うさぎはねる(1)

手紙。ビオラへ書き綴る手紙に一切の返事はない。少し寂しくはあるが、僕自身もその結果に納得はしている。僕は、彼女の中に世界の完成を見た。彼女の記号にある感情は、深い感謝だ。


記号──記号だけで固められた人生だった。抽象きごうの中にを見出したとき、意識は自己の具象りんかくをなくしてしまった。


“例えばの話になるが──アヒルのように見え、アヒルのように泳ぎ、アヒルのように鳴くならば、それはアヒルといえるか?”


面影すら覚えてない父の言葉。それは僕にとって大切なことだ。記憶の奥底でくすぶり続けている消せない落書き。


僕の世界に陳列された他人アヒルの模型は、確かにアヒルとして上手く機能している。


妻。4人のメイド。捕虜の女。その妹。おまけのヒトモドキ。現実という感覚が脳の虚構にすぎないのであれば、頭の中は情報子アヒルの学芸会だ。しからば、現実の全ては、学芸会フォアグラをつくるための強制給餌ガヴァージュということになる。


最も惨めなアヒルを呼ぶ、控えめなノックの音。


現実は、淡々としている。ビオラは僕を見限り、ウサギはここに残った。その全てが、変わることのない過去だ。心を震わせる悲しみがあるとしても、認めなられない現実が立ちふさがろうと、「事実」は受け入れなければ生き残れない。戦場で学んだ唯一の処世術だ。


僕は過不足なく、ただとして試行を繰り返す。全ての過程くるしみは、損失関数を最小化するパラメータの探索にすぎないのだから。


「旦那様。お時間ですが、今夜はどういたしましょうか」 

「ああ──入って」


ワゴンを押して書斎に入った彼女は、少し落ち着かない様子であたりを見回した。紅茶とマカロンとメイド服のウサギ。書斎の前に二つイスを並べて、彼女へ座るようにと促した。


「緊張してる?」

「はい。場所が変わったので、少し」


防音、密室、二人きり。やることは夢に出てくる女のモノマネ。ウサギはメイド服の腰ポケットに手をやると、無意志に僕がプレゼントした懐中時計を握りしめていた。


誠実さというものは、何よりも大切なことだ。


「そうだな。どこから話そうか」

「何か興味深いことは分かりましたか?」


彼女はそう言いながら、紅茶にたっぷりのミルクを注ぐ。その様子を見ながら僕は、袖机に入っていたを取り出した。給仕が終わった彼女の手に、どうぞ、とその塊を2粒ほど載せる。


「ありがとうございます」


彼女の前でラムネ菓子を口に含むと、ウサギは疑うこともなくそれを口に運んだ。ゆっくりと、時間の経過を確かめるように息を吐く。


勿体つけて口を開いた僕は、一つの仮説を口にした。


「いしきは僕のことが好きで、僕はいしきのことが好きだ」

「と、……いいますと?」

「文字通りの意味だよ。僕と彼女は、互いに好意を抱いている」


ウサギは少し考えこむと、阿呆をみるような目で僕を見た。


「彼女が旦那様に好意を抱いていたことは、今までの言動から明白だったと思いますが」

「明白? ただそれは、好意があるように見えていただけだ。観測的事実と本人の証言。近づいてはいるが、まだこれが真実であるかどうかは疑わしい」

「旦那様にお聞きしたいのですが、旦那様にとって好意が真実かどうかは重要なのですか?」

「……それは、難しい質問だな。不安定な感情を前提に、他人との関係性を評価することを僕は好まないけれど、安定な感情がどれだけあるのか僕は知らない。腹が減るように人を愛して、満ちれば興味がなくなることもあるだろう」


沈黙。彼女の目の前にいる僕は相当に思いつめた顔をしたのかもしれない。彼女が生唾を飲み込む音が、音のない書斎でただ一つ響いた。


「ところで、君は僕が好きか?」


彼女は僕を見る。僕が彼女を見る。用意されたフレーズが、思い出したかのように再生機プレイヤーから再生される。


「旦那様のことは、尊敬しております」


彼女の仕事然とした冷徹な顔が、僕の前で壁をつくる。それをじっくりと、まるで品定めでもするような目で見つめてから、表情を崩して言葉を出した。


「僕は君に女性として好意を抱いている。美しい容姿も、他人を思いやる優しさも、誰もが羨む魅力があると感じている」


彼女の鉄面皮が少し崩れた。年相応の、まだ夢見る時代を忘れられない女の顔だ。


「そう言っていただけるのはありがたいのですが……」

「いいや、君は分かってないよ。『好ましい』という感情に、それ以上なんてない。花をみて美しいと思う。好きなものを食べて幸福を感じる。そこに見返りを求めるのかって? 馬鹿らしい。ただこれは、自身を規定する『宣言』だ」


すみのいしきという少女は、僕へ好意的にふるまい、僕を好きだと宣言した。つまり彼女は自分の意思で、この世界に表現したいをそう決めたのだ。


「君は仕事に恋愛感情を持ち込みたくない。そうだろ?」

「はい」

「しかし君は、『すみのいしき』を演じている」

「……これは、演技ですよ」

「それはそうだ。だから許される。偽物だから──僕と君の関係は、そういうものだ」


眩しそうに中空を見つめながら、彼女の瞳がゆっくりと震えるように動く。僕が声をかけると、ハッとしたかのような表情で熱っぽい視線を向ける。


「それじゃ、今から簡単なゲームをしよう」


イスを隣に移動させる。彼女の右手が、僕の声に従って差し出された。その手首に指を這わす。虚脱した彼女の手をしっかりと支えるために掴んだが、彼女は抵抗の様子を見せるそぶりもなかった。


「今からやるのは、文字あてゲームだ。手のひらに何を書いたか、当ててみて」

「いしきちゃんと……分かりしました」


彼女は納得がいったかのようにほほ笑むと、いつもより上体を僕に近づけて囁くように声を出す。


まずはひと筆。

次にまっすぐ。


最後に円を描くように。



あ。



ひらがな一文字を手のひらになぞり終えると、彼女はまぶたを2、3度ぱちくりとしながら僕をみる。


戦場では奇妙な遊びが流行る。特に極限状態の部隊となれば、その異質さは尚更だ。睡眠薬トリアゾラム過剰摂取オーバードーズした状態での「ひらがな当てゲーム」はその最たるものであった。


「えーと、えーと」

「お疲れみたいだね。体が辛いなら、少しだけよりかかってもらえるかな?」


隣に座る彼女の手首を合気道の理合で掴むと、彼女の上体が固定されたまま僕の方へ倒れ込む。ウサギは疑う様子もなく、僕の肩に頭をあずけている。


「すみません……」

「それより、文字だよ。文字。答えてもらって良い?」

「え……あ、ごめんなさい。うっかりしていたみたいで……もう一度おっしゃって頂いても?」


彼女はとろんとした顔を僕の肩の上に寄せながら、耳元でゆっくりと息を吐くように声を出す。少しこそばゆい感覚もあったが、僕はそのまま続けることにした。


「文字あてゲームだよ。もう一度書くからちゃんと当ててね」

「はいっ」


書き順は丁寧に。ひと筆ずつ、ひと筆ずつ、ゆっくりと。


ほ。


「んと、んと、えーと。ごめんなさい。分からないです」


弛緩、瞼のけいれん、眼振がんしん、そして健忘。これらは全てBZDベンゾジアゼピン系受容体作動薬の副作用として見られる症状だ。


特に、短期記憶障害の発生の有無は、向精神薬ラムネに対する耐性を確認するのに最適だった。僕たちの班では、スタンバーグ記憶課題の一種として、ひらがな当てゲームを採用していた。


「別にいいさ。上手くいかない日だってあるよ」

「……ごめんなさい」


しゅんとした顔。


腰に手を回して上体を安定させると、まるで耳を寝かせたウサギのような表情で体を寄せる。彼女のその冷たく小さい手のひらを、ほぐすように優しく撫でた。


「旦那様ぁ……」

「君は触られるのが好きじゃないはずだけど、恋人ができたら手を繋ぐかい?」

「手、つなぎたいです。好きな人には、触れて欲しいです」


きっと彼女は、僕の手を振りほどいたことなんか忘れているに違いない。「人にれるのも、れられるのも好きではない」と、僕をたしなめたことも、今少しの間は忘れることにしよう。


現実はこんなものだ。そこに一貫性は存在せず、僕自身でさえもその場しのぎの言葉ノイズ遊びを繰り返している。


彼女が僕の顔をのぞき込む。合わせた手のひらがしっかりと握り返された。冷たく、あたたかく、熱っぽい手の感触だった。


「ひとつ質問させて欲しい。僕は君が好きだ。好意を抱いている。君は僕に対してどれくらいの好意がある?」


悩む彼女の顔。つながった指先をほどくと、悩んだ顔が残念そうな顔に変わる。そのままウサギの両手を彼女の膝に置き、指先で数字を数える真似をした。


「たとえば、10段階で好意を表すとしたら?」


彼女は膝の上にある軽く握ったこぶしを開くと、右手の人差し指から順番に動かし始めた。


「半分くらい?」


片方の手がパーになる。少なくとも半分よりは上の評価らしい。今度は左手から順番に動き始めた。6、7、8、9。


そこには、開ききった両の手が置かれていた。


「予想外だ。思ったよりも好かれているようで嬉しいよ」


恥ずかしそうな顔で彼女は僕を見る。彼女は今、正気じゃない。いつもより正気じゃないくらい安心しきって、恐れ知らずで、素直なだけだ。


僕は彼女が好きだ。彼女だけが僕の誠実さに応えた。相手を対等に敬い、思いやりを忘れず、相手の心を理解するために言葉を差し出していた。


美しく保たれた彼女の髪が、その白い肌に張り付く。静かに瞼を閉じたウサギは、僕の身体に体重を預けると穏やかな寝息を立てた。

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