて退けられたが、しかしナポレオン一世という空前の存在がフランスに現れたとき、パーウェルは急転、心変わりを見せ、1798年、スヴォーロフにイタリア防衛戦の指揮を執るべく再び軍に再雇用した。
ロシアはフランスをイタリアから駆逐するため、オーストリアと手を結んだ。彼の軍を準備したヴォーロフは、オーストリアのフランツ皇帝から野戦元帥に任ぜられ、かのナポレオン・ボナパルトがエジプトで多忙に戦っている間に北イタリアに到着した。オーストリア軍と併せて45,000の彼の軍は、カッサノ・デ・アッダ、トレビア、そしてノヴィで連戦連勝、最初の二戦で彼はフランスのジャン・モローとエチェンヌ・マクドナルド両大将を撃破した。ノヴィにおいて、スヴォーロフは彼の既に完成された先述を実行し、フランスの指揮官パルテルミー・キャサリン・ジュベールは戦いの冒頭時点であっけなく死んだ。この最後の勝利が、本質的にフランス軍をイタリアから追い出した。
にもかかわらず、オーストリアと英国は彼が南ヨーロッパを支配するのではないかと危惧し、恐怖を抱き始めた。彼が非常に優れた基盤を手に入れて大陸の中心に反転攻撃を仕掛けるのではないかと疑ったのである。彼らはスヴォーロフがスイスに進軍して直接にフランスを攻撃するより、むしろオーストリア軍の強化を要請し、弾薬と補給がオーストリア人によって手配されることを約束した。そのため、スヴォーロフは、St.ゴットハルト山道、スイスへの最も早いけれども最も難しいルートを守り、限定されて補給でもってフランス軍を攻撃しなければならなかった。彼は三度敵の裏をかき、そしてフランスの陣地を突破した。
9月25日、彼はルツェン-ラック間のトンネルと悪魔の橋(Devil's Bridge)を確保するため、再度フランス人の裏をかいて攻撃した。スヴォーロフは戦闘の間、自身橋に踏み出して彼の兵士に曰く「この老元帥がどのように敵と戦うか、見るがいい!」と叫んだという。
しかしながら、スヴォーロフの敢闘にかかわらずロシアの第二陣はチューリヒで破られ、そしてスヴォーロフはそちらに彼の軍を輸送する海運手段をもっていなかった。フランス人はアルプスに迫り、そしてロシア人は封鎖されつつあることを恐れた。彼らには援軍も補給もなく、時間は失われつつあった。
フランス軍から逃れるために、スヴォーロフは2000年の昔ハンニバルが行った雄図、アルプス超えを全軍に命じた。彼は最終的にライン川上流を目標に、彼の軍をパニクスの高さ9,000フィート級の山々をシャンテに向かって行軍するよう命じた。これ以上高く好ましい位置にあるとロシア軍がフランス軍を捕捉している間に相手から捕捉される恐れがあり、捕捉されないよう行軍をうまくこなす必要があった。
にもかかわらず、ロシア人は決して寒さの残忍をも恐れていなかった。しばしば苦難に曝されながらも、彼らは成功裏に雪原のアルプスを踏破した。すべての合理的な判断に反して、彼はこの戦略上の後退を実行し、成功させた。彼はその軍の3分の1を失ったが、この困難極まる撤退を成功させたことはすべてのヨーロッパのエリートの敬意を得た。この成功により、スヴォーロフはロシア軍総司令官、革命前の帝政ロシアで4人目、そして最後のロシア大元帥の位を与えられた。
スヴォーロフは1800年、サンクトペテルブルグに戻った。ただし歓呼に包まれてではなく、もの悲しげに。パーウェルは戦勝式典を約束していたが、スヴォーロフの指揮権、階級および過去の輝かしい戦歴は軍政府の存在も疑わしいような微罪のために剥奪された。老将は戦いに明け暮れる生涯に心を痛めて、疲れ切っていた。彼は退役した。なぜなら彼の存在理由がもはや軍になかったからである。
さらに、彼の経歴は彼の家族、とりわけ彼の妻との間に、深い溝を作っていた。彼は情愛深い夫ではなかっし、同様にロマンチックなジェスチャーで自身の欠席の埋め合わせをしようとも思わなかった。スヴォーロフはかつて妻に手紙を出したが、それは「元気でいる。そちらも健康で、婆さん。スヴォーロフ」という簡潔きわまりないものだった。彼女はその仕返しに夫の軍事活動中、多くのスキャンダルをものしたと噂されるが真偽は明らかでない。ただ、彼が戻った日常に彼の居場所がほとんどなかったことは確かであり、同年5月18日、スヴォーロフは死んだ。彼の徹底的な実利主義に即して、献呈の辞は墓碑の上にただ「スヴォーロフここに眠る」とだけ刻まれている。
この将軍は生涯93勝を築き上げ、敗北を知らなかった。それは彼の壮絶な決意と禁欲的ライフスタイル、そしてひたむきな鋼の意思に負うていた。彼は優位な敵を打ち破ることを得意とし、彼の戦略には後退の余地がなかった。彼は戦場にあって特権を使用せず、それで前線の兵との間に友情と信頼を築き、一軍人として生活した。
彼の質素なスタイルは、彼が干し草の上に眠り、そして寒天の下でも毛布を避け、戦場を離れてさえキャンプのような生活習慣を通したことで有名であった。一つの伝説がある。エカテリーナ二世によって下賜された毛皮のコートを、それでも彼は拒絶した。女帝が強いて命じたので、彼は彼の奇習を守るためコートをしかずに運んで歩いたという。
しかしながら、彼が公にした政治嫌悪はひょっとすると彼の軍中における昇進スピードを妨げたかも知れない。主として歴史上最も有名な将官の多くはエリート外交官としての道を突き進むものであり、その点彼はエリート街道を外れた貧困な黒い羊であった。しかし彼がどんなに政治的見識に疎かったとして、彼とその軍の輝きはロシア皇帝エカテリーナ二世と、それよりも程度は劣るにせよ、彼女の息子パーウェルからある程度穏やかな関係を保証された。
戦場というチェス盤で腕を振るう技能において、彼に比肩しうる存在はいなかった。有機的なレベルで彼は敵の補給線を破壊し、そして的の最も弱いポイントに兵力を集中した。彼は大部隊の一時投入より小兵力の逐次投入を力説する。なぜなら動きの鈍い大連隊は役に立たないからである。スヴォーロフは戦闘の中でユニットを少しずつ、スピーディーに動かし続けることで敵の傷つきやすいポジションを打撃し、そして攻撃を持続させることで敵への勢いを維持した。
おそらく彼の記憶を追慕する最も大きなものはスヴォーロフ勲章であろう。これはロシア連邦の最も傑出した軍人の戦功勲章である。直径40ミリの、広い金メッキされた十字章は、敵の頑強な抵抗にもかかわらず部隊の戦闘活動において非凡な指導力を発揮した、指導力巧みな人物にのみ与えられる。
軍史家とロシアの人々の間で、指揮官としての彼の評判は何者にも劣らない。その父がかつて何者にもなり得ないであろうと思った男は、彼の国にとって不可欠の存在に成り上がった。
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