幕間 ボクの願い(コール)と、引き替えに

 深夜。月も星も見えない夜空の下、街路を進む人影があった。

 混紡のパーカーを着たパンツスタイル。フードを目深に被り、機械的に足を進めてゆく。

 ぽつぽつとある電気街灯の光を頼りに、人けのない細い路地を右へ左へ抜け、あるところで足を止める。そこにあったのは、小さな門と前庭のある二階建ての建物。地味な風合いの三角屋根を持つ木造家屋は、ひっそりと街に、闇に、溶け込んでいた。




(――久しぶりだな)


 建物を見たシエルは不思議な感覚に襲われた。

 半年ほど前までここにいたのに、ずいぶん長く離れていたように感じる。

 ここはシュタルニア公安部の特殊保護施設、その一つである。

 足を送り出し、開いていた門を抜ける。夜露に湿る雑草の青臭さを鼻の奥に吸い込んで建物正面へ。玄関は開いていて、シエルは中に入った。

 内部はオーソドックスな下宿という雰囲気だった。左手に二階へ続く階段があって、階段の右側は廊下。廊下は階段の少し奥で左右に分かれていた。闇に目が慣れているおかげで、間取りの視認は容易だ。もっとも、中は目を瞑ってでも歩けるが。

 シエルは迷わず廊下を進み、右に折れた。すぐ前には扉があって、そこを押し開ける。奥はキッチンだったが、家具もないそこは空しく広かった。ただ窓からは外の街灯の光がわずかに届いていて、ぼんやりと明るい。

 部屋の中では見知った背広姿の男が背中を向けていた。こちらの入室に気づいていないはずはないが、向こうを向いたままの彼に、シエルはフードを取り去って声をかける。


「団長。今日はまた、どうしてここを?」


 声を受けて、男――ベイドリックはゆっくり振り返った。


「秘匿性を重視しただけのことだ。他意はない」

「そうですか」

「それで、直接話したいこととは?」

「はい。アルカンサーカスの指導者として適任である人物を見つけました」

「ほう? どんな人間だ?」


 シエルは、少し考えて、


「古美術商です」

「……なに?」


 ベイドリックは眉根を寄せた。

 彼の反応はもっともだった。予想していたことでもある。


「何か特殊な経歴があるのか?」

「いいえ」

「推薦理由は?」

「先日、彼の小説を読みました。怪盗小説です」

「…………」

「主人公の大怪盗は、豊富な知識と華麗なテクニックで数々の盗みを成功させます。それはアルカンサーカスの活動にも応用可能かと」

「ふざけるな」


 ベイドリックはぴしゃりと言った。


「そんな人間、使えるわけがないだろう。アルカンサーカスは遊びではない」

「そう言われると思っていました」


 シエルはにっこりと笑う。


「……私を納得させる策があるという感じだな?」

「はい。必ず、納得していただきます」


 シエルはポケットから、表面にドミノマスクの絵が印刷された空色のチケットを取り出す。

 それを見て、ベイドリックは目を見開いた。


「馬鹿な……こんなことに使うのか?」


 ベイドリックの言葉は無視して、シエルは告げる。


「〈ワン・コール〉。古美術商、ライル・カートライトのアルカンサーカス引き入れに協力してください」

「……なぜそんな……」


 シエルは立てた人差し指を口元に当てた。


「契約違反ですよ。〈ワン・コール〉に対して、政府は理由を尋ねてはならない」


 言われたベイドリックは視線を泳がせたが、緩やかなため息と共に目を伏せた。


「……わかった。従おう。しかし他のアクターは納得するかな」

「ボクが説得しますし、テストもします。もっとも、彼が不合格になるとは思っていませんが」

「…………」

「一週間後、彼をサーカスに引き入れます。団長も観に来てくださいね」

「……いいだろう」

「それと、『春の踊り』奪還の演出も、彼に任せます」

「待て。即日引き入れたとして、あれの奪還は翌日になるぞ」

「問題ですか? 彼ならきっと、やってくれます」


 シエルの灰の双眸には、寸毫の翳りも揺らぎもなく。

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