1−3 竜崎との邂逅

 三、四時限目の体育が終わって着替えた後、学校中が給食の準備を始める。小中学校では弁当持参の学校も多いがこの中学校では今もまだ給食制度が採用されている。


 生徒達が慌ただしく食事の準備を進める中、マモル少年は体操服姿のままでトボトボと廊下を歩いていた。その手には母親が準備してくれた麦茶入りのボトルが握られている。

 やがて廊下の洗面所に差し掛かった処で少年は唇を噛みながらボトルの蓋に手を掛けた。そのまま中身をぶちまけようとした時、突然大人の手が伸びてきてしっかりと掴む。


「……え……?」

 それで思わずマモルが顔を上げると赴任したばかりの担任――竜崎阿久斗が立っていた。


「どうした、少年? 確か俺のクラスの……一ノ瀬マモル、だな?」

「え……せ、先生?」

「これは親がお前の為に準備した物では無いのか? それを捨てるのは感心しない」


 静かにそう告げると男は少年の手からボトルを取り上げた。そして中を見て眉を潜める。ボトルの中には半円形のフニャフニャした何かが浮いている。それは沢庵の切れ端だ。

 男が無言で見つめるがマモルは俯いたまま何も言おうとはしない。それで竜崎は少年が手に持ったままのボトルの蓋を取るとそのまま蓋を締めて再びじっと見つめた。

 何とも言えない沈黙。遠くから教室で生徒達のざわめく声だけが聞こえてくる。やがてその静けさに耐えきれずマモルは視線を泳がせると小さな声でポツリと漏らした。


「……僕、ここに居ない方がいいのかな、先生……」


 だが少年が漏らした息の様な言葉に男は鮮明に聞こえたかの様にピクリと反応する。

「――人は居て良いかどうかでは無い。そこに有りたいかどうかで決める事だ」

「……え?」

「お前がこの世界に有り続けたいと望むかどうかだ。少年はここに居たく無いのか?」


 まさかそんな言われ方をすると思っていなかったマモルは驚いて顔を上げる。そんな少年の目を竜崎阿久斗は真っ直ぐ見つめながら再びはっきりと口にした。


「この世界――この場所に居たくは無いのか? ならば無理をする必要はない」

「で、でも! 必要無いって言われたら……」

「それは違う。世界に必要無い者なぞいない。現に、俺達・・、は――」


 だがそう言い掛けて男は呆然とした顔に変わった。ショックを受けている様にも見える。

 そこで突然『キン!』と言う甲高い音が走りマモルは思わず首を竦めた。慌てて音が聞こえた方を見ると洗面所の上に取り付けられた大きな窓の端に亀裂が入っている。普通なら簡単に割れる筈の無い相当分厚いガラスだ。それで少年は驚いた顔のまま小さく呟いた。


「……え、嘘……何もしてないのに、ヒビが入るなんて……」


 もっと良く見ようと少年がガラスに顔を近付けるとすぐ傍からドサ、と言う何かが落ちる音が聞こえた。それで振り返ると男が廊下に膝を付いて片手で顔を覆っている。苦しそうな息遣いと態度にマモルは驚いて新しい担任の男に駆け寄った。


「せ、先生!? 大丈夫ですか!?」

「――大丈夫だ。何かを思い出し掛けた……のだと思う……」

「え……せ、先生、もしかして記憶喪失って、本当に――」


 その時マモルは信じられない物を見た。男が顔を押さえる左手の指の隙間から見えた瞳がまるで猫や爬虫類の様に縦に細く変わっている。手の影の中で黄金の光を携えている。どう見ても人ではない異形の何か。それで少年は身動き出来ずに凍りついていた。

 だが竜崎阿久斗は両目を閉じる。再び感情を失った様に平然とした顔に変わる。そしてそのまま立ち上がると開かれた目は普通の人間のそれに戻っていた。


「――すまん。だがお前はとても人間らしい。俺の様な者を気遣ってくれる。そんな人間が不要な筈がない。もっと自分に自信を持て、少年。お前は世界に必要とされている」


 それでも見てしまった『何か』にマモルは見上げる以外に反応出来ない。そうして口を開いたまま惚けた顔の少年に男は真面目な顔になって尋ねた。


「――少年よ。もう少しだけ理不尽に耐える覚悟はあるか?」

「……え、覚悟……って?」


 静かに聞こえてきた男の言葉でやっと少年は我に返った。途端に頭が必死に考え始める。

 さっき見えたのは一体何なのか、この男は一体何者なのか――と。

 上下共にどす黒い服装の男。しかし風景が色を失う中で竜崎阿久斗だけは鮮やかな色を持っている様に見える。何より少年は大人からそんな事を言われた事が今まで一度も無い。


「――少年。まずはしっかりと飯を食え。腹が減っていては戦えないぞ?」


 そう言って男は背を向けると廊下を歩き始めた。その手にマモルのドリンクボトルを持ったまま。それで少年は慌てて悠然と歩く男の背中に向かって声を上げた。


「ま、まさか……辞めてよ先生! そんなの持って、一体何する気!?」


 もしかしたらイジメがある事を教室でぶちまけるつもりなのかも知れない。そんな事をされれば一層過酷な事になると分かっている。マモルにとって自分を守ろうとしてくれるのは母親だけでそれ以外の大人は信用出来ない。その思いに思わず大声を出していた。

 だが男は無言で立ち止まるとゆっくりと振り返る。


「――理不尽に抗うには傷付く覚悟がいる。そして覚悟しなければ死ぬのはお前だ」

「……し……死、ぬ……?」


 死ぬ――命を落とす。それはマモルが何度か考えた事だ。母親に知られたくない。周囲に不当な扱いを受けていると思われたくない。だが自力で解決すら出来ない。情けなさに死ぬ事を考えるもののそれも怖くて出来ない。どうせ勝てないと考えてマモルはこれまで本気の覚悟なんてした事も無かった。その心を男の言葉は鋭い刃となって貫く。

 しかし立ち尽くしたまま動かない少年を見て竜崎阿久斗はフッと笑みを浮かべた。


「――そうか、この国は平和だったな。だがその平和が人を歪ませる。穏やかに、ただ静かに生きたくても人は仕掛けて来る……お前もそれが嫌なのだろう、一ノ瀬マモル?」


 そう告げると男は誰もいない廊下を一人、無人の荒野を歩むが如く立ち去って行った。

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