3-2

 不意に、柔らかな匂いがした。その刺激に意識が深層から呼び戻され、自然と瞼が動く。

 ゆっくり目を開けると、ぼんやりとした視界が広がった。徐々に思考が復活してゆき、同時に先の匂いへの疑問も浮かぶ。

 視界のピントを合わせようと目を凝らすと――目と鼻の先に、シエルの顔があった。



「!?!?」


 ライルは一瞬で覚醒した。声を上げるよりまず反射的に跳ね起きて――


「って!」

「った!」


 その拍子にシエルと思い切り顔をぶつけた。


「おおお……」


 ライルはソファーに寝たまま額を押さえ、呻く。


「……もうライルぅ……何すんのさぁ」

「そりゃこっちの台詞だ……」


 ぶつけた額をさすりながら、ライルはのろのろとソファに座り直す。シエルはソファの前で座り込んで鼻先を押さえていた。床でゆるく渦巻く彼の髪が、カーテンから漏れる朝日に照らされ銀に照り映える。


「ったくお前は……朝っぱらから驚かせやがって……」

「男同士なのになんでそんな驚くのさぁ……」

「男同士でも目覚めてあの至近距離はビビるわ! つーかホント何してたんだ!」

「ボクはライルの寝顔見てただけだよ」

「はぁ? 寝顔?」


 またくだらんことをと、ライルは自然と半眼になる。


「寝顔なんか見て楽しいか……?」

「楽しいよ。だってランスロットの寝顔だよ? 激レアじゃん」

「あのな……」


 だがそこで、ライルはシエルの背後に小さな箱のようなものが覗いていることに気づいた。


「おい、なんだそれ?」

「えっ? あっ」


 シエルは反応して、それを後ろ手に探り当てると体で完全に隠した。明らかに動揺した声に、ライルは訝る。


「何隠した?」

「ううん別になんでもない。ただの手品道具。企業秘密」

「……ふぅん。ま、何でもいいけどな」


 素っ気なく言ってソファから立ち上がり、背もたれにあったいつものシャツを着なおす。


「――とぉ、見せかけてぇっ!」


 ライルはシエルに素早く詰め寄ると、右手でそれを拾い上げた。


「あーっ!」


 シエルは跳ねるように立って手を伸ばしてくるが、ライルは右手を高く掲げて遠ざける。その姿勢のまま、顎を上向ける。


「……写真機カメラ?」


 手の中のそれは、小型のフィルムカメラだった。


「返してよー」


 追いすがるようにシエル。

 ライルは彼とカメラとの間で視線を往復させていたが――ある時これをどう使っていたのか察しがついて、カメラを掲げた姿勢のままシエルに冷めた視線を向ける。

 ライルは姿勢そのままに、空いた手で彼の鼻先を思い切りつまんだ。


「いたっ! ライル、そこさっきぶつけたとこ!」


 だがライルは手を緩めることなく、


「お前……寝顔撮りやがったな?」

「うぇ……だって激レア――」

「寝顔の隠し撮りはあんま気分のいいもんじゃねぇよなぁ? つーかンなもん撮って何に使う気だった? いたずらか? イタズラか? それとも悪戯か?」

「ご、誤解だって! 写真はボクが個人的に楽しむ用に……」

「それも十分良くねーわ! そもそも俺は素顔の写真撮られるの嫌いなんだ!」


 それは怪盗時代に染み付いた習癖である。ライルは彼から手を離すと、カメラ底部の蓋を開けた。中からフィルムを取り出して、カメラはベッドに放る。


「没収」

「あー!」


 フィルムを握った手を掴もうとしてくるシエルを軽く躱して、ライルは間合いから逃げる。


「返してよ! 泥棒!」

「おお。泥棒さ。ランスロットから取り返せるもんならやってみろ、ひよっこ泥棒」

「返せー!」


 シエルは突進してくるが、ライルは余裕の笑みで迎え撃ち、空いた手一つで彼の顔を押し止めた。さらにフィルムを握りこんだ手で、見えないシルクハットのつばをはじいてみせる。


「ははは! まだまだですね。その程度では、取り返せませんよ?」


 珍しく後手に回っているシエルの反応が面白く、ライルはここぞとばかりに彼をおちょくる。

 だがそこで、シエルは顔の前のライルの手をぎゅっと掴んだ。


「じゃあこんなのどーだ!」


 声のトーンをぐんと上げて、叫ぶ。


「素敵ーっ♡ ランスロット様ぁーっ♡」

「くぅっ……」


 強烈な音波攻撃に一瞬怯みかけたが、ライルは声が男のものだと必死に意識した。取り乱すことなくその場に踏みとどまって、なんとか攻撃を受けきる。


「嘘っ!? 効かない!?」

「はン、昨日努力するって言ったろうが! お前は男! もうその手は食わん!」

 口角を上げて、額の汗をぬぐう。しかしシエルはそこで思い切り息を吸った。

「んあぁんっ♡ ライルぅっ♡ すっごぉいっ♡」

「だああああああああっ!」


 ライルは全力でシエルの口をふさぎにかかる。


「なんつー声出してんだ! 他の奴らに聞かれたらどーする!」


 だがその一瞬の隙にシエルはフィルムをかすめ取り、ライルの拘束から逃れた。今度は彼がライルの間合いから抜けて、顔の横で指を立てる。


「ふふん。まだまだですね?」

「くっそ……」


 結局主導権を奪われ、ライルは歯噛みする。

 するとシエルはニヤニヤとほくそ笑んだ。


「なんかさー、ライルって女の子が絡まなくても、意外と隙だらけだよねぇ?」

「んだと!」

「だってあっさり出し抜かれてるし。ランスロットも案外大したこと無いのかなぁ? なんて」


 ――ほぅ。

 ライルは口を閉ざすとゆらりと立ち上がり、シエルに一歩近づいた。彼はそれに合わせて両手でフィルムを握りこみ、身をよじる。


「あ、だめだよ。もう渡さないもん」

「――ランスロットが嫌うものは三つあります」


 ライルは音もなく素早く詰め寄ると、彼の手を引いてもう片方の手でその細腰を抱いた。強く手を握って身動き一つさせない。


「一つは、美しくないもの。もう一つは、素顔の写真」


 さらに眼差しを凍てつかせ、顔の下半分で酷薄に笑う。


「そして最後の一つは、侮辱されることです。今しがた、貴方は美しくない隠し撮りで私の素顔の写真を撮り、おまけに私を侮辱した。さすがの私も冷静ではいられませんね?」


 手にさらに力を込め、紡ぐ声は低く鋭く。刃のように研ぎ澄ませる。


「悪人相手に挑発した貴方が悪いんですよ? 私はあくまで犯罪者ということをお忘れなく」

「ラ、ライル……」

(……どーだ。結構怖いだろ)


 視覚そのままに意識だけ内側に向けて、ライルは胸中で独りごちた。


(こいつには何かとからかわれっぱなしだからな。たまには反撃してやらにゃ)


 別に彼の言動が不快というわけではないのだが、天下の大怪盗がやられっぱなしは美しくない。それにやっぱり、なんか悔しい。

 だがふと意識をシエルに戻すと――彼は顔を真っ赤にして目を逸らしていた。


「なんだその反応はっ!! どこに恥ずかしがる要素があった!?」

 ライルは彼から手を離してツッコむ。

「え、いや……悪党ランスロットも、結構カッコいいなって……」

「は!?」


 ――とその時。不意に、きぃ、と何かが軋む音が聴覚に滑り込んだ。ライルが横に首を振り、短い廊下の先にある部屋の入口ドアを見やると――そこには視線と手を中空で彷徨わせるベルティナの姿があった。


「あ、あのあの……通りかかったら、ライルがすごいと声が聞こえたですの。鍵が開いていたので、つい……そしたらあのその……」

「あー。昨日鍵かけるの忘れてたかー」


 けろりと、シエル。


「し、失礼しましたのですの」


 出来の悪い操り人形の足取りで、ベルティナは退場する。シエルは肩をすくめて、


「続き、する?」

「するかぁっ!」


 ライルはベルティナに弁明すべく、全力で部屋を飛び出した。

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