罪の意識(3)

動揺する表情を浮かべるアリスの隣で、ダイナは僕が提示した「お願い」に対して小さくうなずいた。


彼女たちとの話し合いは円満に終わった。捜査への協力や、研究に関する情報提供も惜しみなく行える状況ができた。


コンコン──控えめなノックの音が、目的を終えた書斎に響く。


彼女たちが退去したあと、しばらくして部屋へやってきたのはウサギだった。扉を開けて僕の無事を確認すると、ほっとしたような息を漏らした。


「君が入れてくれた紅茶のおかげかな。上手くいったよ。心配させてすまなかった」

「左様ですか」


いつにもなく畏まった表情で微笑むと、彼女は配膳ワゴンに空いたカップとソーサーを載せていく。


「旦那様は、自分自身を無力な存在だと思うことはありますか?」


ウサギの口から放たれた言葉は、感傷的というか、普段の彼女からは想像もつかないほどに頼りない声だった。


「そんなのは、しょっちゅうだよ──だけど」

「だけど?」

「無力なままで居たくはない、かな」

「……そうですか」


彼女の手が強く握りしめられた。それは怒りのようにも、悔しさのようにも、悲しさのようにもみえる。誰かが、「哲学の起源は、自己の弱さと無力を認めることである」であるといったらしいが、その言葉をふいに思い出すほどの凄みがあった。


「僕は君に感心してばかりだけど、君は自分自身が不安かい?」

「そう、ですね」


配膳ワゴンの傍で中腰に動く彼女。スカートの布地が丸い臀部の形をなぞってみっしりと浮かびあがる。僕の欲望と、それを否定する彼女。残念ながら、これは既にたどられた結論である。


「『もし神がいないとしたら、そのときは僕が神だ』」

「キリーロフですか?」

「『悪霊』という作品において、キリーロフは自殺こそが自由意志の表現だと考えた。つまり、神の意志の否定をもって、人が真に自由足りえることを体現できると」

「賛同できませんね。恐怖を押し殺してまで神を否定する必要があるでしょうか? 生きることが無条件に肯定されるべきだとは思いませんが、少なくとも下らない命の使い方だと思います」


彼女の母親は病気だった。そして安楽死を選んだ。彼女からすれば、キリーロフの主張は恐らく耐えがたいほどに贅沢な悩みだ。


「それだ。命の使い方」

「どうしましたか?」

「僕が知る限り、命の最も一般的な目的は『幸福の追求』だ。自分のイカれた主張を表現するためでも、誰かを貶めるためでも、ましてや欲望を無差別に満たすためのものでもない」

「旦那様も、幸福を望んでいますか?」

「──いや、全く。つまらないものは嫌いだから」


彼女は唇を2、3回動かそうとして、言葉を発するのを辞めてしまった。


「苦しくないですか?」

「苦しいけど、生きるのが苦しくて困ることって何?」

「辛くないですか?」

「辛いけど、生き残れたね」

「……私は、旦那様のそういうところにたまらなく憧れます。きっと、私の母が旦那様のような人間であったならば、今もきっと、生きていてくれたのだろうと思わずにはいられないのです」


彼女は目を伏せると、ステンレスのお盆を体に押し当てて自らの身体を掻き抱くように漏らした。


「僕だって痛いのは嫌いだよ。死ぬまで耐えられるだけだ」

「──それがたまらなく、凡人には恐ろしいことなのです」


彼女の呟きは、まるで何かに縋るような言葉でもあった。



久しぶりに夢を見た。それは、女が幸せだと漏らす現実の一幕だ。布団の上、微動だにせず寝る男。一切の接触を拒絶され、ただ男は金を生み出すだけのシステムになっていた。


朝7時。起きる時間だ。女は男に夜12時から朝7時まで「停止」するように命令した。起きる──朝が始まる。最愛の妻の隣で、僕は静かに時間を数えていた。


ベッドの隅で寝ている彼女は、とても穏やかな寝顔だった。僕が否定された世界で、とても満足気に「幸せ」と漏らした。


再び夜が来る。彼女の息遣いがする。電気を消した部屋で、静かな寝台で、独り自分の罪を考える。罪──哲学者ヤスパースは、罪を4つに分類した。刑事犯罪、政治上の罪、道徳上の罪、形式上の罪。


彼はこれらが密接な関係にあることを説明し、罪に対してひとつの仮説を提示した。


「我々人間が、『形式上の罪』を脱することができるようになるとしたら、我々は天使となり、他の三つの罪の概念は該当する対象を失うであろう」


ふと気付けば、そこには彼女がいた。いしきだ。ひらひらと手をふる彼女は、僕が気付くと寝台の方へ近寄ってくる。ベッドは独り。その景色は僕が知る、いつも通りの屋敷の部屋だ。


「今日は、少し早すぎるんじゃないか?」

「記念すべき日ですよ旦那さま。こんな日に気持ちがはやらないなんて、男がすたる!!ってやつです旦那さま」

「君は女性だろう」


たわいない会話、たわいない言葉。この時間が永遠に続けばよかったのに、そう思えるのがきっと幸福を求めるということなのだろう。


寝台の傍にある丸机。その上には、見慣れた古い手帳があった。いつもなら鍵をかけた机の中に大切に閉まわれている。記憶は定かではないが、睡眠安定剤を服用した後に見返したくなって取り出したようだ。結局読まずに置きっぱなしにしたそれを、懐かしい気持ちで手に取った。


久しぶりに見返した手帳の最後のページ。ボールペンで殴り書きされた羅列があった。


「死んだ家族に会いたい」

「優しくて可愛い彼女が欲しい」

「巨乳の女と結婚したい」

「金持ちになって屋敷でメイドを雇いたい」

「金持ちの紐として楽に人生を過ごしたい」

「死にたくない」


最後の文。二重丸で囲まれた最後の一つは親友の言葉だった。そのメッセージを指先でなぞり文字を読む。


「『命を懸けてでもやりたい』と思えることを見つけろ」


手帳の最後のページに並んだ言葉は、天涯孤独てんがいこどくだった戦友たちの遺言だ。幾つかの項目は、既にチェックが付けられていた。


「旦那さまは、何を見ていられるのですか?」

「──秘密」

「それは、旦那さまにとって大切なものなのですか?」

「分からない。ただ、残りの人生の全てだ」


いしきはそれ以上深入りせずに、顔を逸らして「そうですか」と言葉を濁した。思えば、彼女の横顔は死んだ妹にそっくりで──これなら、最初の項目は達成したことにしてもいいかもしれない。


……死んだ妹にメイド服を着せて興奮する兄。再開を喜ぶには少し倒錯が過ぎる状況だ。


彼女は、意を決したように顔をあげると、僕に対してか細い声で問いかけた。


「旦那さま、私の罪は何だと思いますか──?」

「生まれてきたこと。それが君の罪の全てだ」


望まれて生まれてきて、生まれながらに呪われている。


「私は一体、何を捧げればゆるされますか?」

「罪を抱えて生きるべきだ。君はそう──望まれたのだから」


彼女はじっと、何かを耐えるような目で僕を見た。快活な彼女には似合わない、どこか恨みがましさを感じさせる顔だった。


「それは、ゆるしを求める人間の顔じゃないよ」


突き放したような僕の声は、少女の返事をまたずに意識の奥底へ消えていった。

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