失われた真実(2)

夜。睡眠安定剤を飲み干すと、すみのいしきがそこにいた。


「お疲れ様です。旦那さま」


彼女は窓際で空を眺めている。良いお月さまですね、とこぼした彼女の姿は、今までにないほど幻想的だった。月明かりに照らされた青色のメイド服のすそが、妖精の羽のように淡く揺れた。


「いしきは、僕が好きか?」


彼女はこちらを振り向くと、一瞬の迷いもなく。


「ええ、私は旦那さまが心の底から大好きです」


ニコリと微笑んだ顔は底抜けに明るかった。きっと何度聞かれても、きっと何度否定しても彼女は機械のようにそう答えるのだろう。彼女はそういうもので、そう望まれて生まれたのだから。


「どう──答えるのが適切だろうか」


場違いな質問に彼女はきょとんとした顔をした。こめかみを指先で抑えながら、何やら難しい顔をしながら「どう?」「どうって……」と反芻している。


「例えばですが、『僕も好きだ』とか『どうして好きなんだ?』とか、『いつから好きなんだ?』とか……『』のあたりが旦那さまっぽい返答ですね」


彼女はきっと、僕の気持ちなんて丸わかりだろう。


「僕も好きだ。いしきのことが大好きだ」


だから僕は、ただ心に浮かぶ感情をあるがままに口にした。


「今日の旦那さまは、とても情熱的すぎてキュンキュンします」

「けれど、僕が愛しているのは妻だけだ。そして失敗した」


窓枠から離れたいしきは、寝室にある本棚の傍へ歩み寄る。彼女が空に手を伸ばすと、突然現れたブリキの王冠がコトンと静かな音を立てて絨毯の床に落ちた。


「失敗? 旦那さまにとって失敗とは何でしょう。望みどおりにいかないことですか? 過去に戻れないことですか? それとも、未来が黒く塗りつぶされたことですか?」


彼女はじっと、そのエメラルドの瞳を月光に揺らめかせながら、興味もなさそうに僕を見た。この問いは真理に近づいている。僕はそれを確信せざるを得なかった。


「そうか……僕は手詰まりだったのか」

「ええ。それはもう、どうしようもないほどに間違いなく」


彼女は無価値の王冠を白い指先で優しくつまむと、カチューシャを外して迷わず自分の頭に付けた。


「ははー、私は王様だぞ! ひかえーい!!」


彼女が中空にVサインを放つ。僕はその様子を無言でみつめていた。彼女はそのままの恰好で、深呼吸が優に三つはできるほどの時間を静止した。


「もー、ノリ悪いなぁ」

「──悪いが、君にそれを被る資格はないよ」


冷たく言い放つと、僕は彼女を睨みつけた。僕の中にある憎悪のさざめきがたっぷりと瞳の中で蠢く中、彼女は恍惚とした表情を隠そうともしない。一呼吸で甘い息を吐いたかと思うと、その両の手が腰布スカートをたまらず絞り上げた。


「んっ……」


彼女はしばらく硬直したあと、熱に浮かれた表情を残しながら頭上の冠を静かに下ろした。


「どうぞ」

「それで良い。王冠は、望まれて生まれてきたものを祝福しない」


彼女がふらふらと近づいてくる。上体を起こした僕に王冠を被せると、彼女はその赤い顔をみせないようにテトテトと早歩きで本棚まで戻った。


「ご無礼を、いたしました」

「座れ。僕と会話を続けろ」


彼女は少し落ち着きない様子で腰のあたりを動かしながら、本棚の近くの脚立に座り込んだ。


「んーもー、旦那様も分かってると思いますけど、こういうシリアスなのは私のキャラじゃないんですよ」

「口調はどうでも良い。続けろ」


はー、とため息を一つ彼女が放つ。メイドは主人の期待に応えるものだ、と続けると彼女は諦めた顔で、僕との会話を再開した。


「奥さまは旦那さまを愛していましたよ。それこそ、結婚してくれるくらいには」

「……どうして、上手く行かなかった?」

「好きなところと嫌いなところがあった、ってだけですよ。それは、愛するとか愛されないとか、全く関係ない話じゃないですか。──それにですよ、本当に上手く行ってなかったんですか?」


お前は何を、と言葉をこぼしたところで、彼女は目をつぶって何かを思い返すかのように言葉を続けた。


「旦那さまは奥さまの期待に十分応えた。旦那さまも奥さまも変わらずお互いを愛している。ハッピーエンドなんですけどね本来は」

「僕は命がけで、しか入ってないくじを引いた」


脚立に腰かけた足元は、ぶらぶらと落ち着きなく揺れている。彼女はじっくりと時間をかけて、正解を口にした。


「満たされなかった?」

「あぁ。双方が考える完璧に期待通りの答えをだして、僕の人生は終わった」

「それなら話は別です。終わった物語をもう一度始めようとしているのですから、悪魔に魂売るくらいは序の口ですよホント」

「ようは、お前だ。いしきが目の前にいればいい。僕と妻とキミ。それで僕の人生は再び始めることができる」 

「でも、無理じゃないですか。私は旦那さまの妄想ですよ???」

「それは違う。僕の脳みそにいるだけだ。それを外側に移せば良い」


僕はきっと、いしきを昆虫のような視線でみた。彼女はその視線にたじろいだが、負けじと強い言葉で応戦する。


「『愛』は現代における賢者の石なんですよ? 分かりますか? すべてを解決する全知全能の概念! あらゆる困難とあらゆる恐怖を乗り越える奇跡、それは愛ッ!」

「いいや、僕の愛は『罪』を前に敗北した。彼女つまは不完全だった。立ち上がる足を持たなかった。そして、僕の英雄的献身がを明らかにした。たしかに、アレの代わりならいくらでも転がっている。それでも僕は心から彼女を愛したかった。それが僕の愛だった。うずたかく積み上げた、僕の誠実さだった」

「諦めてください」

「それはとても魅力的だ。だが、この王冠がそれを許さない。僕だけが無価値でなければ、全てはブリキの王冠に飲み込まれる。無価値な僕が罪を犯して、愛のために価値を刈り取る儀式をする。それが最も、犠牲の少なくなる方法だ」


いしきは張り付けたような笑みで、僕を見つめている。


「自分の命だけじゃ足りなかったら、他人の命も使おうってことですよね? なんて傲慢な旦那さまでしょう」

「違うよ。僕にとって最悪の結末は、ことだ。傷つけないことに価値があるから、奪うことを『犠牲』と呼べるんだ。大事な花をただ手折ることは傲慢で済む話だが、花の蜜を吸うことでしか生きられないモノであれば、僕は食事それを必然と呼ぶしかない」

「──そうなったら、旦那さまはどうするんですか?」

「別に、そうするだけだ。僕は真理に従う」


道端にたくさん落ちているものを『大切だ』と言われたからそう認識しているだけだ。それが真理であれば従う。それが真理でなければ、道端にたくさん落ちているという事実だけが残る。


冷めた目だ。彼女はしばらくの間、沈黙した。


「大したことじゃないよ。人間関係で多幸感を得ようするだけだ。それがどうやって実現されるのかは、本当に、大したことじゃないよ」

「素直に『愛されたい』と言えないのが、旦那さまの格好悪いところですね」


王冠を床に投げ捨てると、僕はそのままベッドに身を預けた。ベッドの上で、ただ、ぼーっと天井を見つめてみた。


「そうだね。君の言う通りだ」


格好悪いから、格好良く生きたかった。誰に聞かせるでもなく、僕はそう呟いた。

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