第2話 イケメンに迫られている(脅迫)
私のアパートは狭い。
鍋を食べていたテーブルのすぐ横には、ベッドがある。
その端に背を預けて、私は腰を下ろしていた。
いや、預けているのは首だ。そして、腰を下ろしていると言うより、床にへばり付いている。
そしてそのすぐ横に、ベットの側面についた彼の手がある。
私のすぐ鼻の先には、彼のご尊顔。
これがいわゆる壁ドンか。いやベッドドン。語呂が悪い。もはや恐竜の名前。
「嫌だって言ってるでしょう!?」
「しーきーしーまーさん。」
「いーやーでーすっ!!絶対にイヤ!」
「……イヤとか言われると尚更やって欲しくなるんだけど。」
「ヒェッ!?」
「うふふふふふふ。」
キャラ崩壊してますよ!?無口クールイケメンさん!?
サドだ。いやもう気付いてたけど随分前から。このひとはS。生粋のS。
っていうか至近距離で、それも耳元で囁くのやめて欲しい。無駄に良いんですよ、貴方の声。っていうか貴方、今正に、地味なメガネ女に迫ってる図になってるの分かってます?色気の無駄遣いじゃないですか?
手に持っていた紙の束で顔を覆って、私は亀のように丸まって転がった。もうなりふりなど構っていられない。力で敵わないのは分かりきっているので、なんとか断固拒否の意を届けようと、私は必至である。
「絶対やりませんからね!」
「……。」
暫しの沈黙の後、触れるか触れないかの距離を挟んで、温もりに包まれたように感じた。
「……ひかる……。」
「っ……。」
さっきよりも近い、耳のすぐ近くで、声を吹き込まれる。鼓膜を刺激する低音と、外耳をくすぐるぬるい吐息に、ぞくりと背筋が震えた。両手を床についた彼に、囲い込まれている。手に力が入って、紙の束がぐしゃりと悲鳴をあげた。
っていうか、なまえは卑怯–––
ス、と、息を吸う摩擦音が脳に響いて、私はとうとう降参した。次に何か言われたら、私の身が持たない。おかしくなってしまう。
「あーーーもーーーっ!!わかったわかったわかりました!!わかりました!!読みます!!よみゃーいいんでしょ!?」
「わーい。」
わめく私にあっさり言って、覆いかぶさっていた彼はぱっと離れた。のそのそと動いてテーブルの向こう側まで行き、座り直す。
私はと言えば、ピンチを脱した事で力が抜けてしまい、暫く動けなかった。いや、全然脱せていないんだけど。
「ほーらぁ。はーやーく。ほらほらふざけてないで。さっさと読んで。ほーらっ。」
あぐらをかいて頬杖をつき、テーブルをパタパタと叩きながら催促する彼に、カチンと頭の片隅が盛大な音を立てる。
この野郎っ……喪女の純真を弄びおって……。
今まで感じたことのないような怒りが身体の中に駆け巡るのを、私は必至で制御していた。そうか、これが殺意というものか。
ギリギリと紙の束を握り締めながらも、なんとか起き上がり、乱れた髪とメガネを正して、テーブルに向かって正座する。
ぐしゃぐしゃになった紙の束を伸ばして開き、深呼吸をひとつ。
吸って、吐いて、また吸って……
その動作の隅々を、彼の細めた目がじっと見つめている。
私の目は、手元の紙の表面を覆うマス目の中の、右端の字列を目で追った。
「ぼっ……。」
噛んだ。
震える唇を舐めて濡らして、また深呼吸。少し見下ろすような彼の視線は、まだ私から剥がれない。
また息を吸う。
嫌だけどやらないと、このひとは諦めてくれない。さっきみたいな嫌がらせももうごめんだ。こうなったらさっさと終わらせて解放してもらう。
今度こそ。
軽い咳払いをして、また息を吸う。
「『ぼ、くはこうえんにむかってはしっていてぇええええっ……。」
だめだ。撃沈した。声に出したら100倍増した恥ずかしさに耐えきれなかった。途中から声はひっくり返ってしまった。思わず顔を伏せてテーブルに突っ伏す。紙を握った手がぷるぷる震えている。
「ちょっと、なにその気の抜けた声。真面目にやってくんない?」
鼻で笑いながら言われた。サドめ。ドSめ。エセクールサラリーマンめ。常識人の皮を被った鬼畜野郎め。地獄の使いめ。お前なんかいつか閻魔様にクビにされてしまえ。
顔を上げ、見下すようにこちらを見ている彼をもはや涙の滲んだ目で睨み返し、私はまた息を吸った。
こうなりゃもうヤケだった。
今日一番の大声で、紙の上の文字を読み上げる。
『僕は公園に向かって走っていた。買ってもらったばかりの、スーパーヒーローのスニーカーをアスファルトに叩きつけて、全力で走っていた。息が切れても、走るのをやめなかった。そのくらい、腹が立っていた。何に怒っていたのかは覚えていない。ただ頭の中は、とあるひとのことでいっぱいだった。僕を怒らせたその人は、いつもの公園にいるはずだった。その人のもとへ、全力で走っていた。』
読み終わって、私は今度はやや勢い良く突っ伏した。やり切った。やってやった。もう今日のMP全部使い切った。そしてなんかいろいろ失った気がする。あ、目から汗が。
「おお〜。」
私の向かいから、さっきの鍋の蓋を開けた時よりは控えめな声と、ぱちぱちと指先だけの拍手の音が聞こえてくる。
殴りたい。この人の整った顔面を思い切り殴ってやりたい。グーで。もういっそのこと、理性を手放して暴れてやりたい。
ほんとにあり得ない。
どんな拷問よ、これは。
自分が書いたBL小説(序文)を音読させられるなんて。
「凄いね〜。ちゃんと文章になってる。小説っぽいよ。ぽい。」
「……バカにしてます?」
力尽きて突っ伏したまま、殺気を押し殺さずに言った私に、しかし彼はあっけらかんと言った。
「いや全然。凄いよ、ほんとに。俺だったら絶対に無理だからさ。凄いね、やっぱり。」
部屋の隅にある本棚に視線をやりながら、しみじみと彼は言った。
ギスギスしていた心は、立て続けの賞賛の言葉で、あっけなくそのトゲを引っ込めてしまったようだった。
彼の言葉に他意は無く、純粋なものだと分かるものだったから。
こんなの、思いつきで書いたような適当な文章なのに。
「まぁ、読み方は小学生みたいだったけど。」
……やっぱり殴ろう。
「あ、もうこんな時間。」
拳を握り締めながらゆらりと身体を起こした私を無視して、スマホの画面を見た彼が呟く。どうやらアラームをバイブレーションでセットしていたらしい。
と、言うことは、今日の『会議』は終了だ。
内心、安堵で大きな肩の荷が下りたような感覚を覚えた。
「あーあ、敷島さんがゴネるから全然進まなかったじゃん。」
天を仰いで心底残念そうに言う彼に、私の中の狂気が再び身体を乗っ取ろうとする。
私?私のせい?私の責任ですって?
だーーーーれかさんが『書けた分を確認したいけど、手書きの文字は読みにくい。っていうかそもそも日本語読むの面倒。このところプログラミング言語ばっか読んでるから切り替えらんない。音読して。』って駄々を捏ねたからじゃないですかねぇえええ日本人だろあんた日本語くらい手書きだろうが読めやぁあああっ。
っていうかそれ以前に、鍋の具材を買って二人で準備して食べた時点で随分時間をロスしてましたよねぇえええ?片付けも分担してしっかりやりましたしぃいいいい?
あんたほんとに、何しにうちに来やがった。
「ま、しょうがないか。また明日も仕事あるしね。今日のところは、これでお開きにしよう。」
言いながら、彼はさっさと身支度をして立ち上がってしまう。
「じゃ、敷島さんもあんまり無理しないで早く休みなよー。また明日ねー。あ、戸締りは忘れずにー。」
と、言うが早いが、彼は玄関の扉を開けて、さっさと出て行ってしまった。
がちゃん、と、意外に丁寧に閉められた扉が音を立てる。
こつこつと、微かに聞こえる靴音が遠ざかるのを聞きながら、私は、全身の力を抜いて床に転がった。そして、大きな大きなため息をつく。
彼にはずっと、特にここひと月前から、振り回されっぱなしだった。
正直、いろいろしんどい。
だけど私には、彼の要求を断れない理由があった。
次の約束はしなかった。
だけど彼はまたきっと、こうやって『会議』を要求してくる。
「勘弁してよ……。」
情けない声を上げながら、私はぎゅうと目をつぶった。
まだ纏わり付いているような気のする、彼の気配と、耳元の熱を振り払うように。
彼に近づかれてから、ずっと微かに震えている両手に力を込めて、握り直す。
それから、今更後悔しても遅い、ひと月前の『失敗』を思い出して、また小さくため息をついた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます