腐った中身(偽)

その日、中身のない卵が割れた。


「僕は善人だ。僕は誠実だ。僕は努力家だ。だから救われなければならない。この世の全ての命は、僕を救済するために存在している」


どこまでも自分勝手な言葉が、どこまでも乾いた心が、どこまでも滴る欲望が、僕という存在を満たした。


「しかし、現実はだ」


現実は、僕のあり方を認めない。だからきっと、僕はウサギが来るより早く目を覚ましてしまった。


いつものように朝食を食べ、いつものように仕事をして少し休憩した。ウサギと一緒に昼食をたべ、いつもより長い昼休みを彼女と一緒に過ごす。


ソーサーの上に置かれたカップには、琥珀色の紅茶が並々と注がれていた。


「昨日も夢に『彼女』がでた」

「いしきさんですか──分かりました。お話を伺いましょう」


いつも通りではあるが、少し呆れたような顔でも彼女は僕の話を聞く。これは既に彼女の業務であると同時に、ときに感情を震わせる何かが、経済的合理性ビジネスになることをウサギは理解していた。


「とはいっても、僕が一方的に主張しただけだ。彼女が消えたら寂しいけれど、寂しさの克服に僕は価値を感じていない。そうだ──罪の意識。僕は彼女と罪の意識を克服する方法についても話した。僕はただの雑学マニアだけど、君は哲学科を卒業していたね?」


ウサギは静かに首を縦に振った。


「『罪』の問題は一般的に神学で扱われることも多いが、哲学者による言及といえば、ヤスパース。僕が知っているのはカール・ヤスパースくらいかな」

「『責罪論』ですね」


ヤスパースの責罪論。「第二次世界大戦の敗戦国ドイツ」として、ドイツ国民は戦争の罪にどう向き合うべきなのかという精神態度を論述したものだ。


聞きかじった程度だという断りを先に入れて、彼女にうろ覚えの浅い知識をひけらかした。


「ヤスパースの責罪論で、最も深い洞察を与える概念は『罪の区別』だ」

「刑事犯罪、政治上の罪、道徳上の罪、形式上の罪、の4種類ですね」


流石という感想が口から洩らすと、ウサギは少し得意げな顔をした。


刑事犯罪は法律違反を指す。いわゆる事実に基づいて客観的に判断される一般的なものだ。政治上の罪。これは第二次世界大戦においては「敗戦国の国民」という所属に基づいて判断される罪だ。道徳上の罪は、自己の良心や道徳的観念に基づいて判断される罪を指す。


「『形式的な罪』──僕はこれをあまり上手く説明できないんだけど、いわば『人間関係に伴って表面化する罪』だと理解している」

「そうですね。例えばですが、私が旦那様に肉体関係を迫られたとしましょう。私が断ると、旦那様はしょんぼりして帰っていきました。私は悪いでしょうか?」

「いいや全く。それは君の自由だし、道徳的な正しさも君にあると思うよ」

「ですが、『旦那様の期待に応えられなかった』という点に関して、私は1人の職業メイドとして、その事実を見つめ返さずにはいられないのです」


ドヤァ!みたいな顔をしてるが、間接的にフラれた僕はめちゃくちゃ傷ついている。


「……まぁ、例えがあんまりではあるけれど、僕もおおむねそんな理解だ」

「それで、旦那様。『罪の意識』を克服するというのは、どういうことなのでしょうか」


彼女は興味津々といった顔で、僕が紅茶を飲み干す仕草を待った。


「克服というよりも悪用かもしれない。この世界中のあらゆる人間は、『可哀そうな僕』を助けるために存在しているんだからもっと頑張るべきだろ?」


彼女の表情が、パチくりと、まるで鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。


「旦那様は中々独特のお考えをお持ちですね」

「僕は本当に昔から完全無欠の正義で善人だったから、理性のブレーキが死んでるんだ」

「やべーヤツ、というご理解で問題ないでしょうか?」


冗談だよ、と付け加えて残りの紅茶を飲み干した。


「君はさわられたくないといった。僕がそれを理解した以上、君の嫌がることはできない。だって僕は完全無欠の正義で善人だから」


その言葉を一つ吐いて、現実の僕は彼女に対する性的興味を完全に黙殺した。


「誤解されたくないので一応念を押しますが、人に触られるのは男女問わず苦手です。旦那様に限った話ではございません」


ため息を一つ吐いて、髪を掻き上げた。



「それは嫌われているよりも恐ろしい話だ。もし僕がとしたら?」



他者の存在と自分の欲望を天秤にかけるのだ。完全無欠の正義で善人な僕が。


「清く正しく間違わずに生きたかったのに、この世界は僕の欲望に追いついてこれなかった。そういうことさ」


それは諦めにも似た、辛酸を舐めるだけの選択だった。僕は妻を愛していた。妻もきっと、僕との結婚を選ぶだけの愛はあった。彼女はそれでも欲望に捕らわれていた。愛で彼女を変えることはできなかった。彼女の言葉を要約すると、「思い通りにならないのであれば、それが愛だなんていえるわけがない」だ。僕と彼女はきっと、同じ幻想を愛に夢見ていた。


逆説的ではある。満足しなかったのであれば、それは十分に愛されているとはいえない──だからこそ、僕はこの身を捧げて彼女の欲望を奪った。妻を、


愛。


最後に選ばれることを他人へ祈れ──それが人の世のことわりだった。けれど、何度口汚く罵られても僕は理解できなかったし、僕は理解したくなかったのだ。


「旦那様は悩んでいるのですか?」

「僕はさ…馬鹿なんだよ。寂しいけど、他人に振り回されるのが嫌いで、やっぱり独りだと寂しいんだ」


彼女は冷めた紅茶に手も付けず、しっかりと僕の話に耳を傾けた。


「なまじ能力があるから諦めきれない。妻がいた。3人のメイドが去った。そして、いま目の前に君がいる。けれど、僕は満足できなかった。いつも何かが欠けている。奪うのは簡単だった。押し付けるのも簡単だった。だけどそれは、いつも一時しのぎだ。君を傷つけても奪っても、君を大切にしたい気持ちに嘘をつくことになる。僕はいつも問題を解決したかった。僕という欲望と他人という幻想を、完璧に調和させたかった」

「旦那様は……愛されたかったのですか?」


これはあくまでニュアンスの問題だが、と断りを入れてから独白のように呟いた。


「愛されるという行為は、愛があるだけでは足りなかった。食卓に並ぶ家畜のように、捧げるために存在するシステムが求められた。『すみのいしき』は恐らくそれだ。あれが他者の特徴を内包している理由は、僕自身のシステムによって僕以上の何かを求める必要があったからだ」


物語の必然性はリアルだ。男が愛した少女は退屈を抜け出したかった。知り合いの数学教師が話す珍妙な物語。少女は男の言葉に目をキラキラさせて、冒険の世界へ旅立っていく。


必然性──不思議の国のアリスにおいて、必然性とは何か。アリスが白兎に出会ったから不思議の国へ行けたのか? 違う。アリス・リデルが不思議の国へ旅立つために、アリスは白ウサギに出会わされたのだ。彼女を喜ばせるために、そのウサギは作者かれの手元から放たれた。


彼は少女を愛した。しかし、満たされることはなかった。彼女は男を信頼した。しかし、それは少女の純真さでは測れないものだった。


我々は物語に退屈を求めない。胸躍るような冒険を、身を焦がすような恋愛を、そして大いなる世界の可能性をそこに求める。


「──知ってるか? 『すみのいしき』の好きな食べ物は、かぼちゃプリンなんだ」

「それって、私と同じですね」


情報子ミーム汚染。第三次世界大戦の引き金を引いたのは、人類に対するソフトウェア的なアプローチだった。

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