第6話 南北朝、梁の陳慶之

陳慶之(ちん・けいし。四八四-五三九)

陳慶之は字を子雲といい、義興ぎこう国山こくざんの人である。幼いころより高祖(梁の武帝)のそばに仕えた。高祖は将棋(あるいは囲碁)が大好きで、夜ごと公達たちと将棋を指して飽くことがなかった。公達きんだちたちがみな倦んで眠ってしまっても、慶之だけは眠ることなく、呼ばれればすぐにやってきて、甚だ親しく賞せられた。高祖に従って東に下り建業けんぎょうを平らげ、しかるのち主書しゅしょとされる。財をはたいて衆を集め、つねに手柄を立てる時を思った。奉朝請ほうちょうせいを授かる。


 普通ふつう年間、魏の徐州刺史・元法僧げん・ほうそう彭城ほうじょうにおいて内応を請う。高祖は慶之を武威将軍ぶいしょうぐんとなし、胡龍牙こ・りゅうが成景儁せい・けいしゅんら諸軍を率いてこれを迎接さす。師が還って後、宣猛将軍せんもうしょうぐん文徳主師ぶんとくしゅすいとされ、依然2000人を率いた。豫章よしゅう王・䔥綜しゅく・そうを送って徐州に護送する。北魏は安豊あんぽう王・元延明げん・えんめい臨淮りんわい王・元彧げん・いくに兵士20000を与えて来寇し、陟□《しょうこう》に屯させる。元延明は別将の丘大千きゅう・だいせんを遣わして潯梁じんりょうに塁を築き、境内けいだい近くに兵が見ゆる。慶之は進んでその塁に肉薄し、一鼓これを壊滅させた。のち豫章王が軍を棄て北魏に奔った時、衆はみな潰散して諸将よく制止するものなし。ただ慶之だけが夜、城の関門を斬って退き、軍士を全うした。


 普通7年、安西将軍・元樹げん・じゅは寿春に出征、慶之は假節を授かり総知軍事を拝命する。魏の豫章刺史・李憲り・けんはその子・李長鈞り・ちょうきんを遣わして別に両城を築くが、慶之はこれを攻め、李憲は力に屈してついに降る。慶之はその拠城に入った。転じて東宮直閣とうぐうちょっかくとされ、関中侯かんちゅうこうの爵を賜った。


 大通元年、領軍の曹仲宗そう・ちゅうそうが隷下の軍を率いて渦陽かようを伐つ。北魏は征南将軍せいなんしょうぐん元昭げん・しょうらに騎兵15万を授けて増援とし、先鋒軍は駝澗だかんに至って渦陽から40里のところに逼る。韋放い・ほうは「賊の先鋒は必ず精鋭であるから、これと戦ってもし捷っても壊滅させることはできず、我らは不利となって軍勢を沮まれる。兵法に謂う、逸を以て労を待つ。まずは撃たざるに如くは無し」というも、慶之曰く「魏人は遠来、みな已に疲れむ。我既に遠く去れば、必ず疑うを見ず。須らくその気を挫き、その不意に出れば、必定敗北の理なし。かつりょ(敵)に拠営きょえいの所を聞くに、林木りんぼく甚だ盛んにして必ず夜に出ることなし。諸君にもし疑惑があらば、慶之請うて独りこれを取る。」ここにおいて麾下200騎とともに奔撃し、その前軍を破れば、魏人震え恐れる。慶之はそこで還り諸将と営を連ねて進み、渦陽城に拠して魏軍を待つ。春から冬に至るまで数十百戦し、軍は大いに意気衰え、北魏の援兵はまた塁を築いて慶之の軍後に備える。曹仲宗らは恐れて腹背に敵を受け、謀って師を退くを欲する。慶之はせつで軍門を打って曰く「ともにここに至りて歴戦一年、食糧武器を無為に消費して、その数はきわめて多い。諸軍闘心をあわせるに如くはないというに、みな縮み退くを欲す。あにこれ功名を建てんと欲すなら、直ちに集まり聊か暴れるのみ。吾兵を死地に置き、すなわち生を求めるべしと聞く。須らく虜は大いに合し、彼らはしかる後戦わんと欲する。果たして真に班師はんし(帰還)を求むなら、慶之別に密勅あり、今日これを犯せるものは、明詔によってこれを裁かん。」曹仲宗はその計に腹を決め、慶之に従う。魏人は13城で掎角きかく(三竦みの状態)を為したが、慶之は夜、馬にばいを含ませて出陣し、その4塁を陥とす。渦陽城主・王緯おう・いは投降した。残余の9城は兵甲なお盛んであり、その取った俘虜の左耳を並べてみせる。慶之は鼓を打ち鳴らしてこれを攻め、ついに大いにこれを奔らす。斬獲略尽ざんかくりゃくじん渦水かすいの流れに塞がれて投降するもの30000余。慶之は詔を以て渦陽の地に西徐州を置く。衆軍は勝ちに乗じて進み城父に頓す。高祖はおおいに戦果を嘉し、慶之の手を取り詔を賜って曰く「もとより将門の子に非ず、また豪族の子に非ず、嘱望風雲しょくぼうふううん、もってここに至る。深く奇略を想うべくして、良く令してついに捷つ。ここに朱門しゅもんを開いて待賓たいひんし、声明をもって竹帛ちくはくに垂る。あに大丈夫にあらざりしかな!」


 大通たいつうの初め、北魏の北海ほっかい王・元顥げんこう、本朝で大乱あり自ら抜いてここに降り、己を魏の主に立てよと求む。高祖これを容れ、慶之に假節かせつを与えて飆勇将軍そうふうしょうぐんとなし、元顥を北に送らしめる。元顥は渙水で魏帝に即位し、慶之に持節、鎮北将軍、護軍、前軍大都督を授けた。銍県を発してより栄城を抜き、ついに睢陽に至り、魏将・丘大千の衆70000は9つの城を分けて築き慶之の北伐軍を拒むも、慶之はこれを攻めて旦から申の刻までに3塁を陥とし、丘大千ここに降る。時に北魏の征東将軍せいとうしょうぐん済陰王せいいんおう元暉業げんきぎょう率いる羽林庶子うりんしょし20000が梁、宋を救いに来て、考城こうじょうに進み屯す。城の四面栄水えいすいに覆われ、守備は厳重。慶之は命じて浮水塁を築き、その城を攻め陥として元暉業を擒え、その租車そしゃ7800両を鹵獲する。大梁に至って望めば敵人投降し、元顥はここで慶之を衛将軍えいしょうぐんに進め、徐州刺史、武都公とする。衆を率いて西に上がる。


 北魏の左僕射さぼくや楊昱よういく西阿王せいあおう元慶げんけい撫軍将軍ぶぐんしょうぐん元顕恭げん・けんきょうらは羽林の宗子庶子およそ7万を以て、栄水に拠して元顥を拒む。兵は精強であり城は堅固であり、慶之攻めるも抜くこと能わず。魏将・元天穆げん・てんぼくの大軍また至り、その先遣として爾朱吐没児じしゅ・とぼつじの胡騎5000、騎将・魯安ろあん夏州かしゅう歩騎9000が楊昱を援ける。また右僕射・爾朱世隆じしゅ・せいりゅう西荊州刺史にしけいしゅうしし王羆おうゆうの騎兵10000が虎牢ころうに拠す。元天穆、爾朱吐没児は前後連携して前進し、旌旗相望む。時に栄楊いまだ抜けず、士衆みな恐れたので、慶之は鞍を外して馬を降り、衆に宣言して曰く「吾ここに至って以来、城を屠り地を略し、少なからず実績あり。君らは敵の父兄を殺し、子女を奪うこと、その数無算である。元天穆の衆はこれ我らを仇とし讎とする。吾等はようやくにして7000、虜の衆は30万余、今日のことは義を以て図るを存せず。吾虜騎をもって平原に力を争うべからず、およぶに未だ至前の敵尽きず。須らくその城塁を平らげたりといえど、諸君に寸暇なきこと疑いなし。ただ腹を切るよりは前に進むべし。」一鼓ことごとく城に取りつき、壮士東陽の宋景休そう・けいきゅう、義興の魚天愍ぎょ・てんびん城墻じょうしょうを飛び越え、ついにこれに捷つ。にわかに北魏の軍外に合し、慶之は3000騎を率いて城を背に逆撃、大いにこれを破り、魯安は陣を以て降る。元天穆、爾朱吐没児は単騎獲らわれるを免れた。栄陽で儲けた宝、牛馬穀帛数えるべからず。進んで虎牢に赴けば、爾朱世隆城を棄てて走る。魏主・元子攸げん・しゆうおそれて并州へいしゅうに奔った。臨淮王りんわいおう元彧げんいく安豊王あんぽうおう元延明げん・えんめいらは百僚を従え、府庫を封じ、(車)を備えて元顥の洛陽宮入宮を迎え、并州に在殿ながら元顥の登位を認め、改元と大赦を求める。元顥は慶之を侍中じじゅう車騎大将軍しゃきだいしょうぐん左光禄大夫さこうろくたいふとし、万戸を増邑した。北魏の大将軍・上党王・元天穆、王老生、李叔仁はまた40000を率いて大梁を攻め陥とし、王老生、費穆にそれぞれ20000を授けて虎牢に遣わし、刁宣しゅうせん刁雙しゅうそうは梁、宋に入るも、慶之は順次これらを打破しことごとく威服せしめる。元天穆は10余騎に守られて北に黄河を渡り、高祖は帰還した慶之の手をとり親しく詔を下してその戦術の美なることを称えた。慶之の麾下はことごとく白袍を着用し、向かう所敵なしであったので、洛陽の童謡に曰く“名師大将自らまもるなく、千兵万馬白袍はくほうく”と。銍県しつけんを発して洛陽に至るまで14か月、32城を平らげ、47戦向かうところ敵なし。


 はじめ、元子攸は単騎で逃げていたが、宮廷の衛尉、嬪、侍人らが旧来通りに働くのを見せられ、元顥既に志を得たると酒におぼれ、日夜宴会を張ってもう政治に倦んだ。安豊、臨淮王はともに姦計を計って、それまでの朝恩に背き朝貢の礼を断ち、ただちにこのときをもって未だ安ぜず、かつ慶之の資けを得てこの力を用い、外同内異がいどうないい、多くの妬みそねみみ、讒言ざんげんを慶之に吹き込んだ。慶之は心にこれを知り、また密かにその計を為す。すなわち元顥に説いて曰く「今遠来ここに至るも、未だ服さぬものなお多し。もし人が虚実を知らば、更に連兵れんぺい(結託)をなさん。しかして安らかに危うきを忘れるには、すべからくその策を任せたまえ。よろしく天子を啓き、さらに精兵を請わん。あわせて諸州を制し、この地に南人あらば全く須らく護送してまいりましょう。」元顥はこれに従うを欲すも、元延明が元顥に説いて曰く「慶之は数千を出ぬ兵にしてすでに難を制したり。今その衆を増してむしろまたがえんじて用いるや? 権柄一去けんぺいいっきょすれば聞く人動転し、魏の社稷しゃしょく(宗廟)、おいてしかして滅ぶ。」元顥はよしこれを疑わず、慶之と距離を置き背離する。慶之はこれを憂えて高祖に上表して曰く「河北、河南は一時已に定む。ただ爾朱栄じしゅ・えいなお敢えて跋扈ばっこし、わたくし慶之、自らこれを討ち擒えんと欲す。今州郡新たに服し、正しく須らく慰撫いぶされ、さらにまた兵を増やすことよろしからず。さすれば百姓動揺す」高祖はついに詔を発して衆軍をみな回首せんと命ず。洛陽から下る南人は一万を越えず、羌族・夷族はその10倍、軍の副官・馬仏念ば・ふつねんは慶之に言い置いて曰く「功高くとも賞せられず、主を震わして身を危うくす。二事すでにあり、将軍あに無慮ぶりょを得るや? 上古以来、廃昏立明はいこんりつめい、危うきを助け難を定め、鮮有せんゆうついに得る。今将軍の威は中原を震わせ、声は黄河の塞を動かす。元顥を屠して洛陽に拠す、今やその千載一遇の時なり」と造反を奨めたが、慶之は従わなかった。元顥は以前慶之を徐州刺史に任じたが、ここにおいて要鎮への異動を求めると、元顥は心にこれを憚り、ついに遣わさなかった。すなわち曰く「主上は洛陽の地を以てすべて相に委任し、たちまち朝廷の決議を聞き捨てられんことを。欲するは彭城に住まい、君に言う限りの富貴を取らせるゆえ、国の計を為すべからず。手勅しゅちょく頻りにして頻繁、汝に恐を成すは僕の責なり。」慶之はあえてまた言上せず。北魏の天柱将軍てんちゅうしょうぐん・爾朱栄、右僕射・爾朱世隆、大都督・元天穆、驃騎将軍・爾朱吐没児、爾朱栄の長史・高歓こうかん、鮮卑、苪苪へいぜい、その総勢100万が魏主・元子攸を助けて元顥を攻める。元顥は洛陽に拠すること65日、およそ城塁を守ること能わず、一時にみな彼に叛く。慶之は黄河を渡って北中郎城を守っていたが、3日に11戦して殺傷することはなはだしく、爾朱栄まさに退く。時に劉霊助りゅう・れいじょなるものあってよく天文を見るが、彼が爾朱栄に謂いて曰く「十日を待たずして、河南は大いに定まるでしょう。」爾朱栄は木を縛っていかだを作り、硤石きょうせきから渡り、元顥と河橋で大いに戦い、元顥は大敗、臨潁りんえいに奔りその途中で賊に擒われ、洛陽は陥ちた。慶之は馬歩数千をもって東に帰還を決めたが、爾朱栄自らの追撃を受け、蒿高こうこうにあたって山水洪溢さんすいきょうおうし、軍人死散した。慶之は髪を削ぎ落し沙門の姿に身をやつして豫州に至り、豫州の人・程道雍ていどうようらに密かに汝陰に護送された。都に至ると功績により右衛将軍とされ、永興県侯えいこうけんこうに封ぜられ、食邑1500戸を加増される。のち出て持節、都督縁淮諸軍事ととくえんわいしょぐんじ奮武将軍ふんぶしょうぐん北兗州刺史きたえんしゅうしし


 時に妖賊の沙門・僧強そうきょうが帝を僭称し、土豪の蔡伯龍さいはくりゅうがこれに呼応し兵をあげた。僧強は頗る幻術に巧みで、衆心を惑わし三万の衆を得て北徐州を攻め落とす。済陰の太守・楊起文ようきぶんは城を棄てて奔り、鐘離しょうり太守・単希宝たんきほうは害され、慶之がこの鎮圧に駆り出される。高祖は親しく白下で駕に乗り宴を催して慶之を送り出し、慶之に語って曰く「江、淮の兵は精強にして、その鋭鋒当たるべからず。卿は策を以てこれを制すべし。よろしく決戦せざることを。」慶之は命を受けて往き、12日と経たずして蔡伯龍、僧強を斬り、その首を人々に誇示して見せたという。


 中大通2年、都督南北司、西豫、豫四州諸軍事、南北司二州刺史、およびその他旧職に就く。慶之が鎮に至ると懸瓠けんこが包囲されていた。溱水しんすいで北魏の潁州刺史・婁起ろうき、揚州刺史・是雲宝ぜうんほうを破り、楚城そじょうで行台・孫騰そんとう、大都督・侯進こうしん、豫州刺史・堯雄ぎょうゆう、梁州刺史・司馬恭しばきょうを破る。義陽の鎮兵を撤廃し、水陸の運輸を停止させ、江湖諸州を休め整える。田地6000頃を開き、二年後、倉廩満ちる。高祖は事毎にこの勞を労った。また上表して南司州を省き、安陸郡を回復し、上明郡を新たに置いた。


 大同2年、北魏の将・侯景こうけいが衆70000で楚州を寇す。州刺史・桓和は城を陥とされて没し、候景はさらに進んで淮上に至り、慶之に投降を勧める手紙を送る。勅により遣わされた湘潭侯しょうたんこう䔥退しょうたい、右衛・夏候夔かこう・きらが援軍として派遣されたが、慶之は已に候景と激突し、黎漿で勝利を得た後だった。時に大寒豪雪だいかんごうせつ、候景は輜重しちょうを棄てて走り、慶之はこれを収奪して帰った。号を進められて仁威将軍じんいしょうぐん。この年、豫州が飢餓となったので、慶之は自ら倉廩そうりんを啓いて貧民を救済し、全員に物資をいきわたらせた。州民の李昇りしょうら800人が上表してその徳を讃える石碑を建てることを請い、詔により許された。5年10月没。時に56歳。散騎常侍さんきじょうじ、左衛将軍、鼓笛隊一部を追贈され、諡は武。勅により義興郡から500人の壮丁が喪に参加した。


 慶之は敬謙謹慎けいけんきんしつな性格で、衣服に無頓着であり、音楽や芸事を好まなかった。矢を射れば外れるし、馬に乗るには不器用であったが、しかしよく軍を撫してその死力を致させることができた。長子・陳昭ちんしょうが後を嗣ぐ。

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