第4話 スタニスラフ・コニエポリシキ

 コニエポルスキはポーランド-リトアニア連邦の歴史上最も傑出した才能を持つといわれたポーランドの軍司令官である。彼はまた1625年から46年の彼の死に到るまでの間ポーランドの高官(スタロスタ)であり城主であり貴族会(ツァラチタ)のメンバーであり、サンドミエールの知事(ヴォイヴォード)でもあった。彼はコサックと戦い、タタールと戦う事に関して多くの成功を得た。1618年に彼は大冠をいたただくもの(グランドクラウンヘットマン)の称号を与えられ、1632年には王に次ぐ軍軍事の大権を持つ者として令官としてフィールドクラウンヘットマンの称号をさずけられた。


 コニエポルスキの人生はほぼ恒常的に戦争で占めらられていた。彼は二十歳に達するより早くディミトリダス戦争に従軍、モルダヴィア戦った。その後1620年に彼はオスマン帝国軍に敗れて捕虜となったが、1623年に釈放されるまでの間にオスマン帝国の客将としてチェコーラの戦いに参加した。1624年から1626年までの間にはオスマン帝国傘下のタタール族と戦ってしばしばこれを破り、ポーランド-スウェーデン戦争(1626-29)が勃発すると敵より劣った兵力でプロイセンとポメラニアを征服し、グスタフ・アドルフのスウェーデン軍を封殺した。アルトマルクで停戦が締結されると1634年、ウクライナに出張ってカミヤネッツ-ポーディルシキ戦線でトルコ軍を破った。1644年にはオックマタゥの戦いでタタール族を劇的に破り、国際的名声をもってヨーロッパ全土に名を知られることととなる。


少年時代

 コニエポルスキの正しい生年は不明である。資料ごとに1590年から1594年までのバラつきがあるが、正確なところは分からず、そして彼の伝記のどれを見ても彼が生まれた場所を特定しない。知られていることが少ないわけではなく、彼の父アレクサンダー・コニエポルスキがツァラチタ(ポーランド貴族会)に属し、そしてスウェーデンヴァーサ王朝のシギスムント3世の支持者であったということ、そして母アンナ・シュロチェッカはカミヤネッツ-ポーディルシキ地方の豪族スタニスラフ・スロクジッチの娘であり、彼女はアレクサンダーと結婚したことでいくつかの大きな遺産をコニエポルスキ家にもたらしたということ、弟は4人でクシシュトフはチョーラジゥィルキーコロンニー(大標準の意。王権の擁護者、またその機関)の裁判所につとめ、1641年以降ベルスクの首長をつとめた。レミギウスはチェームの司祭になったが1640年になくなった。ジャン=カステラはシェラドッツに骨を埋めた。もう一人の弟プルツェッドポールは1611年に若くしてなくなったということがはっきりしている。


 コニエポルスキは吃音症であったが、宮廷に力をもつ父の影響力によって15歳でウィールーンのスタロスタ(市長)に任ぜられた。1603年から彼はクラクフ大学で高等教育を学び、数年たってより実際的な教育を授けようという父の意向で王宮に出仕することになった。その後1年か2年、王宮で暮らしたと考えられるが、家族の故地に戻る前に大きな時間を費やしてフランスから西ヨーロッパを一周する旅をしたらしい。


1610年 - 1626年

コニエポルスキは幼少期から軍事に関わることを選び、1610年、兄弟プレドーラルともにディミトリダス戦争に参加、モスクワ軍と戦いスモレンスクでポーランド-リトアニア連邦軍に加わるため300人を集め、参戦。1610年7月4日、クルシノの戦いで活躍した後、1611年7月8日、スモレンスク要塞攻囲線に参加、プレドールとともに要塞外壁を砕く。翌秋、コニエポルスキは再び従軍し、リトアニアのグランドヘットマン、ヤン・カロル・チョドキーウィックの指揮下に入ってクレムリンで包囲された友軍への救出および補給任務に従事。この間ポーランド軍右翼の指揮官としてヘットマン。


1612年、コニエポルスキはフィールドクラウンヘットマン、スタニスラフ・ゾルキフスキの指揮の下でウクライナのウジスコ・クラカイン(通常連邦軍) に加わり、これが彼の人生に大きな影響を及ぼす。1614年、彼はヤン・カルワッキ率いる反抗的な部隊の破砕を任され、5月17日、ロハティンの戦いに勝利してカルワッキを捕らえた。1615年、彼はゾルキフスキの娘カザリナと結婚した。


1615から16の間、コニエポルスキはウクライナでタタール人の大軍と戦ってさらなる経験を積んだが、敵を粉砕したり捕獲したりという戦果については芳しくなかった。1616年、カザリナはコニエポルスキの最初の息子アンドルージを分娩中、産褥で死亡。翌年、コニエポルスキはゾルキフスキとともにモルダヴィアでの大戦に参加、イスカンデル・パシャ率いる強力なトルコ軍と戦った。戦争は外交により停戦が締結され、この年のうちに終わった。コサックとの交渉のすえ、コニエポルスキはポーランド政府に認められるコサックの数を1000人にまで減らし、それによってコサックがポーランド軍に籍を置くことの出来る数を制限した。彼はまた黒海への襲撃を禁止した。オスマン帝国の裕福な都市への襲撃はコサックを富ませたが、同時にイングランドの報復を引き起こしたためである。


 1618年、セジム(連邦議会)の会期中に国王シギスムント3世はグランドクラウンヘットマン のブラワ(儀礼用メイス)をゾルキフスキとコニエポルスキに授けたが、その後すぐタタールとオリーニン近辺で戦ったコニエポルスキは圧倒的優位を過信した結果無駄な追撃を行って敗北、ほとんど全滅させられる。1619年、コニエポルスキはクリスティーナ・ルボミルスカと結婚、クリスティーナは翌年、息子アレクサンダーを出産した。


同年、コニエポルスキとゾルキフスキは連邦の同盟者ガスパー・グラジァニを保護するためモスクワに軍を進めた。軍勢は7000を超え、コレッキ、ザスワフスキ、カザノフスキ、カリーノフスキ、そしてポトッキら大将の私兵団が含まれた。セコラの戦いの間、コニエポルスキはイスカンダル・パシャとハンティムールの連合軍に打ち破られた連邦右翼を指揮した。後退を成功させたものの軍の士気は低下し、コニエポルスキは9月20から21日、軍の崩壊を防ぐために苦闘した。決意もむなしく後退後半の時点で軍は崩れ、兵士たちは川に走って溺死した。その後の推移はチョルキエフスキが殺され、コニエポルスキとサミュエル・コレッキ、ミコワジ・ストルシュ、ミコワジ・ポトッキ、ヤンとウカシュ・チョルキエフスキを含む多くの偉人が捕虜となった。捕囚はベオグラードとイスカンダル・パシャ、そしてコンスタンティノープルのセブンタワーズ城に分散されて収容されたが、1621年、オスマン帝国はコテョンで敗北し、これを受けてポーランドとオスマン帝国の関係は安定、1623年、コニエポルスキは解放されてポーランドに帰国した。


コテョンの戦いの影響で、それ以上の国境紛争を防ぐべく条約が結ばれた。カーン・カニベック・ギレーはこの条約の遵守を約束したが、ハンティムールはカニベック・ギレーの立場を奪うべく国境を侵犯はしつづけた。1623年6月、ハンティムールの再度の侵略の後でコニエポルスキは連邦司令官の地位を与えられ、侵略を止めよう命ぜられた。翌年初め、ハンティムール指揮下のブージャックが大軍で南ポーランドを攻撃。2月6日、コニエポルスキは間諜をによってプージャックの軍から情報を傍受し、スマンコワイスとオリズコワイスの近辺でこれを粉砕した。同年後半、ハンティムールの軍が6月上旬、国境を越えると、コニエポルスキはマルティヌフの戦いでこれを撃破した。軽快なコサック騎兵と砲兵を使ってハンティムールの軍を攪乱し、混乱に陥れるという新戦術を駆使した彼の勝利は、すぐ連邦全体に響きわたり、祝われた。この報酬としてコニエポルスキは3万ズロットを与えられ、サンドミエールのヴォイヴォーダに任ぜられた。


1625年、マレク・ズメーロ率いるザフォロジャンのコサックが反乱を起こした。ジャンヒン・ジレージと手に手を取って、彼らはモスク桑と同盟を結ぼうとした。コニエポルスキは12000の兵を集めた。連邦に忠実な全てのコサックに対して公正であり、同時に反逆者に対しては無慈悲であった。1625年10月25日、クリュフ近郊で彼はコサックに騎兵突撃を仕掛けた。最初の突撃の推力は止められたが、彼はすかさず第二波を突撃させた。戦いの潮流は次第にコニエポルスキに不利なものとなっていき、彼の立場は墓に向かったが、しかし紛争は結局、停戦交渉により解決された。11月6日、6クルコヴェ条約により、新たに6000人のコサックがポーランド国籍に登録された。


1626年1月下旬、タタール人再侵入。その軍勢は15000から20000と推定され、テルノフィルとテレボヴィラを通過してプォドリー・ヴィイヴォードシップ北方までポーランド領を侵略した。これに対抗してコニエポリシキは13000人を動員、タタール迎撃に出戦し、敵後衛を打ち破った。タタールは国境を越えて逃げたが、多くの財宝と奴隷を奪っていった。コニエポルスキはセジム議会の決議に反して8000人で国境を守った。この間コニエポルスキは有能な将校ボーダン・クメリンスキーに多々の局面で助けられた。のち、コニエポルスキがバルト海の新船上で活躍するとき、クリメンスキーもまたタタールとの戦いで大勝を得ることになる。



グスタフ・アドルフとの戦い:1626年 - 1629年

1626年、スウェーデン軍がポーランド - スウェーデン戦争を再燃させたため、連邦に対する南部の脅威は北部の脅威によって覆い隠された。 6月には、125隻の艦隊と1400人以上の兵士を擁するグスタフ・アドルフがポーランド沿岸に接近した。グスタフはグダニスクを通過する貿易に関税をかけた。ピラワとブラニューを取ったスウェーデン軍は、さらにポメラニア地方のフランボーク、トルクミッコ、エルバーグ、マルバーグ、グニュー、チェジュー、スタログラードを取ったが、しかしグダニスク方面の主要都市はスウェーデン軍の雷撃的猛威にも降伏を拒んだ。1626年9月22日から30日の間に、グニェフ村近郊の戦いで、グスタフはジギスムント王率いるポーランド軍を敗走させた。この当時コニエポルスキはプロシア南部の守備についており対応が遅れたが、10月1日、ようやくにして北方プロイセンに進発した。


コニエポルスキは4200の騎兵と1000の竜騎兵(銃騎兵)、そして1000の歩兵はすぐさまプロイセンめがて出動した。他の部隊により9000まで強化された彼は、20000の強力なスウェーデン軍に対してまず通信ラインをへの攻撃を仕掛けた。その間、セジム議会は戦争のための資金集めに同意し、奔走した。金と食料が不足している連邦軍の状況は困難だった。ポーランド-リトアニア軍の歩兵隊はヴィヴォーデシップのコクネス近郊でスウェーデン軍の前に大敗を被り、ヴィスワ川後方に退却した。スウェーデン人はしかるのち、コニエポルスキを2正面から挟撃する作戦を立てた。ヴィスワ川からアクセル・オクセンシェルナおよびスウェーデン軍余剰部隊が、ポモリッツからヨハン・ステリッフ・ローウェンスタインとマクシミリアン・ュッフルがコニエポリシキを襲う。しかしながらこのときヴィスワ川が氾濫しオクセンシェルナらの作戦行動を阻害したため、コニエポルスキがポメラニアから侵入してくる敵部隊を迎撃することが可能となった。



1627年4月2日、コニエポルスキはパックを奪還。4月18日にはスウェーデン軍をハマルツィンで破り、彼らを後退させ、その1週間後には降伏文書に調印させた。多くの傭兵とスウェーデン人は彼らの旗と記章を放棄して撤退し、た。1627年春のスウェーデンの敗北は、彼らが得たヴィスワ川以西の要塞をすべて失わせた。この戦果はブランデンブルク選帝侯に連邦への支持を宣言させるという効果をも生んだ。


5月17日、グスタフは8000の増援をもって再戦を期したが、5月22日から23日、キーズマルクとダンシーグ近郊のヴィツラ川を横断中のグスタフはポーランド軍に遭遇し、股関節を負傷して撤退を余儀なくされた。コニエポルスキはグニュー奪回を思って作戦を立案し、まずブラーニュ奪回のための部隊を派遣してグスタフの攻城戦を強制的に止めた。その後グスタフは撤退したポーランド軍を追ってオルネタを包囲したが、これを予想していたコニエポルスキは彼の主目的であるグニューへの緊急突撃で答えた。グスタフはコニエポルスキの対応速度に驚き、感銘を受けたとされる。


ツェジューで2500の騎兵とエリート重装騎兵を含む7800のコニエポルスキの軍は、スウェーデン軍がダンツィグに達しつつあるのを阻止しにかかった。8月7日から8日にかけて、彼はモルトゥワ近郊で5000人の歩兵を含む10000人のスウェーデン軍に遭遇した。スウェーデン人はポーランド軍を挑発して陛下と砲撃によってポーランド軍を破壊することを望んだが、コニエポルスキはこれに巧妙な反撃を加え他。スウェーデン人はさらに騎兵突撃を加えたが、ポーランド兵を砲撃の射程範囲に引き込むことが出来ず、ポーランド軍の指揮を挫くに至らなかった。グスタフ・アドルフはこのとき再び負傷させられ、スウェーデン軍の撤退をもって戦闘は終わった。


コニエポルスキは軍隊改革の必要を感じた。ポーランド軍は砲兵の火力と歩兵の練度においてスウェーデン軍に劣り、彼はそれをスウェーデン軍に匹敵させることを急務とした。一方でスウェーデン軍はポーランド軍から騎兵隊の運用(ミレー突撃)を学んだ。全体的に1627年における作戦行動は連邦有利で終わった。パックとグニューは奪われ、スウェーデンの計画は妨害されてスウェーデン軍は弱体化させられた。1627年11月28日、本年最後の遭遇戦オリヴァの戦いでスウェーデンの小艦隊がポーランド艦隊に撃滅させられた。


1628年、資金において脆弱なポーランド軍は、攻勢から防御に移ることを余儀なくされた。グスタフ・アドルフはグウィジーン、ノウ、ブロドニッツァを獲り、コニエポルスキは反撃し、歩兵と砲兵の連携、ゲリラ戦、要塞戦を支援する技術者の動員などあらゆる戦術を駆使し、またミレー突撃を効率よく使ってグスタフを苦しめたが、それ以上に資金不足は彼を苦しめた。セジム議会は軍資金を増額、またオーストリアは野戦元帥ヨハン・ゲオルク・アルンハイムのもと部隊を送って連邦を支援した。しかしアルンハイムはコニエポルスキの注文にうなずくことはなかった。


最終決戦は1629年6月27日、トルティアナ近郊で行われた。スウェーデン軍は攻撃を阻まれ、シュトゥルムとマイボルグに撤退を始めた。コニエポルスキはヨハン・ヴィルヘルム・レインラフ伯率いる後方防衛部隊を攻撃し、これを撃滅。彼はまたポルコワイスに向かって押し出されたスウェーデン軍が反撃してくるのを撃退した。そこではグスタフ・アドルフ自身が率いる2000人の部隊もあったが、コニエポルスキはそれら全てを撃退した。ポーランドからの逆撃に全壊しかかったスウェーデン軍を救ったのは元帥ハーマン・ランゲルであり、彼の活躍によりスウェーデン軍は完全敗北を免れた。ここでグスタフはまた大怪我を負い、その部隊はほぼ壊滅した。スウェーデン軍のうち1200人が死亡、レインラフ伯以下数百人が捕虜に取られた。ポーランド軍の損害は死傷者200人以下であったという。


ポーランド側はこの勝利を政治的にも軍事的にも、追求することが出来なかった。1629年10月26日、アルトマルクの停戦によって、世論はスウェーデンを支持し、南バルト海沿岸の主権者と認めた。コニエポルスキはタタールの侵攻を鎮圧するためにウクライナへ召還されたため、ほとんど交渉に口を出すことができなかった。


グランドクラウンヘットマン:1630年 - 1637年

1630年、タラスのコサック指導者、フェドローヴィッチが蜂起を始め、これは後に「フェドロヴィッチの蜂起」と名付られる。その後まもなく彼はコルサンの要塞を占領した。状況を回復するために、コニエポルスキはペレヤスラフを包囲したが、歩兵と砲兵の連携を欠き、要塞を抜くことが出来なかった。しかし補給を必要とし、また重傷を負ったコサックは停戦交渉に同意した。1630年8月、ペレアスラフ条約調印。同条約には反政府勢力に対する恩赦を含む、自由主義的条項が盛り込まれた。コニエポルスキは依然として厳罰主義の信奉者であったが、長期的にはコサックの民権増加と適切な賃金支払いを含む公平な扱いはコサックの状況を改善させるだろうと同意した。それでも彼はコサックの農奴化政策を主張もしているのであるが。その原因はウクライナにおけるコサックへの不安があり、その疑心はウクライナでの彼の極端な不人気につながった。


1632年、彼の死の数年前に、国王ジギスムント3世ヴァーサはコニエポルスキにグランドクラウンヘットマンの位を与えた。ゾルキフスキが死んでから12年間は空位であった。おそらく王は、コニエポルスキにもっと早くこの称号を与えたなら、その権威が強大になりすぎるのではないかと恐れた。王の死後、コニエポルスキは連邦の政治問題の調停者として主要な役割を果たし、1632年にはシギスムント3世の息子ワワズワフ4世ヴァーサの国王選出を支持したが、そのかわりワワズラフ4世はコニエポルスキに、報酬として連邦で最も権威ある政治区域であるクラコフに地所を与えた。コニエポルスキは新王の政治顧問となって、しばしばタタールに対するポーランド政府の外交政策の硬化を勧めた。また、コニエポルスキはワワズワフ4世の後ろ盾を得て軍制改革を断行した。一般的に彼は王権の支持者とみられていたが、連邦における王権の強化、貴族の既得権益追求には反対している。


1633年、コニエポルスキはトルコの連邦への攻撃を阻止し、7月4日にはサゾーィロッグでこれを撃破した。同年10月22日、カミヤネツ・ポディロスキで兵力に優れた2万以上のオスマン帝国軍をも撃滅している。オスマン帝国を破ったコニエポルスキは毅然たる態度で新しい条約への調印をつきつけ、1634年8月19日に結ばれた新条約は1621年のチョシム条約を批准したものであった。これによのトルコ・ポーランド戦争は終結する。


1635年、コサックのイワン・スリマが蜂起し、彼らはポーランドのコダック要塞(現在のドニプロ近く)を占拠、破壊した。コニエポルスキーは砦を取り返すと、反乱軍を罰した。スリマは捕虜になり処刑された。


その年の後半、コニエポルスキはスウェーデンとの別の戦争の準備をするためにポメラニアに戻ったが、しかしこの作戦行動はズツンカ・ワイズ条約によって白紙とされた。


コニエポルスキは連邦軍隊の近代化の必要に迫られ、ウラディスラフ4世と協力して軍制改革に取り組んだ。そこには西部の戦争の主流である傭兵の雇用と砲兵技術の発展が含まれ、彼はいくつかの都市における武器庫の監督を経験した。彼は才能ある大砲技術者と技術将校の支援者であり、またウクライナの地図制作者ウィリアム・デ・バジル・ビープランやクリミアの地図制作者セバスティアン・アドラスの支援者でもあった。彼はまたバルト海艦隊創設計画の支持者でもあった。


晩年:1637年から1645年

1637年以降、コニエポルスキは健康状態の悪化により、コサックの蜂起鎮圧とタタール平定に成功した若いヘットマン、ミコワジ・ポトッキに頼るようになった。コニエポルスキはまた、彼のもう一人の有能な指揮官、無法者サミュエル・ウシュチも保護し、彼らに影響を与えた。


コニエポルスキ最後にして最大の勝利は、1644年のタタール族に対する勝利であった。トゥガイ・ベイ率いる約19000人の敵兵に対し、彼は1644年11月30日、オクトマフ近郊の氷上でこれを壊滅的に破った。氷が溶け、多くのタタール人はおぼれて死んだ。17世紀前半の連邦におけるタタール族への最大の勝利であり、オクトマフの勝利とその戦術・・主力を複数の、高度に機動化された部隊に別つ技術・・はコニエポルスキに世界的名声を斎した。


勝利はウラディスラフ4世に取る声の攻撃的戦争を考えさせた。コニエポルスキはクリミア地方に対する限定的戦争は支持したが、オスマン帝国全体への宣戦布告は非現実的であるとして王を愚か者とののしった。「クリミアにおけるタタールの破壊とモスクワとの連携についての提言」と題した彼の計画書の中で述べた彼の戦術的見解で、コニエポルスキはまずモスクワとの提携が必須であると強く求めた。ウラディスラフ4世はトルコ十字軍を強く求めた者ものの、国内的な支援はまったく得られなかったので、コサックたちの間に謝った期待を持たせるだけに終わった。


1645年6月15日、コニエポルスキの妻クリスティナが死ぬ。1646年1月16日、コニエポルスキは16才の娘ゾフィア・オファランスカ(のちの元帥ルーカス・オファランスカの娘)の手を取ったが、すぐ再婚した。1646年3月11日、ブロディでコニエポルスキは死んだため、新婚生活は数ヶ月で終わった。ある情報筋に拠れば、コニエポルスキの死因は新しい結婚にあったという。ヨアキム・ジェリクはその日記にコニエポルスキの媚薬の過剰服用について言及している。葬儀は1646年4月30日、ブロディで行われた。


富と影響

その人生の過程で、コニエポルスキは多大の財貨を積み上げた。彼の所有物のほとんどはウクライナに残っており、彼はウクライナの非公式的な支配者であった。連邦においてこのような立場はそれまで存在しなかったが、何人かの外国人は彼を「ウクライナの勝利者」と呼んだ。国王ウラディスラフ5世はこの連邦南東部における政治的決定において、彼を信任した。王の新任と支援を受けて、コニエポルスキはコンスタンティノープルから外交使節団を接受し、交渉し、条約を結んだ。彼はグランドクラウンヘットマンとして連邦の軍隊の大部分を掌握しており、モスクワからオスマン帝国までに広がる私設軍とスパイ網をもっていた。


コニエポルスキは父親から約7〜8の村を相続した。彼が死んだとき、彼は12のスタロスト(地域)を所有し、何十もの町を含む300以上の集落を所有し、年間収入50万ズロットを超えた。ウクライナ西部における彼の土地と農奴の保有は相当のものだった。彼はヴラーツラフで18548世帯を所有していた。コニエポルスキは、自分の財産の大部分を彼のウクライナの土地の開発に投資し、過疎地域の解決を支持した。彼は彼の投資で繁栄したブロディの町を含む多くの町や都市の開発を創設し、後援し、そして重要な地元の商業の中心地となった。コニエポルスキは1633年、城砦と要塞で町を強化し、ペルシャ式のサマイト織物、カーペットおよび敷物を製造するためのワークショップを開設した。彼はまた、美しいイタリア庭園のあるピッドハーチに要塞宮殿を建設した。他の大物同様、コニエポルスキは芸術の守護者であり、画家、彫刻家、作家を後援していた。彼はまた多くの教会を設立し、ブロディの学校を学院に昇格させようとした。彼はワルシャワにコニエポルスキ宮殿(現在の大統領宮殿)を建設し、バーとクダックの軍事要塞の建設を後援した。


礼儀正しく、教育を受けた男性と見なされていたので、コニエポルスキはセジム議会で開かれる会議に可能な限り参加したが、吃音症ゆえ公の場で口を開くことはほとんどなかったという。彼はツァラチタ(貴族)仲間の間で広く尊敬され、非常な人気があった。

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