1-3
暖かな感触を後頭部に感じた。目を開けると、ぼんやりした視界に天井と人影が映る。
「あ、起きた?」
「……ん……」
ライルは目をこすり、ピントを合わせる。
「服、勝手に探して着替えさせたけど、紅茶シミになるから、早く洗濯しなよ?」
視界には、こちらを覗き込む灰色髪の少女の姿。少し首を巡らせると、自分のいる場所はすぐわかった。店舗の奥にある狭いワンルーム、生活スペースである。自分はいつもベッド代わりにしているソファに寝かされて、しかも先の少女に膝枕されているらしかった。
「……俺、どうして……」
起き上がって隣に座り、前髪に手を突っ込む。エプロンははずされていて、上着は黒いカラーシャツに変わっていた。眼鏡もなかったが、あれは伊達なので無くても不自由はない。右頬をさわると、小さな絆創膏の感触があった。
「もー。いきなり倒れるからびっくりしたよ」
(ああ、そうだ……)
いつもの発作でぶっ倒れたのだと、ライルは思い出す。
「でもちゃんと起きてくれてよかった。もう大丈夫だよね?」
「ああすまん……迷惑かけたみたいだな。もう大丈――」
だが言いかけて、ライルは首が錆びつきでもしたかのような動きで顔を横向けた。
隣では少女が眉尻を下げて、静かに微苦笑を浮かべている。
「だっ! がっ!」
ライルは少女の姿を再認識すると、部屋の端まで一挙動で飛び退いた。――といっても狭い部屋なので大して距離は取れないが。
「起き抜けに騒がしいなぁ……」
「お前、な、なんでこんなこと……」
「なんでって、さすがに目の前で人倒れて放置はできないでしょ」
「いや、で、でもそんな、膝枕とか……」
言いつつ、後頭部や首をさする。が、幸いにもじんましんは出ていなかった。
「うーん、膝枕もダメかぁ」
少女はくすりと笑う。
「相当怖いみたいだね。女の人が」
「どうしてそれを……」
「さっきの反応見たらわかるよ。それに普段の様子も、少し知ってるし」
言って少女は立ち上がり、ゆっくり距離を詰めてくる。対してライルは猛獣にでも追い詰められたかのように、べったりと壁に張り付く。
「お、おい、あんまり近づくなって……」
「介抱してあげたのに、酷くない?」
「そ、それは……けど俺、女はどうしてもダメでっ……」
「あはは。これは重症」
すると少女はライルの直前で足を止めた。だが今度は背伸びして顔を近づけてきた。じっくり観察するように双眸を瞬かせる。
「なっ、なんだよ……離れてくれよっ……」
だがその時、少女の形のいい桜色の唇がゆるく弧を描いた。
「ね。もしかして、辞めた原因ってこれなのかな? ランスロットさん?」
ライルは、久しぶりに聞いたその名に息をのんだ。
「……誰だ、それ」
しかしその言葉に、少女は笑顔で肩をすくめた。
「この街でそのごまかしは逆効果だよ? 三年前から活動してないとはいえ、この街に住んでてランスロットの名前を知らない人はそういないでしょ」
「つい最近、引っ越してきたから」
「ここで古美術商が開かれたのは二年半くらい前だよね」
「二年かそこらなんて、大人の感覚だと最近なんだよ」
「じゃあ三年も同じようなものかな? 最近辞めた、ランスロットさん?」
「だから、俺は怪盗なんかじゃ――」
言ってしまってから気づいて、口を噤んだ。
「ふぅん。怪盗ってことは知ってるんだね?」
「ぐっ……」
他の言い訳を考えようとしたが、女性と対面している恐怖のせいかロクに思考が回らない。結局、ライルは観念した。
「……ランスロットはもう過去の話だ。俺は足を洗った」
「女の人が怖いから?」
「……そうだよ」
「でもそれが理由って、いまいちピンとこないなぁ。女性恐怖症になった経緯も気になるし」
「話せば長くなる。それに、あんまり話したくない」
ライルは左目を閉じて視線を逸らす。
三年前のこととはいえ、これを話すのは気が進まない。無論、今まで誰かに話したこともないし、たとえ話したところで理解されるものでもないだろう。
だが少女は軽い足取りでソファに座り直すと、言った。
「介抱のお礼が欲しいな?」
彼女からは、期待の眼差しが猛烈に突き刺さる。しかも彼女の灰の瞳は、話さなければ帰らないと雄弁に語っていた。ここで粘っても時間の無駄だと察したライルは、再び観念する。
「……わかったよ」
まぁ、正体がバレている以上、今さら隠しても仕方ない部分はあるのだ。介抱してもらったのは事実であるし、力づくで追い出そうにも体に触れないのでそれはできない。
「期待するほどのもんじゃねーぞ」
最初にそれだけ断って、ライルは壁に背中を預けた。
三年前のある夜、ランスロットはいつものように盗みに入った。この日のターゲットは国立美術館の金庫に長年保管されていた国宝級の宝石だった。政府はレプリカを本物だと偽って展示しており、本物は厳重に金庫に保管されていた。
盗みは順調だった。予告状を出して、集まった警官隊に紛れて潜入し配電盤に細工。警察側の作戦を盗み聞きし、停電させた後で適当に作戦の裏を突いて宝石を盗み出す。
なんのことはない仕事だった。
しかし最後の最後、ランスロットは大きなミスをした。逃げ出して美術館の高い塀の上に陣取り、いつもの決め台詞で去ろうとしたとき、つい足を滑らせたのだ。下にはいつものように(主に女性の)大観衆がいて、ランスロットはその只中に落下した。
壮絶だった。ミスだと気付いていたのかはわからないが、いつもの花の代わりに落ちてきたランスロットに、(主に女性の)観衆らは半狂乱で殺到した。現場は瞬時にパニック状態となり、ランスロットはどす黒い欲望の渦中で(主に女性に)もみくちゃにされた。
なんとか逃げ出すことはできたものの、衣服はボロボロで体は傷だらけ。盗んだお宝も行方不明。一応は隠れ家に戻れたものの、前後のことは正直あまり覚えていない。
そして気が付けば――重度の女性恐怖症になっていた。
「そんなわけで俺は怪盗から足を洗って、鑑定眼を活かしてこの店を始め――って、おい」
見ると少女は背中を曲げて小さく震えていた。
「ご、ごめん。でもいや……ちょっとこれは予想外……」
少女は、その姿勢のまま、
「つまりその……格好つけまくって怪盗やって、女の子に気に入られたはいいけど、ミスしてファンに群がられて女の子が怖くなった。で合ってる?」
「……まぁ、そうだ」
「あっはははははは!」
「笑うなっ! 結構深刻なんだぞっ!」
「あはは、ごめんごめん。本人からしたら大変だよね、うん」
こちらの苦労を察したらしい少女は、指先で涙をぬぐって笑いを堪える。
「でもさ、怪盗辞める必要はなくない? ダサい怪盗でいけば女の子もいなくなるでしょ?」
だがライルは腕組して顔をしかめた。
「そんなもん怪盗じゃない。カッコよく、美しくキメめるのが怪盗だって俺の中での美学があるんだ。でもそれをすると女の声援で足がすくむ。ならもう――辞めるしか道はないだろ」
「あはははははははははは!」
「だから笑うなっ!」
それでも少女は笑い続けたが、ひとしきり笑うと、一人こくこくと頷いた。
「でも、そっかそっか。いや、むしろ安心したかな。盗みの技術が衰えたとか、体に何か致命傷を負って活動できなくなったとかじゃないんだ」
心に救いようのない致命傷を負ったわけだが……その言葉は、今は呑み込む。
すると彼女は再び立ち上がって、今度はライルの全身を無遠慮に見回し始めた。
「女性恐怖症は、まぁとりあえず置いておくとして。うん。やっぱり体の基礎も、まだしっかりしてそうだね。軽くリハビリは必要だろうけど」
「……なんのことだ?」
その問いかけに、少女は灰の瞳を、わずかに細めた。
「ねぇ、ランスロット。ううん、ライル・カートライト。ボクに盗みを教えてよ」
「……は?」
「だから、キミのノウハウを、ボクにちょうだい?」
「お前、何言ってるかわかってんのか」
「わかってるよ。こう見えてボクは、昔のキミと同業者だから」
それは、つまり。
「怪盗……あるいは、泥棒ってことか?」
「そういうこと。……この店、出張販売と鑑定はやってる?」
「……ま、まぁ一応」
「なら注文だよ。ボクが欲しいのはキミ。お宝は今ここにはないけど……できれば鑑定もやってほしい」
「いやあの、話が見えないんだが……」
「明日、ここへ来て」
彼女はどこからともなく、一枚の紙幣のようなものを取り出してみせる。
受け取ると、それは何かのチケットのようだった。空色の光沢紙にただ一つ、やけに機械的な見た目のドミノマスクの絵が印刷されている。端に手書きで、アルカン81‐A24と住所が書かれていたが、公演情報や時間、団体名などの記載はない。
「……冷やかしなら帰ってくれ。俺は結構真面目にこの店やってんだ」
「冷やかしじゃないよ。……待ってるから」
言うだけ言って、彼女はさっさと踵を返す。
「おい、まだ行くとは言ってねーぞ」
その言葉に彼女は足を止め、不敵な笑みで振り返った。
「キミがランスロットだって警察に通報してもいいんだよ? うまく引退したようだけど、綿密に探せばどこかに綻びは出るでしょ?」
「く……」
彼女の言葉は、事実であった。現代の警察の捜査を甘く見てはいけない。ランスロットをやっていた頃はときに警察を小ばかにするような手法、言動も取ったが、警察相手に油断したことは一度たりともなかった。彼女の言う『綻び』に、思い当たる部分は正直ある。
ライルはしばらく黙考して、ため息をついた。
「……とりあえず行くだけ行ってやる」
「よろしい。あ、わかってると思うけど一人で来てね。あと変な事考えたら、即刻通報だから」
それだけ言うと、彼女は店舗スペースへと続くドアを開けて部屋を出ていく。
だがその背中に、ライルはなぜか既視感を覚えた。気づけば彼女を追っていて、思わず声をかけていた。
「あの……」
「ん?」
振り返った彼女は首を傾げ、それに合わせて灰色の髪が流れる。
何を言うべきと思ったのか、自分でもわからない。結局、数秒固まった挙句に浮かんだのは、ありきたりな質問だった。
「お前……な、名前は?」
だがその言葉に、少女は少し迷うように視線を彷徨わせた。
「シエル。シエル・アレルオン。……またね。伝説の大怪盗さん」
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