エピソード三 小学生の頃

 世間では山口百恵が引退したり、ルビーの指環がレコード大賞を獲得した頃。

 小学校に入学した俺はすっかりグレていた(親の前ではいい子を演じたが)一方で先生や友人には悪態はつく、万引きはする、いじめもした、火をつけるような事はしなかったが精一杯グレていたつもりだ。小学生にとっては最上級の悪さだと思う。

 家庭環境が不安定だと、子どもも不安定になるのを知ったのは、大人になってからなのだけど、当時は精神がすさんでいたと思う。具体的に何かあったかまでは、記憶にとぼしいけれど。

 五〇才の今になって振り返ると、意味不明な衝動に、自分自身が振り回されて大変だった。やけどによる児童虐待の後遺症でADHD(注意欠如・多動症)の症状をしめしており、母子ぼし愛着あいちやく(発達心理学などで、母親と子の間に形成される愛情)の障害ももっているために、問題行動があったのだろうなと思える。

 小学生の低学年の頃で、一番印象に残っているのは、祖母と父親から命令されて学校で嘘を言わなければならない事だった、予防接種をする事になって「アレルギーがあるから断るように」と言われたのだ。

 もちろん俺にはアレルギーなど持ってないにも関わらずだ。

 信仰していた世界救世教のテーマの一つに、医療いりよう忌避きひがある。どういう事かと説明すると、手かざしによる除霊じようれいという行為を、カウンセリングや家族療法のように、根拠ある医療として認めてもらうような機運が世界救世教側にあり、医者や学者にたいして「いわゆる手かざしを医療行為として認めろ」という運動をしかけたらしいのだ。

 しかし、当然のように医療界隈からインチキよばわりされ、手かざしは見事医療行為へと昇格する機会を失ってしまった。その反動による事からなのか、世界救世教の信者にとって、医療行為そのものがNGとなっていたのだ。例えば、輸血を忌み嫌う某宗教のような話であるが、彼らは医療行為を否定したり、医療行為を拒絶している訳ではない。輸血をしない医療機関の紹介制度を用意してあったりするのだ。彼らなりに整合性のあった対応対処をしているのだ。ほめている訳ではないのだが。

 このような馬鹿げた話が、当時は大真面目で語られていたのだ。そのため少年の俺もとばっちりをうけた。医療行為はNG!ダメ絶対。予防接種なんてとんでもないと。

 そして俺は嘘をついてまで、予防接種を断ったのだ。五〇才の今になって考えるに、もう少しスマートな解決方法があったような気がするのだ。例えば、予防接種をしちゃってわざと叱られる、とか。その勇気は俺にはなかったけれども。

 結果どうなったかというと、科学的根拠のない父親と祖母への不信感を持った。信仰のためにとはいえ、根拠のない嘘をつかされたことへの反抗心、嘘をついた事への後悔だった。

 その後、大人になってから予防接種をやりなおすために、抗体検査を受ける所からしたという恨みツラミもある。五〇才の今思うのは、大人の都合で子どもの行動をしばるのは、こいつら大人達は異常者だとしか思えない。本当に宗教は怖い。

 唐突だが、小学校一年生の時に、同窓生で同じ町内の竹脇に「被爆者!」と言われて傷ついた事を思い出した。言っておくと俺は被爆者ではない。

 いきなり竹脇に言われた訳ではない。確かプールの授業後か、体育の授業の後だ。俺が首から下げていたお守り(宗教のシンボル)を勝手に取ろうとしたため、竹脇に「やめろドロボー」とののしったら、「うるせえ被爆者」と言い返されたのであった。

 泥棒呼ばわりした俺もどうかしてると思うが、それはさておき強烈なカウンターだった。それと俺の大事なものを盗むのに躊躇しない子どもの竹脇にも驚いた。

 と、起こった出来事を文章化してみると大したことはないが、五〇才の今でも忘れられない辛い出来事なのだ。

 その当時、クラスの誰も助けてくれなかったし、親や教師に言いつけできなかった。右腕のやけど跡を被爆者呼ばわりされたのだから、抗議の一つだって期待していいのだが、俺はなぜ言いつけしなかったのだろうか?

 親に右腕がどうしてやけどしたのかを聞いたが、はっきりした答えを与えられなかったから、俺にとって右腕のやけどが被ばく跡だと断定できなかったから、なのだ。

 わかるか?この歪んだなりにも論理的な思考が。子どもながら、俺は自分自身の右腕にあるやけど跡について、考え、予測し、察してみようと努力していた訳だ。

 こうして辛い記憶だけが残った。

 右腕に関してはこの一件だけなのだが、なぜかろくな思い出がないと思い込んでいる俺がいる。いや、右腕のやけど跡に関してはこの「被爆者!」エピソード以外たいした思い出がないのだが。歪んでいるなあと思うのだ。

 他にも、小学生低学年の思い出は、何故か腹がすぐ痛くなった事だ。多分、ストレスからくるものだったのだろう。五〇才になっても同じ左下腹部がたまに痛むと、子どもの頃を思い出すのだ。

 小四の頃の辛かった出来事を思い出している。授業中や授業と授業の合間の休み時間にグラウンドを走ると、足裏にするどく刺されるような痛みがあったのだ。あれはなんだったのだろう?

 後年いつだか忘れてしまったが、物の本で感覚かんかく鋭敏えいびんという言葉を知り、それはADHD(注意欠如・多動症)特有の症状だと知り、痛みの原因は脳の発達の問題かと腑に落ちた。小学生の当時にはまったく思いつかなかったし、不快感と不安感がつのっていったのを覚えている。

 確か同じころだったはずだが、弟の勝己が小学校に入学した。いつも遅刻や忘れ物で畑中先生(大正生まれのオババ)に叱られていて、なぜかわからないが、俺にまでとばっちりで「お兄ちゃんだからなんとかしなさい」とむちゃぶりされたのに、俺がキレて「知るかババア!」と思わず叫んでしまった事もあったな。

 記憶がない事件もそういえばその頃にあった。弟勝己の下に死産した性別不明の……とても早期に死産したために、性別がわからなかったらしい……ひじりがいたらしいのだが、その死産の事を俺は記憶していないのだ。

 継母と父親曰く、トイレで倒れた継母を助けた俺がいたそうな。しかし、よっぽどショックな光景を目撃したのか記憶にない。

 記憶にないのは、どうしてだろうかと五〇才になって考えたが、決定的なのは思い浮かばなかった。例えば、血を見るのが苦手だったからだろうとか、思春期特有の乖離かいり(行動や記憶が分断されてしまう事)なのだろうとか、複数の要因からなるから特定できないだろうなとか。ただ、記憶がない事だけは確かだったのであった。

 妹の亜唯あゆが昭和五四年六月、末弟の友樹も昭和五六年一〇月に、俺が小学生の時に生まれている。何故か兄弟が多い継母と父親だなと、当時も五〇才になった今も思うのだった。

 そういえば、友樹は生まれた時呼吸をしていなかったためと、早産だったらしく、母子共々一ヶ月近く入院し、なかなか帰宅しなかった記憶がある。継母の親類が輸血したとか聞かされたのも覚えている。とんだ医療忌避だぜって当時思ったりもしたが、父親の気まぐれだと思えば誤差の範囲かも知れない。

 五〇才の今に考えるに、避妊しなかった父親が圧倒的に悪で、死産までしたのにその後も子づくりに励んだのは、性欲オバケとしか言いようがない。病的か!いや昭和の人だからそういうものなのだろう。と、このように家族が増えれば、より一層「愛されてない俺」感覚は強くなっていった。宗教による条件付きの愛による、ダブルバインド(二重拘束とも言う。精神科の文脈を知ったのは四八才になってから)で俺はすさんで行った。

 そういえば、非行といえば万引き以外にも夏休み最後の頃に家出をした事もあった。どういった経緯で家出したのか記憶がないが、大きな怒りの感情でいっぱいだったのを覚えている。自宅のある横須賀市汐入町から、叔母のウチがある横須賀市長井町まで、一一キロ以上を半日かけて歩いたのだ。小学生が小遣いも持たずに!

写真説明:叔母の家を望む(中央奥)

 途中で布教所の顔見知りのオバサンに遭遇したが、適当に言い訳した記憶がある。引橋という交差点を通過した時は、なんでかわからんが泣きそうだったのを記憶している。

 叔母の家へたどり着いた時に、叔母さんが見せた表情はいまだに忘れられない。しかし不思議なのは、父親にも継母にも叱られなかった事だ。殴られた記憶もない。

 どうしてほしかったか?当時はわからなかった。強い衝動のコントロールを知りたかったが、五十才の今となっては過去の話だ。そういった「訳のわからない力」について言語化して、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。

 そういえば、小学校三年生だったっけ。夏休みに長井のいとこのウチに宿泊した時に、日焼け止めをしなかったため全身日焼けになり、夜中になっても背中のヒリヒリする痛みがとれず、軽度のやけどをしてきゅうりパックをした事を思い出した。子どもの頃から、皮膚はやけどした右腕だけに限らず、全身敏感だったのだなあと思う。

 長井で思い出したので書く。小学生のいつだか忘れているが、叔母の家の前にあるゆるい坂の途中で、クマンバチに刺されたのだ。あれは痛さで死ぬかと思った。アブかハエが俺にたかっていると思って左手でひょいと掴んだらハチだった。左手のひら、薬指のつけねを思い切り刺された。応急処置でおしっこをかけた気もするが、その辺の記憶は曖昧だ。やたらと痛かったのと、不器用な俺でも、ハチを手づかみできてしまった驚きを覚えている。

 ひょっとしたら愛されてるのかもなエピソードといえば、四年生の時に懸垂を十回できた事にやたらと両親がよろこんだ事だ。右腕の肉がえぐれていた俺にとってそれは大きな自信になった記憶があるのだが、一方で右腕のやけど痕についてはより一層複雑な感情を持ったのであった。

 醜い右手への憎しみ、その詳細を語らない両親や祖母への不信、言葉にいい表せない悲しみ、醜さによって疎外されてると思いこむ辛さ、それらの象徴が右腕だった。

 こうしてふりかえると、小学生にしては過酷な環境でよく生きながらえていたなと、感心するのだった。

写真説明:修学旅行の日光東照宮にて(中央が俺。左奥にいるのがしものなおふみ君)

 なんとかして、楽しいことを思い出そうとしている。アルバムを見返してると、毎年の運動会や、六年生の修学旅行ではりきっていた俺の顔が見られる。笑顔ではないがなぜかやたらと楽しかった思い出がある。具体的には記憶がないのだけれど。

 この感情の記憶はあるけれども、具体的な記憶がないという感覚は、成人してもそのままで、五〇才の今になっても困っている。仕事するのに大変つらい。

 宗教を熱心にしないと愛さないという、いわゆる二重拘束(ダブルバインドという虐待の文脈がある)の典型例だと知って、余計に腹がたった。どうしてそういう育て方をされたのかと、父親を小一時間問い詰めたい。未だに父親を殺したい感情に、折り合いがついていないのを実感している。

 話が変わるが、小学生の終盤に、予知夢や頻繁な既視感(デジャブ)を体験していた。授業の内容や、友達との何気ない会話が「あ、これ夢の中でみたやつだ」となる場面が頻繁に出てくるのだった。あれはなんだったのだろう。

 四五才近くになって読んだADHDの本によれば、こういった乖離かいり感覚もよくある事らしく、知ってしまえば「なんだ、これもまたADHDなのか」と腑に落ちたのであった。今がいつなのか分からない不思議な感覚は、五〇才の今思い出すと気持ちが悪いなあ。

写真説明:小学四年か五年の秋の運動会で放送委員をした

 そうそう、またまた四年生の頃だったと思うのだが、クラスの女子に「二重人格!」と唐突に怒鳴られたのもこの頃だった、俺にゃなんの事かさっぱり分からないが、黒い俺の部分と素直でいい子の俺部分の事を指摘してるのだろうが、いまだになんでそんな事を言われたのか分からない。というか、その女子を嫌っていたが積極的に何かした記憶がないのだ。

 死ねという感情と言葉は、割と早い時期から使っていた記憶がある。この呪いの言葉はよくない言葉と分かっているが、俺にとってはとても便利な言葉で感情を表すのに使ってた。認知の歪みを感じるな。ひねたガキだったといえばそれまでなのだが。

 そういえば、宗教の夏キャンプもあった。箱根の施設に寝泊まりして宗教の勉強をしたり、同年代の二世三世信者と親交と信仰を深めるというヤツである。そこで知り合って、その場では仲良くなったヤツもいるが名前を思い出せない。今も信者なのだろうか?それとも無事に抜け出せたのだろうか。

 その後の世界救世教の分裂騒動を伝え聞くに、大人の信者間ですら憎しみの感情があったのに、子どもの信者は白けたか巻き込まれたか。俺は白けた方だ。よかったと思っているが、そもそも自分自身では宗教に巻き込まれたと思っているのだから仕方ない。父親祖母から見たら当事者だったのだろうけど、宗教を「信仰しない」という選択肢が存在しないのは、子どもへの権利の濫用だ。虐待だ。ふざけるな、死ね、地獄へ落ちろ、二度と現世に現れるな。というくらい怒りと憎しみの感情は今も消えてない。過去なのに。

 そんな一方で、俺が第二次性徴期にさしかかると同時に、祖母の影響は消えていく。俺も他の誰も知らなかったが、祖母はこの頃からがんに罹患していたようだ。手遅れになるのは中一の冬だが、逆算するとこの頃には既に祖母の死へのカウントダウンは始まっていたという訳だ。それを当時の俺は当然のことだが知らない。

 話は変わって、汐入の実家に向かって右隣が猫屋敷だった件だ。山崎さんだっけかな?ウチの祖母と仲が悪いのには理由があって、その一つが、家の裏に大量の缶ごみを放置していた事だからだった。猫を複数飼っており、その悪臭や鳴き声もあった。猫屋敷のみならずごみ屋敷だ。今なら行政に頼る事もできるのだが四〇年前は横須賀市は何も対応してくれなかった。俺はそう悪印象は持ってないのだけど、それは山崎さんの俺への態度にも表れていた。いまだに謎である。後年猫に人間の食べ物を与えるのは、腎臓に負担がかかるので虐待だと知ったが、それ以前に多頭飼育・避妊せず・ごみの始末をしないと、三重の意味で猫虐待してたんだなあと、五〇才の今ならそれがひどい事だったとわかるのだ。

 ついでに猫関連の嫌な思い出を書いておく。ある朝ウチと山崎さん家の境目くらいの側溝に、生まれたばかりの子猫の死骸が放置してあったのだ。学校から帰宅したら蛆虫がみっしりとわいており、さらに次の日には大量のハエと白骨化した子猫の死骸が残されていた。あれはなんというか死というか奇妙な何かを見た気がする。嫌悪感とか臭さとかそういうのは思い出からさっぱり消えて白骨化した子猫の遺骸がやたら小さく奇麗に見えたのを覚えている。あと別の子猫の話だけれども、左前足が無くなり、右目がつぶれた子猫が一時期ウチの周辺にいた。おそらく山崎さんの家の猫の一匹だと思えるその野良は、当然のように首輪もせず、かといって子どもの俺から逃げたりせずこびもせず、といった超然とした態度を見せていたのを記憶している。アレも不具者なのによく生きていられたというか、親猫に攻撃されたのをよく生き延びたなと感心したのであった。

 なんなら、父親によく殴られていた自分を重ねて見ていたのかもしれない。

 ついでに他のエピソードも思い出した。近所に白田さんという年齢が一つ上と、ふたつ下の姉妹が住んでおり、その姉となかよく遊んでもらっていたのを思い出す。小学校一年生の頃だったか、いわゆるお医者さんごっこをしたのだが、白田姉曰く「おしりのじっけん」とパンツをぬぎすてて女児のおしりの穴と外性器を見せつけられたものだ。葉っぱや石ころをお尻の穴に入れるような事をしていると、白田妹が邪魔しにやってくるのもいつもの事だった。その外にもおいかけっこをしていると白田姉が「ちゅーちゅー魔人まじん」と言いながらつかまえた俺や竹脇をハグしてぶちゅーする過剰なスキンシップを繰り返していた。こんなん教育に悪すぎでしょ。おかげで俺は性的な何かに目覚めたのが人一倍早かった気がする。

 令和三年年三月二十日、首都圏は緊急事態宣言中ではあったが、春分の日に母校である汐入小学校を敷地外から見学してきた。

 なつかしさで胸がいっぱい……ではなく、特別に感動したり何かフラッシュバックがあった訳でもなかった。考えたのだが、自分の目線の高さが一七五センチなため、小学生当時の目の高さではないためではなかろうか?と、少しかがんでスマートホンで写真撮影をしてみた。が、特に変化は感じられなかった。

 校庭のメタセコイアを見つけた時は若干テンションが上がった。小学生の時見た気がするからだ。しかし枝を伐採されていたため、丸坊主でおもむきはなかったのが残念だった。だが「メタセコイアじゃん、なつかしい」と独り言が口から出てしまった。

写真説明:汐入小学校の汐入駅側出入り口

 さらに、なつかしさは汐入小学校の南東の奥から、緑ヶ丘女子校の入り口方面へつづく、細い階段を登ってる最中に感じられた。

写真説明:汐入小学校を南側から撮影

 汐入小学校の入り口の片方、通称「下の入り口」の写真も撮影してきた。この場所に四十年前くらいの放課後に、謎の教材訪問販売員が立っていたりした。当時の小学生の俺にとっては、たいへん危険で魅力的だったのだが、五十才の今に考えると、商売としてそれは効果的ではあるが、アンフェアだよなと思ったりするのだ。

 ついでに思い出したので書く。たしか小学四年生の時に「しんでやる!」と校舎の階段の途中から窓の外へ、半身を乗り出し叫んだ事だ。

 だがしかし、なんで死のうと思ったのか強烈な感情は覚えているが、その発端となった出来事を覚えていないという間抜けさがある。こういう強い感情は覚えているが、細かい出来事は記憶に残っていない事がたびたびある。

 強烈すぎて思い出から消えないシーンを思い出したので書く。多分小学四年生だと思うのだが、同級生の女子と何か話をしていたら、机の角に股間を押し当ててグリグリしている。俺はピンときたが何も言わずスルーした。まさか男子の前で机の角オナニーする女子とかありえない訳で。見なかったけど見てしまったので記憶は残っている。だが誰がどんな服装でだったか、というような細かいディテールは思い出せない。ああ悲しみ。

写真説明:坊主のメタセコイア

 他にも思い出したので追記する。汐入町と逸見町の境目が「軍艦山」と呼ばれており、軍艦が見える訳でもないのに地元の子どもに地名が受け継がれていたのを思い出した。おそらく地名自体は第二次世界大戦より前に言われていたのだろう、横須賀鎮守府からの伝統なのだろうなと五十才の今思うのであった。

 他にも米屋のお兄さんが野外生活の達人みたいな人で、確かその人からカナブンによく似たハナムグリを教えてもらった気がする。

 小学校五年生の頃。不登校の山田さんを朝に迎えに行くという、ある教師の思いつきに巻き込まれた事もあったので書いておく、はっきりいって苦痛だった。他人の家の前で朝から大声だして「やまださん、学校行こう!」などと呼びかけるとか、呼びかける側は恥ずかしく、呼ばれる側も屈辱だったろうに。そんな事もわからないのかよって思っていた。だから女教師は最低なんだって思ってたのだが、どえらい偏見だよな。

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