陽だまりのこひつじたち

瀬道 一加

第1部 敷島 光

プロローグ

 化粧が嫌いだ。



 する時がめんどくさいのはもちろんのこと、したらしたで落とさなきゃいけないから二重でめんどくさい。ちゃんとクレンジングで落とさないと落ちないところもめんどう。


 してしまえば顔は変わってしまうのに、印象を実物とかけ離れたものにしてしまうことも出来るのに、なんでこんなものに頼ろうとするのか、もしくは強要させようとするのか、私には全くわからない。


 化粧して可愛くなったって、綺麗になったって、それは造られた自分じゃないか。それで好きになって貰ったって、それは本当の自分を好きになってくれたことにならなくないか?



 化粧は嘘だ。


 それがなんでまかり通っているのか、社会人になって数年たっても、私にはわからなかった。



 それでもしてないと職場では浮くし、余りにも無防備な感じがするのは否めないからするしかない。化粧は嘘で、だからこそ鎧みたいなものなんだろう。


 男性が羨ましい。


 最近は男性向けの化粧品のコマーシャルも見なくは無いけど、しなくたって公の場で奇異な目で見られたりはしない。まったくもって不公平だと思う。なんで女性だけ、こんなものを必要としなくてはいけないのか。


 いっそのこと、男に生まれたかった。



 化粧は嫌いだ。


 それなのに、潔くすっぴんを貫く度胸を待てずに毎朝鏡に向かう自分にも、少しだけうんざりする。


 今朝もまた、スマホのアラームに起こされて顔を洗ったあと、食卓がわりのローテーブルに小さな鏡を置いて、ぱんぱんに膨らんだペンケース大のポーチを開ける。



 ジッパーを引くと、見慣れない鮮やかな色が目に飛び込んで来た。その瞬間、ぐ、と、僅かに胸が詰まるような感覚を覚える。


 まだファンデーションの粉まみれになっていない、艶々のヌードピンク色のスティック。昨日の帰宅途中にコンビニで買った、新しいリップグロスだった。


 忘れていた。見て思い出した。昨日わざわざ封を開けて、ここにしまったのだった。



 色には不思議な力があるって言うのは、多分本当だ。青は集中力をあげるとか、緑はリラックスできるとか、そういう力。刑務所の壁をピンク色にしたら暴力が減ったって、どこかで読んだ。


 心躍らせる色だという、ピンク色。私の手の中にあるのは、あまり派手ではない、殆ど肌色に近いようなピンク色だった。


 それでもそれを手に取って、確かに僅かに浮き立っている自分の内面を実感して、私はひとつ、ため息をついた。



 口紅を選ぶのは難しい。化粧が好きじゃない私は、自分に似合う色なんていうのもさっぱりわからないから、これだって果たしてつけておかしくない色なのかどうか分からなかった。


 失敗したとしても、まぁ仕方がないかと思える値段だったから買ったものだった。


 そんな手頃な価格でも、以前の私なら見向きもしなかった。


 そう、以前の私なら。



 私は最低限のメイクを自分の顔に施し終わると、職場用の眼鏡をかけて、化粧品をポーチへとしまい直した。少し迷ってから、使わなかったそのリップグロスだけは、ポーチに戻さずに、地味な黒の通勤バッグのポケットに押し込んだ。朝食は取らずに、これまた無難な黒のコートを着込んでアパートを出る。




 自販機で買ったお茶を飲みながら、満員電車を乗り継いでたどり着いた大きなビルには、いつも通り、ひっきりなしに人が吸い込まれていた。その一人に加わって建物に入り、上層階に向かうエレベーター待ちの列に並ぶ。


 隣の列にいた、同じ部門で働く女性と目が合って、軽く会釈を交わす。特に言葉は交わさなかった。日常的に会話する相手ではなかったから。



 スマートフォンのソフトウェアのテスト部門。エンジニア志望の、残念ながら見目にあまり気を使わない若い男性が大多数のその職場で、特に目立つ華やかな雰囲気の女性。


 ふわりとしたブラウスを着た彼女の髪は落ち着いた濃い茶色で、緩やかなウェーブがかかっている。最近通り過ぎた美容室の看板に書かれていた数字の並びを思い出し、毎月の出費も、毎朝の手入れも大変なんだろうな、なんて考えたりする。


 それから自分のバッグの中にある、ピンク色のグロスを思い出す。


 彼女ならきっと、自分に似合うのがわかっていて、そしてもっと高いものを買うに違いない。




 ちん、と音がしてから、私の前の何人かが並んだ先にある、壁に張り付いたアルミ板が横にスライドする。現れた空間に、私たちは待ちきれないようにぞろぞろと連なって乗り込んで行った。同じフロアで見る人も、何人かいるようだった。


 一番奥の隅に乗ることができて、本能的な安心感を得る。何度も上昇を止める個室から、次々と出て行く人達を見送っていく。



 私たちのフロアは、そのエレベーターが行くことのできる最上階だった。


 最後に残ったのは私を含めて三人。先に出た男性に続いて、『開』のボタンを押してくれている別の男性に会釈をしてから外に出る。


 オフィスに入るためには、IDカードを扉横のスキャナに読み込ませなければならない。首に通すストラップのついたそれを取り出そうと、バッグの中に手を入れた。



 その時だった。




 随分と無遠慮に、ぐわしと右肩を掴まれた。




 女性では有り得ない力、硬く大きな手。


 固まった私の耳元に、低い声が吹き込まれる。



、今夜、同じ時間に。」



 喜色の滲んだ、有無を言わさない調子。



 言い終わって、手を離し、私を追い越していったのは、扉のボタンを押してくれていた男性だった。


 同じフロアの同じ部署で働く、いわゆる上司の一人。背が高くて、ひとつ、年下の。




 彼であることには気付いていた。声をかけられる期待と、かけられたくないと願う気持ちが、半々だった。


 スーツにベージュのロングコートを着込んだ高い影が遠ざかっていく後ろで、まだ動けない私の心臓は、どくどくと早鐘を打っていた。


 下を向いたまま、ぎゅ、と、無意識に下唇を噛む。




 私の脳裏には、またあのリップグロスが浮かんでいた。

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