エピソード二 幼稚園前から小学校入学前までの頃

 世間では襟裳岬が流れていた頃。荒井注がドリフから脱退して志村けんが加入した頃でもある。

 右腕に大ダメージを受けた俺は、実母にも見放され、心にも大ダメージを負ってしまったようだ。

 この時期に両親の再婚(昭和四九年三月)があって、継母がやってきたはずなのだが、記憶が曖昧で思い出せないほどだ。

 一応、三才児の俺は継母と父親の結婚式に参列したらしいのだが、記憶がないし写真もない。記憶を改ざんして両親は何をしたかったのだろう?ただただ悲しい。

 一方、俺は一時的に育ての親になった祖母に、べったりひっついていたそうな、これまた記憶がない。風呂で祖母のしなびた乳房に吸い付いた姿を見て、祖母は涙を流して悲しみ哀れんだらしい。

 と、そんな記憶が曖昧な乳幼児期も少しすぎ、俺は幼児になりつつあった。ようやくうっすら記憶がある頃にさしかかる。物心がついた頃だ。

 子どもの頃の記憶は「時間に関係なく、いつも夕方頃のさびしさと、理由の分からない悲しみを胸に感じている子ども」だった。それが当時はなんの感情かわかってなかったし、言葉にできなかったし、誰かに伝える事もできなかった。

 今なら言えると思う。乳児期に、実母から見放された悲しみを赤ちゃんの内に昇華できずに、引きずってたのだと思われる。赤ちゃんでも別れや見捨てられる悲しみに無反応ではなく、ちゃんと分かっているのだ。どうやら、全能感があるハズの赤ちゃんや子ども、そこからのイヤイヤ期という正常な発達からは、ちょっと遠ざかってた子どもだったように感じられる。

 令和の今にちゃんとした医者に診察されれば、そうだな「母子ぼし愛着あいちやく不全ふぜん」とでも診断されるだろうか、そして福祉と連携して適切な養育環境へ移行されるに違いない。

 そんな幼児の俺の内面は悲しみにくれ、行動は自分でもよくわからない支離滅裂になっていった。この後、小学校・中学校と年齢を重ねていくうちに、俺はバラバラな行動と、謎の強力であらがえない衝動にかられ、自分でも訳がわからなくなりつつ、奇妙なバランスを保つ成長を続ける事になるのだ。五〇才になった今だからこうして説明がつく。当時はホント意味不明だったし説明もできない。

 物心ついた頃の風景を思い出している。そこは世界せかい救世教きゆうせいきよう(いわゆる新宗教、岡田茂吉が教祖)の布教ふきようじよ(教会施設の事)の応接室。白いソファカバーと絨毯の触り心地が、とても気持ち良かったのを覚えてる。

 布教所には小さいながら池があり、錦鯉が泳いでおり、その水音は静けさの中にサラサラと心地よかったのを覚えている。難があるとすれば信者の一人、通称「田中のババア」が何かと俺にちょっかいを出してくる事だった。

 今考えると、彼女は何者だったのか、さっぱり分からない。同じ信仰を持つオバサンで、俺が何かとぶつかる事もなく、むしろおとなしくしてたのに……何かしらの異常者だったのだろうと、今は思っている。その一方で何かとやさしくしてくれた他のオバ様方もいて……田中のババア、まさか子ども相手に嫉妬してたのか?!それなら納得もできる。俺は内面はともかく、見た目はかわいいかったしな。

 長井在住の叔母へ、俺の幼少期の取材をして明らかになったのだが、田中のババアは「誰に対しても」上から目線で、当たりが強い言動をしていたので、叔母は「もう嫌だ」と世界救世教への信仰を捨てるほどだったらしい。

 つまり、子どもの俺個人へのいじめなどではなく、誰に対しても同じような嫌味をいい、言葉が横柄で語彙が卑猥で、野卑なババアだったのだと判明したのだ。ああスッキリした。

 典型と言い切ってしまうのは辛いが、信仰をこじらせた人によくありがちな、誤認識というか、視野が狭いというかとにかく野蛮というか……五〇年経っても思い出させる嫌味というのは相当なものだったのだろう。この田中のババア、叔母の証言によると、旦那からも蛇蝎だかつ(ヘビやサソリ)のごとく嫌われいるそうだ。

 そういえば、なんで俺は宗教施設の応接間に一日中いたのだろう?

 子どもの頃考えていたのは、祖母が宗教にはまった結果、父母から引き剥がされ宗教のエリートとして養育されてたのだろう。なんて事を考えていたのだが、実は違っていたようだ。

 前述の通り、俺は実母に見放された。田上家には赤ちゃんの俺を養育する権利を得たものの、誰がめんどうを見るのだという話になった。結果、祖母がそれまで勤めていたデパートを退職し、宗教にすがりながら俺を育てた。

 児童福祉は?という質問には誰も答えてくれないし、その言葉は虚空に消える。そういう時代だったと、当時の横須賀市を恨む。なんで宗教が、すさみきった俺の受け皿なんだよ……他に子どもがいない環境は静かで、心にキズを負った俺の療養にはよかったかもだが、養育の場としては極めて不適切だったと断言できる。それしか選択肢がなかったのか。きつい。

 そういう場での教育を受けた。曰く、コーラを飲むと歯が溶ける、駄菓子は毒入り、インスタント麺は手が奇形になるだの。子どもに恐怖を与えているだけだ。おかげで同年代の子どもと適切なコミュニケーションが取れない子どもに育ったよ、皮肉をこめてありがとうを言わせてもらう。

 お陰様で、カルトや新宗教の手法を内部から学ばせてもらったけど、子どもの養育には不適切だという事も学ばせてもらった。深い不信と攻撃性が根付いてしまった。あと陰謀論やコックリさんのようなオカルト好きも。

 いいこともあったのだろうか、あったのだろうな。苦痛しか記憶にないけど。

 朝と夕に祝詞のりとをご神前しんぜん(床の間に神様の掛け軸とひな壇みたいなのをしつらえてある)に正座で奏上する。ウチにとっては当たり前の事だったのも、今考えると異様だったなと思うのだ。

 浄霊じようれいという行為についても語っておこう。何かあると祖母がすぐ手をかざし浄霊をしていたし、俺も祖母相手にしていた。手をかざし、手から見えないビームを照射するのだそうだ。その行為が何を意味するのか、今もよくわかっていない。それによって健康になったとか、ADHD(注意欠如・多動症。年齢あるいは発達に不相応に、不注意、落ちつきのなさ、衝動性などの問題が、生活や学業に悪影響を及ぼしており、その状態が六ヶ月以上持続していることと定義されている)が改善したかとか、右腕のやけど痕が消えた訳でもなく。気休め以外の何者でもないのだが、世界救世教の冊子では、さも何かしらの効果があるように喧伝されていた。瞑想の効果はありそうだけれどもと評価しておく事にする。この手かざしは他の新宗教でも取り入れられているので、見た目的にわかりやすいのだろうなとは思う。評価は保留だけども。

 祝詞も唱えさせられた。「たかあまはがらにたてまつります~」だっけかな、子どもの頃は、意味不明な呪文にしか感じれれなかった。

 五〇才の今考えると、床の間に神様のだい光明こうみよう真神しんしんの掛け軸、右の仏壇に大黒様と先祖の位牌、左側に教主(盟主様と呼ばれていた)岡田茂吉の写真があって、神仏混交というか節操がなかった。檀家の寺関係だけで十分じゃねえかと思う俺がいた。

 宗教の話から離れよう、思い出すのがしんどくなってきた。

 この頃の実家の記憶は苦痛が多い。箸のつかいかたが悪いと父親に木刀で殴られた、めちゃくちゃ痛かったし悲しかった。大人向けのカレーをヒーヒー泣きながら食べていると、なぜか泣いている事に逆上した父親に木刀で殴られた。白黒テレビのチャンネル決定権は祖母が時代劇に決まっていて、アニメや特撮を見れなかった。

 この辺曖昧だが、意味不明に不機嫌な祖母が唐突にテレビを消し、無音無言で夕食を食べた事もあった、何か話そうとすると、木刀か何かで殴られた記憶もある。

 お陰様でいわゆる家カレーは、自宅以外の例えば友人宅のそれでも、食べるのが苦痛になってしまっていた。いや長年、苦痛だった。やっと四〇代になって、自分で料理するようになってから、多少和らいだが、積極的に家カレーを食べたいとは思わない。食事そのものに、とてつもなく苦痛を感じている子ども時代だった。そんなの嫌すぎでしょ。

 カレーはたしか継母が作った記憶がある。もしかして、ひょっとすると、父親が継母に気を使って俺に無理やり食べさせようとしたのか。そういう人だ。

 一方で、継母がやってくる事で、俺にも変化が訪れたようだ。というのも、継母からの証言で、俺がひきつけをよくおこしていたと言われたからだ。児童虐待(やけどと離婚の事な)の後遺症を継母がやってきた事で、ひきつけという形で苦痛を表に出していたのだと思われる。

 このころ昭和五十年一月二十九日、勝己かつみ(弟)が生まれる。俺は母親が取られる恐怖と、このやたらとかわいい生き物はなんなんだと、とまどった記憶がある。

 幼稚園は汐入と横須賀中央の間にあるドブ板通りの裏山にあった、クリスマスかアメリカの感謝祭のどちらかに米軍基地の中を案内してもらって、すごく楽しかった記憶がある。

 皮肉なのだが、弟が生まれてからの写真が異様に多い。俺の赤ちゃんの頃の写真は一枚しかなかったのに、弟は愛されているんだなと、うらやましくて殺意と敵意を持ったのはかなり大人になってから、当時はその感情すらわからなかったが、敵意はあったのを記憶している。

 具体的に何をしたか、ドブ川で後ろから突き落としたり、小学生の時にも殴った気がする。なにせ無意識に殺意を持ってるのでやる事が今思うとえげつない。よくできたな俺。当然両親にバレて父親にはぶん殴られたのだけど。五〇才の今も敵意や殺意があるか?少しの申し訳なさがあるだけ、敵意もなくなってしまった。

写真説明:幼稚園の同窓生との写真。奥左から二番目が俺

 一方、この頃の記憶で強烈に残ってるのは、とても強い感情でともかく泣きたかった。何故か理由はわからない。今なら児童虐待の後遺症で、不安定なのだろうで済む。そうして爆発した感情を泣く事で表現してたが、長井の叔母に嘲り笑われ、埼玉か池袋に住んでいた叔父には写真をとられた。写真撮影ではなく、欲しかったのは多分、共感や抱きしめられる事だったんだろうなと、さらに傷ついた子ども心だった。

 具体的には家族親類総出の墓参りの時に、不機嫌になった俺が怒り泣き出してしまい、俺にもどうしようもなかったのだけど、それを大人連中は面白がって、ちゃんと相手にしてくれなかった件だ。今でも傷ついてる子どもを、俺の中に見かける。

写真説明:祖母と俺。汐入の自宅前で

 この頃のアルバム写真を見ると、撮影された記憶にない写真が結構あって、おかっぱ頭のかわいい顔をしている俺が、ひょうきんなポーズをとってる事が多い。

 撮影された記憶がないのだけど、幼稚園の集合写真があり、よく見るといじめっ子の森平と悪友の竹脇、親友の梅井武夫君も……この頃はシャイボーイだった気もするのだが……幼稚園の同窓生にいたのを確認できる。森平は小学校は別だけれども、顔の特徴が幼稚園の頃から変わっていないのも見られる。俺はどうだったのだろうか?

 そうそう、幼稚園の集合写真を撮影するのに、やたらと太陽がまぶしかったのを覚えているが、それは近眼傾向または自閉症傾向によくあるらしいと知ったのは、大人になってからである。やけどの後遺症による感覚かんかく鋭敏えいびん(五感がするどくてしんどい事)の可能性もとても高いようだ。

 右腕の外傷がきっかけで、目の見え方や音の聞こえ方にも影響があるなんて!そんなオカルトじみた事があるなんて、当時は想像もつかなかった。大人になった今も理解しにくいが、聞こえや見え方に、しんどさを感じているのは事実だ。幼児期にはすでに、その兆候が出ていたとは驚きだ。振り返ってみるものだなと思った。

 そういえば、よく「初恋は幼稚園の先生」と言われるが、俺もそうで担任の田辺先生が好きだった。好きだから何をどうしたとかよくわからなかったが、先生の前だと照れてしまったり言葉遣いが荒くなった気がするなあ。

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