序章 現状を報告致します。

第1話 イケメンと鍋を囲う(付き合ってない)


 ほぼ命令に近い言葉を受け取ってから、きっかり11時間後。



 私は、立ち込める湯けむりに包まれていた。




 私の狭いアパートの、リビングルームで。




 そう、私たち二人は、今まさにぐつぐつと煮えたぎる鍋の蓋を開けたところであった。



「おお〜〜……。」


 と、左斜め隣に座る男性が感嘆の声を出す。少し曇った眼鏡の向こう側に見える光景に、私も思わず生唾を飲み込んだ。


 ローテーブルの真ん中に置いたカセットガスコンロの上には、如何にもな土鍋が鎮座している。品名は、豆乳鍋。


 白く濁った出汁と、それに浸ってくつくつ揺れる鶏肉と春菊などは、いかにも温まりそうであり、滋養がつきそうである。様々な素材の匂いが入り混じったむわりと甘ったるい塩気のある香りは、この季節、嫌でも食欲を刺激する。


「もう良いよね?」

「……そうですね。」

「よしっ。食べよう。」


 出来具合を私に確認してから、男性はさっとおたまを握って、お椀に鍋の具材を手早くよそり始めた。私が持っている食器は数少ないから、鍋専用のものは無い。味噌汁用のお椀である。


 適量をよそり終わると、男性はそのお椀を、私の前に空いている、テーブル上の僅かなスペースにねじ込むように置いた。


「……。」

「はー、うんまっそー。さーっ、たべよたべよっ。」


 もう一つのお椀にもよそり終わると、男性はそれを自分の前のスペースに一旦置き、箸を取ってから、ぱちりと両手を合わせる。


「いただきますっ。」


 力強く念じるようにそう言ってから、男性はお椀を手に取り直し、ようやく鍋の具材を箸で摘み、口に運び始めた。熱々のそれを、はふはふと息を吐きならが味わう。


「ん〜〜〜っ!!」


 今度は裏返った感嘆の声を上げながら、男性は箸を動かし続けた。



 ふと、まだ手を付けていない私に気付いて、男性は口にまだものを含んだまま聞いてきた。


「食べらいろ?」

「……いえ……。」

「もひかひて嫌ひなもん入ってら?」

「いいえ……いただきます。」


 そろそろと箸を持つ私を、男性はもぐもぐと口を動かしながらもじっと見ていた。



 片手に持ったお椀の中から、鶏肉の脂が浮いた白い出汁とえのきが絡んだ白菜を摘み上げる。ふうふうと息を吹きかけてから、ゆっくりと口に運んだ。


 他人の視線を感じながら食べるのは、どうにも居心地が悪かった。が、こっくりとした旨味と共に舌に染み込む熱で、それどころではなくなってしまう。


 ほふほふと息を吐き出しながら咀嚼して熱さをやり過ごすが、空腹に耐えていた身体はほとんど反射的に、それがまだ冷めないうちに、白菜を喉の奥に送ってしまった。痛みにも近いその熱に、私は思わず目をぎゅうとつむった。


 喉元を通り過ぎて、熱さが堪え切れないもので無くなると、感覚に登るのは口の中に残った濃い出汁の旨味だ。舌や口蓋から身体の中にじわじわと染み入ってくるようなそれに、口の中は唾液で溢れ、次の一口を迎えようとしていた。


「美味しい?」


 声をかけられて、見られていたことを思い出す。


 目を合わせずに、私はこくこく頷いた。



「でっしょ〜?だから言ったじゃん!」


 誇らしげに言いながら、男性は早くも次の一杯をお椀によそっている。


「たまには栄養のあるもん食べないと、持たないよ?どーせ普段まともなもん食べてないんでしょ?」

「な、何故それを……。」

「冷蔵庫空っぽ、使われてない炊飯器、ゴミ箱にはお菓子とコンビニ弁当の残骸のみ。」

「ぐ……。」

「朝飯どうしてんの?ジャンクフード?コンビニの袋持ってきてるのも見たことないし、もしかして食べてない?」

「はぁ……。」


 私が曖昧に頷くと、男性は咀嚼を辞め、眉根を顰めて視線をよこした。


「……可哀想な人を見る目、やめてもらっていいですか。」

「だってさぁ……っていうかよくそれで生きてるね。昼飯が社食だからギリ間に合ってる感じ?そーゆーの、体調崩してからじゃ遅いからね?若いうちは何とかなるけど、年取ったら怖いっていうし。」


 食べるのを止めないままくどくどと説く彼に、オカンか姑かあんたは、と、脳内でツッコミながら、私はため息をついた。



 このひとは、何でこんなにお節介なんだろう。


 会社じゃあんなにクールなのに。



 ********



 数時間前、やや無理やり定時で仕事を上がった後、私はゆっくりと電車を乗り継いで、アパートの最寄駅の前で待った。


 30分と待たずに、コートを羽織った彼がやって来る。


「待った?」

「いいえ、それ程は。」

「寒かったでしょ?ごめんね。行こうか。」


 にこやかに言いながら先に立つ彼に、私は黙ってついて行く。時間をずらして退社したのは、当然職場の人達に勘付かれないためだ。


「寒いから、今日は鍋ね。」


 前を向いたままうきうきと言う彼に、私は特に何に応えなかった。メニューを決めるのは、どうせいつも彼なのだ。前回も、前々回もそうだった。



 私たちは、ついひと月ほど前から、週に一度か二度、こうして外食を共にしている。


 だけど一緒に食事を摂ることが目的なわけではなかった。



 –––ん?


 鍋なんて、この辺で食べられるところあったかな?



 そう思い至った丁度その時、私は、とっくに駅前の通りへの曲がり道を過ぎてしまっていたことに気がついた。この辺りでは、一番飲食店が多いはずの場所。彼は一体、何処に向かっている?


 慌てて数歩前を行く彼に駆け寄って、声をかけた。


「あのっ……。」

「ん?」


 立ち止まった背の高い彼に、肩越しに見下ろされる。思いがけず縮まった距離に、あ、しまった、と思った。



 顔が、近い。




 このひとは、顔が良い。


 長過ぎる前髪の間から見える、切れ長の、少し垂れた、冷たそうな印象の目。整った、女性的過ぎない骨張った輪郭と鼻梁。


 顔だけじゃなくて、スタイルも良い。手足が長くて、頭が小さい。初対面の時、昭和の怪盗アニメのガンマンのシルエットそのままだと思った。




 なんで、こんな、人が–––




 いつも、直視出来ないでいた。何度も二人で会っていても、未だに慣れない。


 私なんて、化粧もまともに出来ない、地味なヤツなのに。



 不意に、あの華やかな女性の姿が脳裏に浮かんだ。



 彼女なら、きっと彼と釣り合うのに。



 一瞬後に、彼と会う直前につけたリップグロスを思い出す。



 顔を背けたくなる私を辛うじて留めているのは、その頼りない鎧だけだった。



 大嫌いな化粧に、今私は縋っている。




「?何?」

「あ、あの、な、鍋って、何処で……。」

「?あそこ。」


 当たり前のように彼が指を指した先には、飲食店は見当たらなかった。


「え……え?」

「?毎回外食じゃ出費きついじゃん。たまには自炊しようよ。」

「えぇ?」


 彼の指の先、見直して見つけたのは、大手のスーパーマーケットの看板。


「う、うちでですか?」

「そう。」


 それだけ言って、彼はさっさと歩いて行ってしまった。



 呆然とした私は、ある事に気付いて彼を追いかけた。


「わ、私、手鍋しか持ってないですよ!」

「あー……じゃあ探すかぁ。」



 そして、約30分後、彼は鍋の具材だけでなく、キッチンコーナーにあった土鍋とカセットコンロまで手に入れて、私のアパートへやって来たのだった。



 ********



「はー、美味かったぁー。」


 私よりも遥かに多い量の具材と白米を平らげて、彼は満足そうに横たわった。長身の彼には、私のアパートは狭そうだ。腿から下をローテーブルの下に通して辛うじて、両手両足を伸ばせている。


 雑炊にした鍋の最後の一杯を啜りながら、私はその様子を横目で見下ろしていた。


「やっぱり冬は鍋だよなぁー。キムチも良いけど、豆乳もいいわぁー。身体に染みるー。健康になりそー。」



 私は、改めて混乱していた。


 この人の距離感が分からない。


 何度か二人で会ったとは言え、よく知らない相手を前に、人はこんなに無防備に振る舞うものか?しかも他人の家で。私だったらあり得ない。当たり前のようにうちで食べるのを決めたのもそうだけど、この人強引過ぎないか?っていうか、会社にいる時とキャラ違くない?クールで無口で通っているんじゃないの?誰が相手でも、会社を出ればこうなるのか?それともこれが普通?これが陽キャのテンポ?はたまたただこの人が自分勝手なだけ?


 なにより、私のアパートの、私の部屋で、成人した異性が、それもイケメンの部類に入る男性が、くつろいでいる。余りにもあり得な過ぎて、まだ良く信じられない。



 男性は、少ししてからごろりと転がって横を向くと、頬杖をついてこちらを見上げ、言った。


「美味しかったでしょ?」

「……はい。」


 私が応えると、にかりと、歯を見せて笑った。


 小学生くらいの子供がやりそうな、その幼い仕草に、ぐらり、と視界が揺れた気さえした。




「さて、それじゃぁ……」


 言いながら、男性はのそりと身を起こした。下に入れていた足で、テーブルを蹴らないように、慎重に。



「始めようか。」



 私より高くなった場所から見下ろす彼の視線が、楽しそうに微かにすぅ、と、細められたのが見えた。

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