第3話 切実な想い

 かくして、とっぷりと夜の更けた頃。

 手紙による予告の通り、部屋の扉が五回打ち鳴らされた。

 移動の疲れからウトウトしていたカラフは、ぱちりと目を見開いて、口元を緩ませながら来客の元へ向かう。


 極力音を立てぬよう扉を開く頃には、きりりと表情を引き締めて、民衆の前に立つ『明星の騎士』としての顔を作る。

 平然と一夜の火遊びに身を焦がすような尻の軽い女相手にも、最高の礼儀を尽くすのが、カラフの流儀だった。

 また、あえて堅苦しい態度で接することで、『君に特別な情はない』と示すことも必要だった。


 扉の隙間から、朱色のショールをかぶった女が滑り込んでくる。すれ違った瞬間、ふわりと甘い香りが漂った。

 鼻腔に残る香りを堪能しながら、カラフは女をかえりみる。

 長身で痩せ型の女は、手にしたオイルランプを暖炉の上に置くと、両手で胸を押さえてぜいぜいと喘ぎ始めた。ショールで覆われているため、鼻から下しか視認できないが、ほっそりとした顎の線は美しい。


「大丈夫ですか?」


 カラフはおずおずと声を掛ける。胸が悪いのかと思ったが、どうやら、極度の緊張からくる症状のようだ。


「どうぞ落ち着いて、お嬢さん。ここに来たことを後悔なさっているなら、このままあなたの部屋まで送りましょう」


 近寄って、そっと背中に触れると、女は頭を横に振った。そうしながら、徐々に息を整えている。


「い、いいえ、そういうわけには参りません。私は、この機を逃したくはないのです……」


 女のか細い声には聞き覚えがあった。はて、と眉を寄せて記憶を探っていると、女はショールをさっと取り払った。豊かな黒髪がはらりと舞う。


「……王妃様」


 カラフは口元を押さえて、数歩後退した。姿を現したのは、間違いなく王妃エレインだった。


 王妃が、夜中に騎士の部屋に忍んでくるなんて、決してあってはならないことだ。見習い時代、王都周辺を荒らしていた黒狼の群れに囲まれたときと同じくらいの恐怖を感じた。全身が小刻みに震え始める。


「カラフ、いきなりごめんなさい」


 王妃は真っ直ぐカラフを見上げてきている。昼間の冷め切った様子がまるで嘘のように、すっかり覚悟を決めた女の目をして。


「私の気持ちは、手紙にしたためた通りです。どうか、温かく迎えてください」


「なりません、決してなりません……」


 カラフは臆病な少女のように身を縮め、ひたすらかぶりを振る。


「王妃様は夜涼みのため部屋を出られたあと、暗闇に怯えて手近な部屋に飛び込んで来ただけなのでしょう? 部屋までお送りいたしますから、わたくしの後についていらしてください」


 勝手な脚本シナリオを作って、カラフは王妃に背を向けた。

 一歩を踏み出そうとしたとき、背中に衝撃。王妃が、体当たりするように抱きついてきたのだ。


「騎士カラフ……。ずっと以前から、お慕い申しておりました。あなたが『明星の騎士』と呼ばれるよりもずっと以前から」


 引き絞るような声で、王妃は思いの丈を告げてくる。


「まだほんの幼い頃、あなたが私の前に跪いて微笑みかけてくれたときから、ずっとずっと。

 王妃に選ばれたときは泣きましたが、あなたが近衛騎士になっていると知って、これでまた近くにいられると心躍らせたものです」


 王妃の言う『幼い頃』の記憶は、もはやカラフの中になかった。ゆえに、強い罪悪感に責め苛まれる。


「王妃様……。あなたが王に心を開かないのは……わたくしのせいですか」


 恐る恐る尋ねると、王妃はしばらく口をつぐんでいたが、やがて強い口調で語り出す。


「……愚かなことだと理解しております。けれど、心に決めた殿方がいるというのに、他の方に心を開くことはできません」


 カラフは膝から崩れ落ちそうになった。

 こんなことが王の知るところとなれば、国外追放では済まないだろう。王妃を誘惑した大罪人として、極刑に処される可能性だってある。


「だから、カラフ……」


 王妃はさらに強く、カラフの背に身を寄せてきた。薄い就寝着越しに、女の柔らかさと熱が伝わってくる。


「どうか今夜一晩だけ、あなたのものにしてください。さすれば、私は明日から『良き王妃』となります。あなたへの想いを断ち切って、妻として王と向き合います。良い子を産み、立派な国母になってみせます。だから、どうか……」


「王妃様……」


 切実な声音に、己の保身のみを考えていたカラフの胸は締め付けられた。


「カラフ、このままでは私は、叶わぬ想いに手足を繋がれた囚人です。暗い牢の中で、王の御代みよを呪い続けるでしょう……」


 ――そこまで、思い詰めていたのか。

 王妃の想いを受け止めたカラフはゆっくりと身体を反転させ、王妃と向かい合った。王妃は濡れた瞳で、すがるようにカラフを見上げてきている。


 美しい、と思った。容貌の美しさだけでなく、愛しい男に想いを告げながら流す涙が、額に張り付く黒髪が、震えるくちびるが、今の王妃を構成するすべての要素が美しい。


 彼女の想いを遂げさせてやりたいと、衝動的に思った。

 だが、それではいけない。王妃に、きちんと伝えなくてはいけない。

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