第5話 後漢光武帝劉秀(前6-57)
劉秀は9歳で父を喪い、叔父・
王莽の
10月、劉秀と李通は宛県で挙兵。11月、劉秀はその隷下の賓客たちを家郷に返した。劉縯はこのときすでに起兵していたが、ただ劉氏の子弟は紛々として身をかわし、徴征に参加するのを渋っていた。のち彼らは劉秀が武官の絳衣を着て大冠をかぶり起義に参加したのを見て、すこぶる驚くと同時に曰く「劉秀のような
劉秀の諸軍は湖陽にあって戦闘に勝ち、しかし財宝の分配が不均一であったというので一部の軍卒が劉氏の子弟に反攻した。劉秀はこれを訊くやすぐさま劉氏の所得物を回収し、軍卒たちに分配して危うく内訌が起こりかねない場を平息に収めた。劉秀の軍は一新されて団結決議し、一挙棘陽を陥として長安に迫らんとの勢いを見せ、王莽の
2月、新市、
王莽は
劉秀の諸軍は王尋、王邑の兵盛んであるのを見て、勢いに迫られ一旦昆陽に退く。昆陽城中の軍隊はわずかに8,9000人、守城の将領たちは衆寡敵せず、また家室を顧みてその保全を願い、打算によって城を棄て逃げる。劉秀は衆に向かって説くに、「我らは目前の敵より
王莽の大軍、先鋒軍10万が昆陽の城北に迫り、城中の諸将手を
劉秀は東は郾、定陵の諸営から兵をことごとく発す。将領に財物に
6月己卯、劉秀と援兵は一直線に昆陽に還る。彼は自ら1000余騎を率い、王莽軍から4,5里のところに陣を布いた。王尋、王邑は数千人を派遣して迎え撃つも、劉秀は疾風迅雷勇猛果敢、たちまちに斬首数十級を得る。そのほかの将領たちは大いに喜んで言うに「劉将軍、平時は小敵を見て怯えらるるも、いま強大な敵を前にして反するがごとくに勇敢、実にあの人こそ
その時、劉縯が宛城を落としてから3日、ただ劉秀はこれを知らず。彼は城中に人を派遣して送信し、
劉秀の諸軍はしばしば勝ちを得て、士気大いに振るい、一を持って百に当たらざるなし。劉秀は自ら3000人の決死隊を編成し、一挙王尋、王邑の中軍を衝き、王尋を戦死させた。城中の守軍ここを先途とばかり鼓を鳴らして城から打って出、内外挟撃、歓声は天を震わせ地をどよもした。王莽の兵は頓挫潰滅して軍の体を為さず、互いに相手を踏みつけ、屍を荒野に横たえる。このとき雷名鳴り響き、狂風たち起こり、屋根瓦は飛んで落ち、暴風注ぐが如く、黄河の水は荒れ狂って奔騰し、王莽軍の中の虎や豹は解き放たれて、士卒は退路を奪われ数万人が黄河に溺れ、ようやくに逃れた者たちは塞に立てこもった。王邑、厳尤、陳茂は部下の死体を踏んでようよう黄河を渡り、ようやくに脱出を勉強する。劉秀諸軍の将たちは王尋、王邑の軍が持ってきた糧草輜重をことごとく鹵獲し、車甲珍宝はかぞえられぬほど、数か月をかけても運搬が完了しないので、大部分を焼き捨てた。
昆陽の大捷により王莽軍の主力は粉砕され、王莽政権は覆され滅びの日を待つばかりとなった。しかるにこのとき、更始軍内部で深刻な衝突が発生した。更始帝は李轍、
実際のところ、劉秀は兄劉縯を殺されたことを悲痛に感じ、いつも一人で部屋にいるときは酒も肉も遠ざけて枕を濡らし、泣いた。しかしながらこのとき、彼はこのとき更始政権に抗いうる実力が欠乏していると判じたため、
この年の9月、王莽が長安で殺害される。更始帝は洛陽を都とし、劉秀を
更始帝は洛陽に到達したのち、劉秀をもって
ただこの当時、劉秀が河北に立足したとき穏やかならず、
劉秀一行は鐃陽に到達すると、餓えて疲労困憊する。かれらは王郎の使者を称して
劉秀らは風を頂き雪を冒し、昼夜兼行で呼沱河の辺に至り、却って船なかったが、幸いにして
まもなく、
劉秀は王郎の文書檄文を収奪し、その中から劉秀の武将が王郎と連絡していた証拠が見つかり、中には劉秀を侮辱する書信も数千件に上ったが、劉秀はこれらを一切見なかったことにして、部下たちの見守る中証拠の文書を全て焼き捨てた。劉秀は部下たちに語って、「わたしとて勝てるとは思わなかった。貴公らが不安になって叛徒の側についてたとしても不思議はない。」と。
更始は劉秀が河北の雄となったことを受け、人を派遣して劉秀を
王郎平定後、銅馬、大彤ら数十万の大軍が河北に流入してくる。劉秀は河北に立足し、これらと艱難、争戦を展開する。劉秀は呉漢、耿弇を再度幽州に派遣し、劉秀自身はこの年秋、鉅鹿、
これと時を同じくして、
更始3年(25)初、劉秀は河北経営を継続、
6月己未、
建武3年(27)、閏正月、光武帝は大軍を率いて関中に親征、赤眉10万余をついに投降させる。こののち、光武帝は武力を致して各地に割拠する勢力の力を削ぎ、関東の
光武の建国初期における
その一面で洪武帝は功臣たちの実権を削ぐことにも力を尽くした。第二次大分封の時、光武帝は功臣を将軍職から罷免し、彼らの兵権を剥奪する。光武帝はまた大いに文吏を登用して功臣に取って替え、手柄に対して与える土地を控え、これを政府に返還させて迅速に皇権の強化に努めた。
光武帝は地方の武装豪族の力を削ることにも努め、みずから建武15年(39)“
光武帝は生涯のうち軍旅にある事10余年、深い傷を受けることもあり、長期的な戦乱と人民の困苦を身近に目にし、これゆえに天下統一後もできる限り軍事活動を控えることに尽力した。皇太子がなぜ攻め戦をしてはいけないのかと問うたところ、光武帝は戒めて曰く「昔日、
光武帝は理政にも勤勉であり毎日朝は晨に起き、日が暮れても止めず、還って常々公卿、郎、将と経義について深夜まで語らった。皇太子は父親のこの辛苦を見るに、政務の減少を勧め少しは遊興に時間を使うよう建議したが、光武帝は答えて曰く「我にとって最も楽しいのは政務なのだ。これで特別疲労することなどあるものか」と。
光武帝は封建秩序の回復に尽力し、建国の初めより特に儒学を国学として提唱した。早くも建武4年には大学を設立し、五経博士を置いて家法を教授させた。建武中元元年(56)2月、光武帝は前王朝の君主に倣って泰山に登り、封禅の儀を行い、班固をもってその法統の地位を固めた。両漢の際図を讖って盛行し、光武帝はまたその借助した≪赤伏符≫などの讖語を製造してこれを論じた。彼の即位後、図讖が大いに盛んになり、建武中元元年、図讖が天下に宣布されて図讖を読み解くための経典が造られた。
建武中元2年(57)2月戊戌、光武帝、
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