第7話 ヤーノシュ・フニャディ
フニャディ・ヤーノシュ(一三八七-一四五六)
ヤーノシュ・フニャディは一三八七年、トランシルヴァニア(現ルーマニア)の、マジャール人系のそこそこ豊かな農民、セルヴァ・ヴォジクとその妻エリザベート・モルシーナの間に生まれた。その逸話・情報のほとんどはトランシルヴァニアの伝承に負うが、それによれば彼は幼くして闊達聡明、10歳前後でハンガリー王シギスムントに近侍し、ボヘミアにおける王の三度にわたる遠征の少なくとも一つに従軍したという。シギスムントの隊フス十字軍は悉く失敗に終わったが、ヤーノシュはこの期間に優れた軍人としての経験を積む。
のち長じてヤーノシュは国王アルベルトに奉職、彼のもとでしばしばトルコと戦い勝利を収めるが、一四三七年、トルコのセメンドリア要塞を占拠し勝利を収めたことで彼の名は一躍東欧世界のみならずヨーロッパのキリスト教諸国家を歓喜させ、賞賛を受けるところとなる。
アルベルト死後はウラースロー一世に奉職、一四三九から四〇年までウラースローに反抗するパルチザンたちを討伐して功ををあげ、トランシルヴァニア公(ヴォイヴェーデ)とされる。
ヤーノシュは王を補佐してセメンダリア、ハルマンシュタット、アイアンゲートでトルコ軍を連破し、トルコとの間にゲゼド条約を締結するがこの盟約はほどなく破棄され、一四四一年から一四四四までヤーノシュは「長い長い征途」といわれ今日もハンガリーで語り継がれる征戦に着手する。ニースとソフィアを攻撃してこれを陥とし、一四四二年までに彼はバルカン半島のほぼ全てを掌握した。この攻撃にトルコの大スルタン・ムラト二世は与しやすし、と見ていたキリスト教国家に脅威を感じ、講和を求めるふりをしてその一方で艦隊を動かしダーダルネス海峡を渡らせ南欧を衝く。一四四四年一月十日、ヴァルナの戦いにおいてスルタンはキリスト教国家の軍を凌駕し圧倒し、ハンガリー国王ウラースローはこの戦乱の中陣没。ヤーノシュ以下の将士たちは国王を失って瓦解し敗北の辛酸をなめるほかなかった。
ウラースロー1世没後、ラースロー五世を擁立。新国王の下総督に任ぜられ、ハンガリーの軍権をほぼ委ねられる。ヤーノシュは再びムラトを伐つべく軍を集めコソヴォまで進出、一四四八年一〇月一七日、敵の数が倍に膨れあがっていたにもかかわらずヤーノシュは常時優勢に戦いを進め、四万の敵兵を殺しあるいは傷つけたが、自軍も1万7千の死傷者を出して決着ないままに軍を退いた。
一四五一年、ムラト一世没してメフメト2世立つ。メフメトは速戦速攻、一四五三年には東にコンスタンティノープルを陥落させたが、このトルコの偉大な征服者はそこで満足するような人物ではなかった。彼はついでベオグラードに矛先を転じ、ここを貫いて一挙トルコのヨーロッパ侵攻を達成しようとしたが、この意図を察したキリスト教世界ではフランシスコ修道会の法王カリクタス三世が僧兵カスピトラーノのヨハネをヤーノシュのもとに派遣、危急を告げる。一四五二年にバンスカー伯兼ハンガリー大将軍に任ぜられたヤーノシュは国民を扇動し発揚させ、また軍備を整えたが、敵はあまりにも強大であった(その総兵力は一〇万とも三〇万ともいい、史家によってまちまちだがヤーノシュの動員できる総兵力を遙かに超えていたのは間違いない)。ヤーノシュが動かせる兵力はウラースローからの支援を含めても六万前後七万に満たず、さらに言うならばトルコ軍はドナウ川に二〇〇艘の大艦隊を浮かべてベオグラードを目指し、その威容圧巻に尽きた。
ヤーノシュは新設軍を率いてまずドナウからの敵艦隊を襲撃、船三隻を沈めて四隻を鹵獲した。一四五三年七月二一日、スルタン・メフメトの大軍がベオグラードを囲み、攻囲戦が開始された。ベオグラード市民はかねてヤーノシュの指示通り、堀を進む敵兵に火炎瓶を投げ石を落し、なりふり構わずありとあらゆる手段で以てトルコ兵を攻撃した。その翌日、フニャディが入城。防衛戦の指揮を執る。スルタン・メフメトはこのとき創を負い、そのためトルコ軍は撤退を余儀なくされた。
四〇日後、また攻囲戦が再開されたが、ハンガリー軍一万の損害に対しトルコ軍の損害は五万を上回ったという。トルコ軍はさらにセルビア軍から側面を衝かれ、二万五千人の損害を受けて撤退する。この勝利にキリスト教世界は大歓喜し、教皇カリクタスはヤーノシュのことを「この三〇〇年の間に世界が排出した戦士の中で最も優れた存在」とまで褒め称えたが、しかしヤーノシュの前に約束された栄光を彼が掴むことはなかった。なぜならばベオグラード防衛の四〇日の間ペストが流行し、ヤーノシュ自身もまた病に倒れたからである。一四五六年八月一日、逝去。死に際して彼は「全ての我が朋友たちよ、ハンガリーとキリスト教の世界を守り給え・・・。もし口論にかまけて貴卿らが起たないことがあれば、貴卿らの国土もトルコ人の支配するところとなるであろう・・・」と言い残した。カスピトーラのヨハネもまたその二ヶ月後に死んだ。フニャディの長子は一四五八年ハンガリー王となり、マーチャーシュ一世を名乗った。
ハンガリーの愛国者にして国民的英雄、ヤーノシュ・フニャディは多彩な能力を持った男であり、国家第一の民族英雄である。彼は疲れを知らぬ指導者であり、音に聞こえた戦術家、戦略課であって、また人々を鼓舞する魅力あるリーダーであった。ベオグラードにおける彼の大勝はイスラム系トルコ人によるキリスト教世界を護持したという意味で歴史上もっとも偉大で意義のある勝利の一つであり、キリスト教徒からはなにものにも勝る守護者として、トルコ人からは最も恐るべき存在として「トルコヴェッロ(トルコに苦しみを与える者)」と呼ばれた。ウラースロー五世はヤーノシュが武勲を建てるにつれて次第にヤーノシュを警戒するようになったが、ヤーノシュは決して寸毫たりとも二心を抱く事無く忠誠を尽くした。彼は高潔高邁で気高く、キリスト教徒にとってのシンボリックな天才であったといえよう。
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