1−9 負うべき責任

「――あら? 君は確かE組の一ノ瀬くん? どうしたの?」


 マモルが職員室の扉を開くと若い女教諭が少し同情的な目になって声を掛けてきた。生徒に人気のある英語教師の清川だ。肩口で切りそろえた髪で可愛らしい印象が強い。

 清川教諭は他に誰もいない職員室でわざわざ扉までやってくると思いつめた表情のマモルに向かって優しげな顔に変わる。


「あ、あの……清川先生? 竜崎先生は何処ですか!?」

「えっ? えっと……その、竜崎先生は今……」


 だがマモルが竜崎の名を口にした途端清川の視線が宙を彷徨う。そのまま職員質の奥にある扉を見つめる。隣の校長室に繋がっている扉だ。


「……竜崎先生、校長室にいるんですか?」


 少年が尋ねると清川は困った顔になって口ごもり始める。


「あの、えっとね? 竜崎先生は今、大事なお話をされてて……あ、ちょっと!?」

「失礼します!」


 しかしそれを遮ってマモルは奥の扉に向かって歩き始めた。止めようとする清川を振り切って扉の前までやってきた時、その向こう側から校長の声が聞こえてくる。


『――ですから恐らく、自主退職と言う事で――』


 自主退職――その単語が聞こえた瞬間マモルの目が大きく見開かれた。そして清川がどうしようかと慌てているのを他所に扉に手を掛けると思い切り開いた。


「――ですから、非常に残念ですが……ッ、一ノ瀬くん!? どうしたんです?」


 校長室では校長が椅子に座っている。少年の姿を見た途端一瞬押し黙った。だがすぐに笑みを浮かべて優しげな顔になって尋ねる。その前では竜崎が先程の視聴覚室にいた時と同じく憮然とした様子で立っている。

 校長の隣で立っていた教頭が慌てて近付いて来ると少年の肩に手を置いた。


「一ノ瀬くん? 今、校長先生と竜崎先生は大切なお話をされてるからあっちに……」


 だがマモルはその手に抗いながら校長を睨みつけた。


「なんで先生が辞めるんだよ! 竜崎先生が辞めさせられるなんておかしいよ!」

「――俺は別に構わん。こうなる事は織り込み済みだ」


 しかし少年の怒鳴り声に竜崎は冷静なまま答える。校長から視線を外す事すら無く淡々と。それを聞いて少年の頭の中で再び男に言われた言葉がぐるぐると回り始めた。


――覚悟を決めろ。覚悟を決められなければ、死ぬのはお前だ――。


 あの時きっと少年だけではなく竜崎阿久斗自身も覚悟を決めた。だからこうなると分かっていてマモルの為にあそこまでやってくれた。少年は今更になって思い知らされる。

 俯いて必死に考えるマモル。しかし竜崎は淡々とした声のままで続ける。


「――少年。この世界はこういう場所だ。特にこの国は必ず誰かに責任を負わせる。切腹があったのはこの国だけだ。称賛ではなく責任を重視する。よく憶えておくと良い――」

「……そんなの、関係ないよ!」


 しかし静かに語る男の言葉を遮ってマモルの悲鳴じみた叫びが響いた。それで初めて男は視線を向けると息を飲んで黙り込む。あれ程冷静だった竜崎が本気で驚いていた。

 あれだけイジメを受けても涙一つ零さなかった少年がボロボロと涙を流している。酷い顔で男――竜崎阿久斗を睨んでいる。悔しさを滲ませながら激情に流されるままに。


「……何で、誰も信じてないみたいな言い方するんだよ! 先生は僕を助けてくれたじゃないか! 先生がいたから僕はここにいるんだ! 先生がいなきゃ僕はここにいない!」

「――俺は……」


 肩を激しく震わせながら睨む少年に竜崎はショックを受けた顔になって俯いてしまう。

 そんな様子に清川はマモルの肩に落ち着かせる様に手を置いた。


「……一ノ瀬くん……」

「一ノ瀬くん、ちょっとそっちに行こう? 私が代わりに話を聞くから……」


 だが同じく教頭の手が伸びて来てマモルはそれを振り払った。肩に置かれた女教師の手も一緒に振り払うと憎悪の目で清川と教頭の二人を睨みつける。


「僕に触るな! お前ら、大人は汚いぞ!」

「…………」

「先生が助けてくれなきゃ僕は死んでたかも知れない! でもお前らは何もしてくれなかった! 本気で考えて助けてくれたのは竜崎先生だけだ! 責任ならお前らが取れよ!」


 その一言に校長と教頭は頭を垂れて黙り込んだ。事実彼らはこれまでイジメがあった事すら知らない。それに今回の顛末は少年が一番良く知っている。それを前に何も言えない。

 しかし怒りに身を震わせるマモルの背中から清川が抱きしめた。その腕を振り払おうと少年は暴れるがそれでも清川は腕を離そうとはせずに必死に抱きしめ続ける。


「……ごめんね、一ノ瀬くん……そうだよね、竜崎先生、何も悪くないよね……」


 悔しそうに歪む清川の顔を見てマモルの暴れる力が弱くなっていく。やがて俯いて拳を握りしめた。結局少年は只の中学一年生でついこの間までは小学生だった子供に過ぎない。


 保護者を呼び出した事件で恐らく職務から教育委員会へ報告したのだろう。それ自体は何も間違っていないしおかしな話でもない。

 それは理解出来るがやり切れない。イジメと違ってちゃんと理由があるのに酷い結果になってしまう。こんな事なら竜崎に頼らなければよかったと少年は激しく後悔していた。

 だがそんな時、すぐ隣で少年を抱きしめている清川が顔を上げた。


「――あの、校長先生。竜崎先生の事、何とかならないんですか?」

「……いや、清川先生……ですけどね……」


 校長と教頭は顔を見合わせる。しかし清川は思いつめた顔で訴えた。


「子供を守ったのに処分なんて、そんなの子供達に胸を張って言えません! それに子供の為に頑張っても処分されるなら教師が生徒の為に頑張れる筈が無いじゃないですか!」

「……う……むぅ……」

「こんなの子供にどう言うんですか? 私達教師は生徒の規範だっていつも言っておいてその結果がこれじゃあ竜崎先生が言う通り、もう将来に夢も希望も持てませんよ!」


 マモルはそんな風に熱っぽく語る女教師、清川の横顔を驚いた顔でじっと見つめた。

 元々清川は教育実習からそのままこの中学校に来た教師で、実習時を知らない一年生のマモル達より二、三年生に人気が高い。数いる教師の中でも一番若く考え方も生徒に近い事もあって男女どちらにも好評だ。しかし若い分まだ担任を受け持った事が無い。

 産休の担任と同じくそれ程強く言わないが、それでも思う事がある様だった。


 そんな校長と教頭がマモルと清川の二人に注視する中で少年は立ち尽くす男へと視線を向けた。そこでは以前と同じく片手で額を押さえながら竜崎が顔を歪めている。そしてその瞳があの時と同じくかざした手の影で金色の光を浮かべているのが見える。

 やがてその目が静かに閉じられた後、校長が深い溜息を吐き出す声が聞こえてきた。


「はぁ……仕方ありません。まあ、私も出来るだけ掛け合っては見ますが……」

「え、校長先生……本当にそれでよろしいんですか?」


 驚いた顔になって振り返る教頭に校長は苦笑して答える。


「今回の事は『一ノ瀬くんの希望に沿う形で』となりましたから。親御さん達もそれで納得されてますし。それが希望なら約束した手前、努力するのが大人の役目でしょう?」


 その采配に目を閉じていた竜崎が僅かに驚いた様子で瞼を開いた。同じくマモルに抱きついていた清川がまるで子供の様にはしゃいだ声で少年に頬擦りし始める。


「――やった! 一ノ瀬くん、やったよ!」

「……あ、あの……清川先生、あの……辞めてください……」


 どうやら我に返ったのかマモルは頬を赤くしながらボソボソと呟いた。しかしそんな事にお構いなしで清川は少年が恥ずかしがるのが楽しくて堪らない様に一層強く抱きしめる。そうやって喜ぶ女教師に向かって校長は言い訳するかの様に慌てて声を上げた。


「あ、ですけど、駄目でも怒らないで下さいよ!? 努力はしますけどそれを委員会が聞き入れてくれるかどうかは別ですからね!? そこの処だけは理解しておいて下さいね!?」


 こうして――今度こそ本当の意味で少年の長過ぎる一日はようやく終わりを告げた。

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