エピソード一一 四〇才から今の生活に入るのだが
まだ三五才からそこらのつづきだ。横浜個人タクシー協同組合(以下組合)では主に夜勤だった。夕方一七時出社で夜中の午前一時に退社が基本だった。それが夜中のシフトに回されたりと、昼夜逆転の生活に入っていった。給料は時給換算するとたしかに良かった。なにせ貯金ゼロから数ヶ月で、一人暮らしができる程度に貯金ができたからだ。ただ問題は酒量が尋常じゃない量に増えていった事である。
この頃は夜中の一時に仕事が終わってから、深夜営業のバーに立ち寄り、記憶がなくなるまで酒を飲んだり(気づいたら自室で寝てた、なんてことはしょっちゅうだった)自室で一人で宴会をしてそのまま寝てしまったのだけど、コンビニワインをラッパ飲みとか、ともかくひどい酒の飲み方をしていた記憶がある。記憶がなくなるのを記憶してるのは、どこか矛盾してる気がするが、記憶の欠落を実感するのであった。
やる気はなかった。仕事のノルマはあってなしで時間がただ過ぎ去って行くのを待つだけだった。夏のある日、毎晩のようにレッドアイ(ビールとトマトジュースを混ぜたカクテル)にウォッカを一ショット追加して飲んでいたら、ある日寝起きに全身の痛みで目が覚めた。筋肉痛のようなソレだが、何故そう痛むのかわからなかった。睡眠薬とアルコールの摂取がそうさせたのかも知れない。いやこの痛みは交通事故の時の全身の痛みによく似ている。がしかし、全身打撲してるはずもなく。意味がわからない。
どのように対応したか?それからは酒を絶ち、仕事を辞めて安静にして処方薬をおとなしく飲んでいたら、いつしか痛みはおさまっていた。どうやらストレスが原因らしい。
いつの間にか組合も退職していた。直属の上司には文句を言われたが「お前が原因の一つだ」と、弱虫なので口にすることは出来なかった。この上司氏は前職で、大手メーカの新人研修を受けたからか、生存バイアスがとても強かった。だからなのか、部下を潰すのが常だったような気がする。
この上司は数あるストレスの一つかもしれないけれど、彼を排除してもどうにもならんだろうと、勝手に結論づけていた。五〇才の今なら、仕事を辞めなくても良かったのではないかと思う部分もあるが、その当時は「もう辞める」と短絡的に結論づけて、組合を逃げ出すように退職していた。
無職で病に向き合う生活のはじまりだった。先の見通しは真っ暗だった。
話は変わって、どうやって今の医者(KクリニックのTドクター)にたどり着いたか、あまり覚えてないが書く。たしか、その前に受診していたクリニックから生活保護受給者は診察できないからと紹介されたのだった。じゃ生活保護受給に至るまでは?これがよく覚えていないのだ。障害年金受給は生活保護の後だったので、生活保護費が減額になったのを覚えている。その前、その前は……。
当初は組合の給与で生活していた。二〇一一年一月に仕事を辞め、三月か四月に生活保護の受給開始。そこから一年くらい経ってから障害基礎年金の受給開始だった気がする。
たしか精神科への通院のはじまりは、継母の実家に居候してた頃(三〇代半ばだと思う)、あまりにしんどいので、区役所の精神保健センターに相談をしたのがきっかけだったはずだ。まだ南区合同庁舎が蒔田にあった頃の話だ。
そうそう、精神の医者に通いながらのバイト・契約社員の生活だったのだ。
治療費を稼ぐのが生きる目的という、しんどい日々だった。生活保護をうけてからは医療費の心配をする事がなくなったので、かなり精神的に楽になったのを覚えている。
思い出した、関内駅南口近くのMクリニックだ。ただし、ここに決まるまで何箇所も病院を探す事になる。自分の持っている意味のわからない苦しさをどうにかしたかったのだけど、今も言語化するのが難しいのだ。
いや、今ならADHD(注意欠如・多動症)の症状で落ち着きがなかったり、生まれつき聞こえに問題があって、耳には問題がないけれど脳に問題があり、結果的に意思疎通に難点があるのだと説明ができる程度に、自分の障害がわかるようになってきた。たまに受け答えが的を得ない事になるのだ。まるで志村けんの神様コントのように。
しかし、当時は生き苦しさが目一杯で、何をどうしていいのやら分からなかった。仕事やバイトをしながら、それらに対処していくにはもう疲れ切っていた。自分の特性が分からず苦しむのと、特性が分かって苦しむのでは疲労や絶望度が違った。無職になってよかった事の一つである。
二〇一一年三月一一日は東日本大震災の当日であり、その日に生活保護課で書類を受付してもらったのだったのでよく覚えている。帰宅したらマンションの壁に亀裂が入り、停電しており、棚から本は落ちていた。生活保護費中の家賃の関係でそこを引き払う事になるのだが、一人で住むには悪くない環境だった、駐車場がないとか通りに面しているから自動車がうるさいとか、細かい不満点はいっぱいあったけど。
五〇才の今の収入は、基礎障害年金と生活保護費(家賃と医療費)という二階建てになっている。早い所、年金プラス働いた金額分にしたいがちょっと無理なようだ。働くには気力と体力がまだ回復していない。
そういえば疑問点があって、二〇代に年金の支払いがない期間があるにもかかわらず、障害年金は受給できているというのは、どういう事なのだろう?
詳しく調べてないが、直近で働いていた組合のおかげかも知れない、ありがたいことだ。
それとは別に、もしかしたらこれから先に無年金になるかも知れないのだけど、だとしたらいつからなのだろう?恐怖である。そして年金や給与の未払期間を思い出し、その原因である継母への思い出し怒りがわいてくるのだ。
南永田から弘明寺の外れに引っ越してきたのは二〇一一年六月だ。もうここに住んで一〇年にもなるのか!時間が経つのは早すぎる。
引っ越してから割と早い時期に右腕のやけど痕の皮膚移植を試みた。もういいだろう、何年も我慢してきたのだ、医療と福祉にすがらせてくれ。右腕は大学病院勤務の名医によってクリアパーツだった皮膚が人工的な皮膚に見える程度に回復した。自分の太ももの皮膚を移植したのだが、毛穴がごっそり無くなっていたため、皮膚をはりかえた場所は脱毛したかのようにつるつるだ。そのため変に見えるがそれまでの皮膚と肉のえぐれからすれば、「ふんす」と胸をはれる程度に回復したのだ。
生活保護がなかったらこの恩恵にもあずかれなかった訳で、今もみじめに自分の右腕を追い求めていたのかと思うと泣けてくる。いや今もこだわりは残っているのだけれども。数十年の積み重ねは重いし苦い。この苦しみを父親に味あわせたいと眠れぬ夜中に彼へ熱湯をぶっかけたら、どんなにスッキリするだろう等と妄想した日々が懐かしい。少しだけ腹立たしさが残っている。
手術はU病院でしてもらった。入院中はおとなしかったし第一、場違いなため萎縮していたような気がする。右腕がほぼ使えなかったしな。入院は二週間あったかなかったかの短い期間だったのを覚えている。
今通っているKクリニックはもう一〇年になるのか。カウンセリングと投薬によって俺の苦痛はかなり緩和されてきた。認知行動療法、メタ認知トレーニング、オープンダイアローグと勉強していった。児童虐待を受けた子どもがADHD(注意欠如・多動症)の様態を示す事もこの辺で知った。こうして自分のことを知るほどに「よく生きてたな」という感想をもつのであった。
それはなぜか。具体的には、小学生の頃から四八才の頃……胆石症で二度の全身麻酔と手術を繰り返した時……まで続いていた希死念慮、死にたい気分に支配された件。自殺願望や「死んでやる!」と飛び降りかけたエピソードがあった。
他にもADHD(注意欠如・多動症)の衝動のコントール不全からは、小学生の頃の家出や万引き。中学生の頃嘘をついた結果、校内の不良から鉄拳制裁をうけた件も、衝動のコントロールができてなかったゆえの事件事故だ、あぶなっかしいったらありゃしない。衝動のコントールだと高校生の時のBBQでの泥酔からレイプ未遂。肉体の死もそうだが、社会的に死ぬかも知れなかった件だ。自分で書いていて怖い、何をやってるんだコイツはとなっている。
三〇代になって、発達障害の傾向が発覚した。大人になってから今まで感じていた謎のこだわりの正体がそれと分かり、その結果起こるであろう
以前は軽度自閉症と呼ばれていたらしい。自閉症スペクトラムの事だ。重症の自閉症ではないので症状の説明が他者にしにくいのだ。
発達障害(様)の二次障害による二型の
Kクリニックのデイケアに参加したものの、参加者の一人にでかい声でしゃべる人がいて、とても苦痛なために断念したのもこの頃だ。
大きい音(ここでは話し声だったが)が耳ではなく発達、つまり脳には苦痛だったという訳だ。そういう傾向を持つ事に気づいたのは大きな収穫だった。
二〇一八年一一月には胆石症で救急車を呼び、救急搬送されそのまま入院手術になった。火曜日のヘルパーさん来訪のあと、飯を食べたが胸と腹の間あたりが妙に痛く、吐き気もあり、痛みは背中まで貫通し、眠れず明け方に救急車を呼んだ。
なのだが、間抜けな事に携帯電話が止まっていたため(固定電話などもとより持っていない)、素足にサンダルで歩いて出て、大通りに面した電話ボックスで一一九番に電話したのであった。めちゃくちゃ腹と背中が痛いのに……。
そしてサンダルのまま、財布一つのみでS病院に入院したのであった。アレは死ぬかと思った痛みだった。
幸いにも手術は成功……しなかったのだ。初回は腹腔内視鏡術式でへそと腹部に点のような穴を開けたのだったが、胆のうの付け根部分が残っており、そこにまだ胆石が数個残っている状態だったのだ。当然数カ月後にはまた痛みが復活し、二回目は開腹手術で胆のうの全摘をする羽目になった。まだある。
胆のうの全摘手術の際に、胆石が十二指腸へ落っこちてしまったのだ。その場でどうにもできずステントを、胆のうから出ている管と十二指腸にセットしておき、後日内科で術式を施す事になった。合計三回の入院手術である。もう悲しみでいっぱいであった。
この手術時のエピソードなのだが「ひょっとしたら父親と意思疎通するの無理なのではないか?」という出来事だ。
全身麻酔のために俺と麻酔科医師氏と父親の三者面談が行われた。その席上で父親が突然、なんの前振りもなく、前立腺肥大で入院手術したと自分自身の病歴を言い出したのである。いや、今この瞬間は俺の麻酔の説明でしょ?意味がわからないと麻酔科医師氏と目を合わせて驚いたのであった。
ここで思った「もしかして、俺が持っている意思疎通の障害を、父親も遺伝で持っており、俺がいつも父親に感じていた苦痛は、それに由来するものなのではないか?」と仮説を立てたのだ。そしたら今までの父親との意思疎通がうまくいかない事や、唐突に怒り出す事にも納得がいったのだった。思い込みかも知れないがそんな気がするのだ。
おそらく障害か病気なのだろう。自覚がないのは大変だ。しかし、病気がさせているのだから仕方ない。辛いのは病識(自覚)がない事だと考える事にした。
すっかり顔見知りになった看護師さんに「半年で三回の入院ってレアだね」とからかわれたのはよい思い出である。ついでだからと掃除のお姉ちゃんをナンパしてしまったが長続きしなかった。女性関係は難しいね。
二〇二〇年になって胆石症からも回復してきた。急激な腹痛や全身麻酔二回と死に近づいた反動からか、メンタルも安定してきた。元気も出てきたのでデイケアに通いたいとなったが、Kクリニックにはまだ前述の声が大きい人がいるため、苦痛で駄目だった。そこで役所の福祉課の人に相談したら旧S病院、県立精神保健センターのデイケアを紹介された。
そこからこの文章へつづく、デイケアでの文芸の日々が始まったのである。縁というか時期というか、このつながりは大切にしたいが、どうしたら大切にできるのかよくわからない。五〇才の今通っているデイケアは居心地がいい、それだけで十分だ。大声を出す人も少ないのが特によい。たまに大声出す人がいるけども、いざとなったらスタッフに注意してもらうように対処すればいい。
相変わらず名前と顔を覚えられないが、顔見知りも増えた。午後の音楽鑑賞は楽しみの一つだ。
この文章を書くため叔母に取材をしたら教えてもらったのだが、横須賀市長井在住である、高校時代の同窓生である花山の母上が脳の病気を患い、認知症になってしまったそうな。令和三年現在デイケアに通ってリハビリ中だそうな。校正をしている令和四年には亡くなったらしい。花山自身とも連絡が取れていないのも切ない。同じ町内で親交があった、叔母と花山母の間柄だからこそ知り得た情報である。
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