さよなら風たちの日々 最終章ー6 (連載47最終回)

狩野晃翔《かのうこうしょう》

第47話 最終回



              【11】


 静寂が周りを包んでいた。何の音も聞こえてこないのだ。どんよりとした夜空も、時間が止まってしまったかのように黙り込んでいる。そして団地の屋上から見える夜景も、どこか無機質な作り物のように沈黙を続けている。これが夜明け前の静けさ、とでもいうのだろうか。

 ぼくたちは何とかフェンスを乗り越え、その内側の屋上で、へたり込んでいた。ヒロミに憑依していた死への願望はとうに消え失せ、ヒロミは今、ぼくの肩に頭を載せてぼんやりと夜空を見あげている。

 泣きすぎて目を腫らしたヒロミは、それでも無理に笑顔を見せてぼくに話しかける。

「いっぱい泣いてしまいましたよ。でも何だか清々すがすがしい」

 ぼくはヒロミの髪を優しく撫でながら、答えた。

「ヒロミって、いつも泣いてばかりいたよね」

「でも涙って、心を洗い流してくれる洗浄剤だっていうよ。だから泣いたあとは、

さっぱりした気分になるんだ」

 ぼくは思った。ヒロミはいつも泣いていた。初めて体育館で会ったときも泣いていて、上野公園でも泣いていて、ぼくの家でも泣いていて、喫茶店でも、ここでも泣いていたのだ。けれど違うもの。それはここで流した涙は、決して悲しいものではないということだ。

 ぼくたちは黙り込んだ。そう言えばぼくたちはよく、黙り込んでいたような気がする。ふたりに流れる沈黙の時間。でもその沈黙は、いつだって満ち足りた時間だったように思う。今このときでさえも、そんな満ち足りた沈黙の時間なのだ。


 ぼくはその沈黙の中で、頬にあたる風を感じていた。それはそよぐように、囁《ささや》くように頬にあたる、優しい風だった。

 その風を感じながらぼくは、あの日あのときのことを胸によみがえらせる。

 ラッシュアワーの秋葉原駅。そのホームで2時間以上も立ち話をしたあと、一緒に乗った京成電鉄。電車の窓ガラスに映るヒロミを見ると、ガラスに映るヒロミはついぼくと目が合ってしまい、恥ずかしそうにうつむいてしまうのだった。

 亀戸や秋葉原駅での待ち伏せ危険日。ヒロミは人込みのなかでぼくを見つけると駆け寄ってきて、「偶然ですよね。これって、偶然ですよね」と同じ言葉を二度繰り返しながら、ぼくと並んで歩くのだった。一緒に歩くとヒロミはどうしても小走りになるものだから、その姿に親ガモを追う子ガモを連想して笑ってしまったことを、ぼくはつい昨日のことのように思い出してしまう。


 高校の文化祭でヒロミがかき氷の模擬店をしていたことも、忘れられない思い出だ。そのときぼくと信二は、イチゴ、メロン、レモン、ブルーハワイのうち、どれが一番美味しいか食べ比べしてみようということになり、いっぺんにそれを注文して食べまくって、ふたりとも頭痛でうずくまってしまったことがある。

 そのときのヒロミのおろおろした顔。そして「それ、色は違いますけど、味は全部同じなんです」と言って困惑していた顔。

 それを訊いて「それを早く言え」とぼやくぼくたちに、一所懸命口元を押さえて、笑いをかみ殺していた顔は、ほんとうに愛しくて可愛いらしかった。

 

 ヒロミが家に来ていたときに、一緒に食べたお弁当も懐かしい。あのタコのウインナを、ヒロミはどうやって作ったんだろう。ぼくは自分の母親に同じものを作ってもらったことがあったが、形は似ていても、あの味にはなってなくて、がっかりしたことがある。あれはヒロミと一緒に食べたから、美味しかったのだろうか。それともあのウインナの中に、ぼくをとりこにする媚薬びやくでも入っていたのだろうか。

 

 晩秋の上野公園で、「おれ、今、オートバイで頭がいっぱいなんだ」なんて、言わなければ良かった。そのかわり「おれ、今、ヒロミでいっぱいなんだ」って言えばよかった。

 ぼくの家でヒロミが涙をいっぱいためて「好きですって言ってください。それだったらわたし」と言ったとき、「好きだ。大好きだ」って言えばよかったんだ。

 ぼくは団地の屋上で座り込みながら、そんなことばかり考えていた。


              【12】


頬にあたる風が、ときどき向きを変えて吹いてくる。北東からの風がいつの間にか、西南からの風に変わっていたりするのだ。風同士が空で、せめぎあっているのかもしれない。そのせめぎあう風を感じながら、ぼくはヒロミに言った。

「おれたちっていつも、すれ違う風みたいだったな」

 その言葉にヒロミがうなずいた。

「すれ違う風。交差する風。いつもどちらか片方だけが吹いていた風」

「おれたちの風って、いつも一方通行の風だったような気がする」

 ぼくはそんな夜空を見上げながら、そんなことをひとりごちる。

「でも、そんな風の日々は、これからは、もうない」

 ぼくがきっぱり言うと、ヒロミがそれに笑顔で応えた。


 やがて東の空が明るくなってきた。夜が明けるのだ。朝ぼらけだ。

「ヒロミ」

 ぼくはヒロミをうながして立ち上がると、その空に向かって敬礼した。ヒロミもそれにならって、敬礼のポーズを取る。その敬礼は初めてお花茶屋駅で見せた、誇らしげで、自信たっぷりの敬礼だった。

 そのヒロミの髪が、風に揺れている。天使の羽ばたきのように、風に揺れている。

 ぼくは赤紫からオレンジ色に変わりつつある空に向かってつぶやいた。

 もうぼくたちは、すれ違う風じゃないんだ。そんなすれ違っていた風たちの日々は、これでおしまいなんだ。だから、ぼくはささやいた。






 さよなら、風たちの日々。




                                   《了》




 

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