1−6 教師ではない教師

 マモルが視聴覚教室に着いたのは一〇分程過ぎた後だった。既に陽も沈んで廊下は暗くなっている。その中を歩いて視聴覚教室の扉を開くと眩しい光に思わず目を閉じてしまう。

 そんな少年の耳に聞き覚えのある声と同時にしっかりと抱きしめられる感触があった。


「――マモル!? あんた、やっぱり……本当に良かった……」

「え……え、か、母さん!? なんで、ここに……!?」


 少年は驚いて声を上げる。やっと光に目が馴染んで教室の中を見ると担任の竜崎阿久斗がじっと見つめている。その隣では青褪めた顔を強張らせて校長と教頭までいる。その向こうでは安藤少年達四人が俯いて座っているのが見えた。その内一人の少年は今まさに大人の男性に拳骨で殴り倒されている真っ最中だ。

 訳も分からずキョトンとするマモル。竜崎は変わらない調子で静かに声を掛けてきた。


「――やっと来たな少年。良く耐えた。さあ、これから俺が理不尽との正しい戦い方を教えてやる」

「……え、あの……竜崎先生……?」

「先ず現状を説明しよう。放課後、すぐに校長と全保護者を呼集した。そして先程まで少年が受けた暴言の数々を中継した。無論ネットワーク経由で音声データはクラウドに保存済みだ。ここまでは良いな?」

「……へ?」


 呆気に取られて返事を返す。まさかこんな展開が待っているとはマモルも流石に予想出来ない。精々呼び出されて再び念を押される程度だと思っていたら四人の親だけで無く自分の母親までが呼び出されている。それは予想を遥かに超え過ぎていて最早未知の領域だ。


 そして先程の罵詈雑言を全て聞かせた――それを思い出してマモルは慌てて母親の顔を見た。母親は真っ青な顔で必死に少年を抱きしめている。それも相手の子供達を今にも殺しそうな形相で睨みながら。それは少年が見たくなかった母親の顔だった。

 自分だけで解決出来なかったから――そんな思いでマモルは唇を噛んで俯いてしまう。しかしそれを見ながら竜崎阿久斗は静かな声で少年に話し掛けた。


「――大人に知られる事は恥ではない。そもそも大勢で一人を虐げておいて何故相手を卑怯だと罵れる? 少年の母親は『立派な親』だ。本気で守ろうとしてくれる事に感謝すべきだ」


 その一言は恐らくマモルにだけ語ったのでは無いだのだろう。良く通る低い声は教室の中に響くと相手の親達も居た堪れない様子で項垂れて子供達も俯いて震え出してしまった。

 だが突き刺す様な静けさの中で親の一人が苛ついた様子で声を上げた。


「はあ? たかが教員の分際で偉そうに。何言ってるんだ、お前?」


 それは安藤少年の隣に座って腕を組んでいた男だ。不機嫌そうに竜崎を睨んでいる。そしてその男が立ち上がった時隣で座っていた安藤少年が慌てて止めようとした。


「ちょ……父さん、もう辞めてくれよ!」

「お前は黙ってろ、シンジ――大体な、そっちのガキも問題があったからこうなったんじゃねえのか? ガキの喧嘩に大人が一々口出しやがって、何を偉そうに……」


 二人のやり取りを聞くとどうやら安藤少年の父親だろう。茶色に染めた髪を掻きながら面倒臭そうに竜崎を睨んでいる。竜崎はくだらなそうに一瞥するが安藤の父親は校長に視線を移すとニヤリと自信のありそうな笑みを浮かべた。


「ちょっとガキ同士で揉めただけだろ? あんま良い事じゃねえが喧嘩になりゃ死ねだの殺すだの勢いで出るモンだろが? イジメとか大人使って決着付ける方が卑怯臭えよ」

「え、ええと……まあ、その……」

「やっぱ校長センセともなりゃ話が早えなあ? ガキ同士の喧嘩って事で話終わらせるのが一番スマートだぜ? 親の俺らが出て話大きくしても仕方ねえだろ? なあ?」


 そう言うと安藤の父親は余裕のある笑みを浮かべて再び竜崎の顔を見た。その目には絶対的な勝利を確信した笑みが浮かんでいる。それを見た竜崎は肩を竦めると机に置いてあったレコーダーをポケットにしまい始めた。


「――なるほどな」

「分かったかよ、この糞教師。適当な事してんじゃねえぞ。教育委員会に文句言うからな、きっちり覚悟しとけや? 一々保護者の手を煩わせやがって、身の程を知れや?」


 そんな罵声を浴びせながら威圧する様に安藤の父親は言う。しかし竜崎は鼻で笑うと呆れた顔でじっと見つめた。そして面倒臭そうに口を開く。


「いや、安藤少年が悪いのではなくその親がクズだと判明して納得しただけだ」

「……なんだと? てめえ、喧嘩売ってんのか?」

「指導する親がこれでは話にならん。貴様の好きにしろ。俺も好きにさせて貰う」

「てめぇ、この糞ガキが……二度と教師出来ると思うなよ!?」

「そもそも一ノ瀬少年に多少問題があった処でそれは問題ではない。寄ってたかって一人に嫌がらせをして正当性があるものか。今のやり取りも録音している。証拠に事欠かん」


 正に一触即発の険悪な空気が流れる。流石にマモルの母親も驚いた顔で竜崎を見上げている。しかし先程子供を殴り倒していた拳骨親父が今度はキョトンとした顔になって教室を立ち去ろうとしていた竜崎教諭に向かって尋ねた。


「いやいや、ちょっと待ってください。俺はガキ共のやり取りを聞いてうちのガキが絶対悪いと思っとります。それで……竜崎先生はどうされる、ってんですか?」

「うむ? 俺がどうするかなぞ分かりきっているだろう?」

「いえいえ、その……一体何をどうされる、ってんですか?」


 それで教室を立ち去るかに見えた竜崎は足を止めて振り返った。


「――当然、俺が集めた情報を全て警察に提出する。器物破損、盗難、異物混入に恐喝、殺人教唆に予告と指紋も押さえてある。残念だが今後あなた方のお子さんは更生施設で過ごす事になるだろう。それが教育方針と言うならば仕方が無い。こちらも受け入れるのだからそちらも当然、受け入れて貰う」

「な……!?」


 それで絶句すると拳骨親父の顔が激しく強張った。同じく顔を青くして聞いていた校長と教頭も顔を強張らせながら慌てて竜崎を説得しようとする。


「いや! 竜崎先生、それは!」

「校長、短い間だが世話になった。とは言っても今日一日だけだが」

「いやいやいや、竜崎先生! それじゃ子供達の為になりませんよ! ちゃんとお互いに話し合って、今後こういう事が無い様にきちんと相談していかないと……!」


 しかしそんな校長と教頭の言葉に黒い男は初めて不思議そうな顔で首を傾げた。


「お前達は何を言っている? 俺は相談や話し合う為に呼んだのではない」

「……へ? え、いや……」

「俺は今回の事件を解決する為にネゴシエートしている。少年の人生を守る為に此処にいるのであって教師としているのではない。目的の為であって立場の為にやっていない」

「…………」

「安藤少年の父親の話で交渉は決裂だ。要求に従わないのなら速やかに処理する。とても残念だが俺は一ノ瀬少年の安寧を最優先する。ああそうだ――一ノ瀬少年の母上よ、大変申し訳無いのだが日本警察に被害届を出して頂きたいのだが頼めるだろうか?」


 あくまで淡々と述べる口調にその場にいた全員が呆けた様に固まる。どうしようも無い沈黙の中で声を掛けられたマモルの母親だけは保護者達を睨むと我が子を抱いて頷いた。


「……はい、分かりました。竜崎先生の仰る通りにさせて頂きます」

「証拠もこれだけ揃っている。賠償金も請求出来る。全てが終われば完全に少年の安全が保証される。これなら最初からこうするべきだった。申し訳ない、不手際を謝罪する」

「そんな、先生がいらっしゃらなければうちの子は……本当に有難うございます!」


 あれよあれよと言う間に次々に話が進んでいく。それも既に『話は終わった』と言わんがばかりに。周囲の保護者達や校長達が呆気に取られている中で拳骨親父がハッと我に返るとすぐ隣で呆然としていた安藤の父親の顔面を力一杯殴りつけた。


「ちょ、待ってくれ! くださいッ! 勝手にこいつを俺達の代表にしないでくれ!」

「そ、そうよ! うちの子が全部悪いんです! 本当にすいません、ごめんなさい!」


 それを切っ掛けに他の親達も必死で謝罪を始める。中には泣きながら頭を下げる者までいる。それで一ノ瀬親子と共に立ち去ろうとしていた竜崎は再び足を止めた。


「――ならば要求を受け入れる気がある、と言う事か?」


 しかし竜崎教諭がそう尋ねると殴り倒された安藤の父が顔をさすりながら立ち上がる。

「……ま、待てよ……糞……」


 恐らく力一杯殴られたのだろう。頬が真っ赤に染まって鼻から血が流れている。だがそんな様子を竜崎の冷酷な目が見つめる。それを見て親達は恐ろしい物を見る目に変わった。

 それは『竜崎阿久斗と言う男は絶対に教師ではない』と確信したからだ。


 普通の教師、いや人間ならば話し合って全員が納得する妥協点を模索する。しかし竜崎と言う男には妥協が一切無かった。教師と言う社会的立場にも囚われないし保護者相手であろうが容赦しない。たった一人の少年を守る為にそれ以外の採算全てを度外視している。


 ドラマと違って現実はエンドロール――事件が終わった後も人生が続くから例え問題が解決しても『めでたしめでたし』で終わらない。その先も考えるのが普通の人間だ。

 だが竜崎阿久斗は『覚悟を決めて』いる。ここで全てが終わろうと関係無い。そんな相手をするには同じく覚悟を決めなければ絶対に抗えない。それはある意味恐怖に近かった。


 そんな中でも安藤の父親は無謀にも言い返そうとする。

「……そ、そんな……異物混入とか大げさに言ってるけどよ! それで誰か死んだ訳じゃねえだろ!? ちょっとびっくりしただけだろ!? な、そうだろ、坊主!?」

「……え……僕?」

 そこで安藤の父親に突然話を振られたマモルはどう答えて良いか分からなかった。


 目の前で起きている事自体が少年に理解出来ない――いや、理解は出来る。竜崎の理屈はシンプルで至極当然だ。しかし余りにも当たり前過ぎてそれ以外の理屈が思いつかない。

 はっきり分かるのは『竜崎阿久斗は本気で自分を助けようとしている』と言う事だけ。その為に幾ら罵られようと一向に介さない。何故そこまでやってくれるのか分からない。


 そして周囲の保護者達と校長、教頭の視線がマモルに集中する。誰もが一人の中学生に救いを求める様な眼差しを送っている。少年の返答次第で全ての運命が決まると言う様に。だがそれで言い淀むマモルの前に大きな手が差し伸べられて大人達の視線を遮った。


「――ならばそうだな。貴様も試してみるが良かろう?」

「……はあ? え……な、何を……?」


 竜崎は無言で荷物の中からドリンクボトルと紙コップを取り出すと琥珀色の液体を注ぎ始めた。それは言う間でも無く一ノ瀬少年の持ち物だ。それで加害者の少年達はぎょっとした顔に変わるが竜崎は更に手袋を付けるとポケットから茶色の小さな薬品瓶を取り出した。

 その中身を耳かきの様なスプーンで紙コップに入れると中身を混ぜて安藤の父に告げる。


「――一つ言うが俺は自分の信じる事の為ならば例え他人が死のうが構わん。そして俺は理化学の専門家だ。毒物にも当然詳しい。口に含むだけで命に関わる毒も知っている」

「…………」

「そしてお前は今、俺の敵だ――さあこれを飲め。そうすれば全て理解出来るだろう」


 それだけ言うと竜崎は安藤の父親の前に紙コップを差し出した。白い手袋が離れて父親はその中身を恐る恐る見つめる。琥珀色をした液体が僅かだが入っている。


「の、飲んじゃ駄目だよ父さん! 竜崎先生は本気だよ! だって俺の指紋だって調べた位なんだ! 全部俺が悪かったんだ、だからもう謝って許して貰おうよ!」


 父親の隣で安藤少年が顔を青褪めさせている。しかし父親は唾を飲み込むと神妙な顔で竜崎に尋ねた。


「……なんだよ、これ……」

「これは一ノ瀬少年の麦茶だ。既に異物を混入された後だが更に異物を混入した。当然それが何かまでは教えん。貴様の言う通り死にはしないだろうが保証まではしない」

「…………」


 その言葉に父親は僅かに躊躇するが周囲の親達もじっとその様子を見つめている。既に断る事も許されない異様な空気の中で覚悟を決めた様に安藤の父親は紙コップを手にする。

 その瞬間それまでくすりとも笑わなかった竜崎阿久斗がニヤリと残虐な笑みを浮かべた。

 それはまるで殺意の様に鋭い笑みだ。今までほぼ無表情だった男が突然見せた笑顔は周囲の親達をも凍りつかせる。だが男は楽しそうに笑いながら父親に冷淡に告げた。


「――さあ、早く飲め。お前の正しさを証明しろ。まさか今更怖気づいたか?」

「の、飲んでやらあ!」


 安い挑発に安藤の父親は顔を引きつらせながら紙コップを一気に呷った。だがその瞬間口元を押さえてその場に吐き出してしまう。何度もえずきながらゲホゲホとむせている。

 親達もその様子にそれぞれ自分の子供達を抱きかかえて距離を開ける。そんな中で唯一安藤少年だけが必死の顔で床に手を付いた父親に近寄った。


「と、父さん!? だから言ったんだよ! なんで飲むんだよ!」

「な、なんだこれ……まさか、本当に毒を……吐きそうだ……救急車を呼んでくれ……」


 だがそんな親子を見下ろしながら竜崎は笑みを収める。再びつまらない物を見る様に蹲る安藤の父親をじっと見つめた。その目には侮蔑が浮かんでいる。


「――それがお前の子がやった事だ。訴えたければ訴えても構わんぞ?」

「……と、当然だ……こんな事、許される筈が……」

「だがその場合子供達の犯罪も確定する。俺と同様に貴様らの子供達も晴れて犯罪者の仲間入りだ。子供がやった事を大人の俺がやったに過ぎん。どちらも犯罪だ、好きに選べ」

「……な……」

「子供達が一ノ瀬少年の所有物に漬物を混入し、俺は食用酢酸の粉末を混入した。いずれも毒ではないし驚いただけなのだろう? 貴様が言った事はつまりそう言う事だ」

「…………」

「他人の所有物に無断で手を付けた分そちらの方が罪が重い。盗難と器物破損、異物混入が成立する。悪意が無いと成立しないと言うなら俺も次は悪意なく本物の毒を入れよう」


 安藤の父親はもう何も答える気力が無い様子でがっくりと項垂れる。

 竜崎はドリンクボトルを手に取るとマモルに向かってそっと差し出した。


「――一ノ瀬少年。長らく借りていたが返させて貰う。感謝する」

「え……あ、はい……」


 男から受け取りながら少年は呆然とするしか出来なかった。

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